娘からもらった『私たちが拓く日本の未来』を読む

 高校生になった娘からいきなり総務省文部科学省発行の『私たちが拓く日本の未来 有権者として求められる力を身に付けるために』という副教材をもらった。教師から「親に渡すように言われた」というのである。

https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/senkyo/senkyo_nenrei/01.html

 

「え、君は読まなかったの?」

「読んだし、授業で使ったし、終わったよ。もう終わったから親に渡せって」

「へー…って、俺だけにじゃないよね? 俺だけそう言われたの?」

「ううん。みんな」

 あ、そうなんだと思いパラパラめくる。

 『私たちが拓く日本の未来』というのはいかにも行政が子ども(中高生くらい)に向けて作りそうで、なんの冊子にも使えそうなタイトルであるが、サブタイトルに「有権者として求められる力を身に付けるために」というのがこの冊子の狙いらしい。

 

 冒頭は「有権者とは」である。

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/10/20/1362350_2_2.pdf

 考えてみると「有権者」というのはおかしな言葉で、辞書を引いてもまず出てくる語義は「① 権利をもっている者」である。「なにかの権利を持っている人」だと定義して「有権者として求められる力」ではわけがわからない。

 しかし、次に「② 特に、選挙権をもっている者」と出てくる。

 有権者とは「選挙権を持っている者」なのである。

 本書では

有権者になるということは、権利を持つということ、特に政治について重要な役割を持つ選挙等に参加する権利を持つということです。(p.6)

と定義される。そしてすぐに「ただ、本当に権利を持つということだけなのでしょうか」と問い、実はこの権利を使いこなすにはいろんな力が必要になるのだとこの冊子は説いていく。まあ、それはいい。

 ただ、なぜ「有権者」という側面、つまり「選挙権」だけなのだろうか

 左派やリベラルの教育学者であればそこは「主権者」という言葉を使うであろうところを「有権者」にして問題を「選挙権」に限定してしまっているように見える。

 そこに狭さがあることにこの冊子は気づいたのであろうか、厳密にいえば選挙権に限定してしまわずに、「政治について重要な役割を持つ」という形容の言葉を入れた上で「選挙に参加する権利」と「等」の字を入れて選挙権だけではないことの言い訳をしている。

 だけど、この冊子の後の中身はほとんど選挙の話なのである。いやそんなことはないよ、と作成者は言うかもしれない。しかし、いろんな問題は、結局「選挙」に流し込まれているような気がするのだ。

 例えば「政治の仕組み」という章もあって、「議員の活動」「議員の果たす役割」「政党の果たす役割」「私たちの生活との関わり」なども出てくるが、それはこの冊子の中では“選挙で選ぶべき議員・政党を知る”かのように扱われる。

 あるいは実践編で「話合い、討論の方法」なども出てくるのだが、その後すぐ「模擬選挙」などの章になり、ここでも議論・討論は、模擬選挙、すなわち選挙のためのような印象を受ける。

 

 確かに選挙は重要である。

 ぼくはコミュニストとして、議会を通じて革命をやろうとしているので、その大元となる選挙こそ世の中を変えるテコである。選挙を制すということがすなわち世の中を変えるということの最も太い柱だ。それは確かにそうであろう。

 

 しかし、である。

 「高校生の政治参加」というテーマを教育として考えた時に、「選挙」という切り口は果たしてどうだろうか。

 選挙は投票という簡単な行動によって完結する。圧倒的多数の人にとっては。

 候補者をセレクトする、という行為である。

 それは、あたかも消費者が商品を店で選ぶような行為に似ている。

 どんな掃除機がいいか。思いつきで買うこともあれば、知り合いの口コミで選ぶこともあるし、事前にパンフレットやネットの情報を価格とか性能とかをあれこれ比較して選択することもあるであろう。

 それにしても、その行為は貨幣を支払うという購買行為によって完結してしまう。

 選挙も、候補者や政党について調べようが調べまいが、結局は、投票という簡単な行為によって終わってしまうのだ。

 あまりに簡単すぎ、あるいは受け身にすぎ、あるいは消費的にすぎないだろうか。

 

 選挙(投票)という行為は、自分の生活が政治と結びついているという事実・切実さからは、実は遠い。距離があるのだ。

 目の前には候補者がずらっと並んでいて、その候補者を選ぶことになる。

 その候補者が政策を掲げていて、その政策が信用できるのかどうか、そしてその政策は自分の生活とどう結びついているか、そこまでたどり着くのに、幾重にも段階を通らねばならない

 

 例えば、2022年の参院選福岡選挙区を見てみる。

  • 大家敏志(自民)
  • 古賀之士(立民)
  • 秋野公造(公明)
  • 龍野真由美(維新)
  • 大田京子(国民)
  • 真島省三(共産)
  • 奥田芙美代(れいわ)
  • 野中しんすけ(参政)
  • 福本貴紀(社民)
  • 真島加央理(N党)
  • 熊丸英治(N党)
  • 和田昌子(N党)
  • 江夏正敏(幸福)
  • 対馬一誠(無)
  • 先崎玲(第一)
  • 組坂善昭(諸派

 う、こんなにいるのか…。

 まず、顔・名前・政党が出てくる。顔・名前・政党はまずはただの記号である。それぞれの人がどういう政策を掲げているのかを次に調べねばならない。その中で、自分の取って切実な政策とは何かを次に考える。仮に「給食の無償化」だとわかったとしても、それをどの人が掲げているのか、実効性はあるのか、などを調べないといけなくなる。

 そういう「公平」な調べ方をやめて、例えば街でたまたま演説を聞いてよかった人を選ぶということにしてもいいわけだが、学校教育としてそれはどうもマズイということになってしまう。

 「だからこそ選挙でどう候補者を選ぶのかを教えるのではないか!」と言われるのかもしれない。でもやっぱりおかしい気がする。

 

請願=署名運動から入るべきでは?

 ぼくは政治に参加する権利、しかもそれを主体的・積極的に我が事ととして問題をとらえてもらうには、議会への請願、すなわち署名運動から入るべきではないかと思う。

 このパンフレットの後半=「実践編」の第4章には「模擬請願」というのがある。

地域の課題を解決するために議会や行政で議論が行われます。選挙に行って議員を選んだり、自分が議員となったりするほかにも、「請願」という手段によって直接議会で検討してもらうことができます。(p.72)

 そう。最初に

 有権者になるということは、権利を持つということ、特に政治について重要な役割を持つ選挙に参加する権利を持つということです。(p.6)

とこの冊子が書いていた、この「等」に当たるものの一つが「議会請願」なのである。

 なぜ請願から入るのがいいのか。

 それは自分の生活の要求からストレートに政治に結びつくからである。誰を選ぶとか、どの党がいいとか、そういう夾雑物がない。

 冊子には2つだけ要求が例示されている。

  • 循環バスの本数を増やしてほしい
  • 保育所の待機児童をゼロにしてほしい

 おっと…。確かにこういう請願はあるんだけど、高校生だよ?「待機児童」なんていう言葉を使うか? そしてそれ、自分の要求か?

 注意深く排除されているのだが、そんなの高校や大学、学校教育に関わることこそ取り上げるべきだろう!?

  • よけいな校則は無くしてほしい
  • 学校で教えることを減らしてほしい
  • 大学に入る時のお金をゼロにしてほしい

 そういうことじゃないのかよ。

 文部科学省は、高校生が政治に目覚めてしまってもらっては、それで学校や都道府県に要求し始めたら困るのであろう。絶対にそこは教えないのだ。

 だが、まあそれはいい。記述を改善していけばいいのだ。

 自分の要求を言葉にして、それを実現させる、というシンプルなプロセスになる。候補者だの政党だのは出てこない。

 ぼくは実際に社会運動を何十年も経験してきて思うことだが、「これまで政治に関わったことのない市民」が目覚めるきっかけは、例えば家の隣に急にマンション建設が始まろうとして困り果ててしまったとか、あるいは、近所にある道路に信号をどうしてもつけてほしいとか、そういうところから署名に取り組み、そこで議会とか議員に出会うということが結構多いのである。

 署名用紙はどうやって作るのか、どこに出せばいいのか、どうやって集めたらいいのか、議員でいい顔をしていない党があるけどそれはどうしてなのか、全然広がらないけど駅前で集めたほうがいいのか、それとも町内会を回ったほうがいいのか、メディアには知らせることができるのか…そういうことを、アドバイスを受けながら学んでいくのである。

 その中で、選挙が自然に意識されるようになる。

 自分の要求を後押ししてくれた議員を自然に選ぶからだ。

 店で商品を選ぶようにしてネットで情報を得て候補者を選ぶ、という行為には何か消費者的な受動性がつきまとうし、当事者性も本当に薄い。生活感と切り離された選択になりやすい。

 これに対して、自分の要求を実現させる武器として請願を教えることこそ、主体性や積極性が必要とされ、そのプロセスでひとは消費者的「有権者」でなく、「主権者」たる「公民」となっていき、その自覚が育つのであろう。

 

 しかし、残念ながら、「請願」に関するページは、ここだけ浮いている。冊子の全体が、多くの内容を、選挙権を使うという狭い「有権者」としての行動に収斂させてしまっているからだ。

 請願の効果についても「採択された請願は、市長等執行機関に送付され、その処理状況や結果が議会に報告されたりします」と書いてあるだけだ。どんなふうに実になるのか、これではよくわからない。

 

 というわけで、主権者としての自覚を育てようと思うのなら、選挙ではなく、請願=署名を教えるべきだと思う。

 仕事の方で、地方自治について、医療機関の人たちに研修として話す機会があったのだけど、抽象的な話をしてもなあと思い、思い切って教育費の問題に絞って請願などに取り組むことを話した。