百名哲『モキュメンタリーズ』1巻


 「高校時代の伝説の先輩」というカテゴリーが自分の中でえらく響いてしまった。
 本作第3話「野宿の墓」に出てくる、「オーホリ先輩」の「伝説」はこうである。
――夏休みに北朝鮮へ単身密航。
――ヤクザが抗争中の福岡の繁華街で野宿。
――そしてイケメン。
 安野モヨコの『ジェリー・ビーンズ』に出てくる蘭堂もこんな感じ(こんな「伝説感」)と言っていいのかな。
 ぼくも進学校の高校生だったけど、こういう先輩いたわ。
 ちょうどぼくが入学した時、高校3年だった、その先輩。
 そういう「高校時代の伝説の先輩」。
 ぼくの「高校時代の伝説の先輩」が、今何をしているのかはしらない。進学校にありがちな話なのかもしれない。


 ただ、そこから四半世紀がたって振り返ってみると、その「伝説」はどういうポジションになっているのか。その無残さについても考える。


 山形浩生がこんなことを書いていた。

当時のぼくのまわりは、ぼくよりはるかに頭のいい連中ばかりだったからだ。高校生ながら異様なプログラムを書き、信じられないような絵や詩を書き、生徒会などで驚異的な組織力を発揮し、先鋭的な思想や知識に精通し……ぼくはずっと、この連中にはかなわないと思ってきた。

http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201201090192.html

そして高校時代に戦慄させられた同級生や後輩、いまやぼくの遥か先を行っているはずの連中に20年ぶりに会ってみると……その多くは当時と同じレベルで止まっていた。ぼくがずっと追いつこうとしていた背中の多くは、実はそこにはなかった。

http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201201090192.html

 高校時代に「スゲエ」と思っていた人たちが、高校時代のままで止まっている、という話を印象的に読んだ。


 ぼくは、いわゆる「いいところの大学」を出ながら、大企業にも入らず(入れず)、弁護士のような専門職にもならず(なれず)、(それらから見れば)低い賃金の職場にいる。政治思想についても高校時代は高校生としてそこにいるというだけで「過激」さをアピールできた政治団体に属していたが、そのままそれを引きずって現在までいる。……とまあ、人様から見れば、ぼくもこう見えるのではないか。


 つまり「高校(若い頃)のままの価値観をこじらせてしまい、人生選択に失敗した人」と思われているかもしれない。ぼくの人生を、他人からの視点でそう総括することもできるだろう。


モキュメンタリーズ 1巻 (HARTA COMIX) 本作第3話「野宿の墓」に出てくる、ドミグロがオーホリ先輩を高校時代から慕い続け、高校時代からひょっとしたらその価値観のまま、あるいは少なくともそこで「こじらせて」しまったものを、引きずりながら、今も「自分探し」をしていることは、他人から見ると、ぼくに似ているかもしれない、と思う。
 ドミグロは他人から見たぼくに似ているのかもしれない、と。


 本作は、ドキュメンタリー映画風に仕立てたフィクションで、タイトルは「モック」(まがい物)と「ドキュメンタリー」を合わせた言葉だという。あくまでフィクションだ(その虚構と現実の配合具合は半分〜9割だと作者はいう)。
 作者によく似た名前の百野哲(ももの・さとる)が狂言回し。


 例えば第1話「Tig****はWEB上から消えた」は「ネットオークションで同一のアダルトビデオを落札し続けるID『Tig****』を追え!」(カバーより)っていう話。だいたいどんなテイストの短編集かわかるでしょ。



 んで、冒頭話題にした第3話は、百野自身が仕事に挫折し、アパートを追い出され、高校時代の友人・ドミグロに誘われて、「自分探し」の旅に、バングラディシュに出かける話である。
 ドミグロ自身がバングラディシュに長期滞在しており、そこでヤバそうな仕事に手を染めながら「自分探し」をしていた。


(以下、第3話についてのネタバレあり)


 ドミグロは、自分探しではなく、失踪してしまったオーホリ先輩をバングラディシュで探していた「だけ」ではないか、と百野に言われる。
 それはつまり高校時代に憧れていたものを探すことを通じて「自分探し」をしていたということでもある。
 そして第3話のオチとして、海外での失踪者を探すNPOを勢いで立ち上げてしまう。
 百野と、やはり高校時代の友人であるタクボンは、そのことについて語り合い、

感化されやすいアホだけど
行動力だけは
異常にあるんだった

瞬間的な熱量だけで
この世の果てまで
あるのかどうかも
わからんものを
探しに行けちゃうんだもんな

とつぶやく。
 「失踪者を探す」という社会貢献につながることで、ドミグロの自分探し=自分のしたかったことを形にした、というオチでもあろう。


 タクボンは、安定した社会人の代表である。
 タクボンはドミグロや百野のような生き方は、実は自分のやりたいことを探して社会につながる形にしてしまった人間として肯定し直し、対比的に自分を「さすらいそびれた」存在だと描く。そして、それは「多いのかもしれない」と総括する。
 世の中の多くは自分探しというさすらい、つまり自分のしたかったことを探求することをしなかった人生ではないのか、というわけだ。


 そういうオチを聞いたからといって、ぼくは救われた気分になるわけでもなかった。
 自分のしたいことを見つけて形にする、というのは、やはりかなり「みっともない」さすらい・探求・彷徨・試行錯誤をせねばならぬのだなと、改めてそれが修羅の道であることを確認したのである。
 それは、ぼくの気持ちに重いものを残した。
 いいとか、悪いとか、関係なく。
 ただ、読んだ人に重いものを残せるのだから、本作はきっと良い作品である。