紅林直・佐藤賢一『かの名はポンパドール』

“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家および資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。(マルクス資本論』第1部第8章、新日本新書版、第2分冊、p.464)

 『資本論』における有名な章句、“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”。これには訳注がついている。

宮廷の奢侈が財政破滅を招くと忠告されたときに、フランスのルイ一五世の愛人ポンパドゥール夫人がノアの洪水伝説にちなんで言った言葉の言い換え。デュ・オセ夫人『回想録』、序文、一九ページ。「あとは野となれ山となれ」の意(同前p.466)


 先日マルクスについての学習会をしていたときに、ここがとりあげられて、「ポンパドゥール夫人って誰ですか? 『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』って言った人ですか?」という脇道中の脇道の質問が出ていた。さらにその質問をした人はネットで調べて「どれくらいの贅沢をしたんですか?」とか「なんで『女衒』って呼ばれてるんスか?」「『ぜげん』ってなんですか?」とさらに脇道から小道に迷い込む質問をしていた。『資本論』・マルクスの本体はどこへやら。脇道質問で大いに盛り上がる(『資本論』学習会あるある光景)。


 「パンがなければ…」はマリー・アントワネット(と言われるけど実際には違う)だろ…とは思ったけど、よく考えるとぼくはポンパドール夫人について何も知らなかった。いや別に知らなくてもいいんだけど。


 学習会が終わってから、しばらく考えていて、「あっ、そういえば数年前に『かの名はポンパドール』というマンガを1巻だけ買っていたよな」と思い出した。しかし、その時はほとんど読めずに、どこに行ったかさえわからなくなっていた。
 正直あまり面白くないと思ったのだろう。


かの名はポンパドール 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) そこでこの機会に買い直してみたのだが、

  • 「ポンパドール夫人とはどういう人物か」
  • 「なぜ『女衒』と呼ばれるのか」
  • 「ポンパドール夫人はどんな贅沢をしたのか」
  • 「国王の愛人なのになぜ『夫人』なのか」

などという問題意識で読むと、興味深く読めて、全巻買って、楽しみながら読み終えることができた。(もともと佐藤賢一が原作の小説を書いているようだけど、そちらは読めていない。)


 上記のような「知識」は、マンガの間にある、石井美樹子神奈川大学教授)の「コラム」(ポンパドールが生きたフランス宮廷)で得られたものが多い。


 例えば、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンはなぜ「ポンパドール夫人」と言われるのか? 

 当時のフランスの宮廷には王の公の愛人(maîtresse-en-titre)の役職があったのです。国王の公の愛人という立場は、ヨーロッパ諸王国の中でも極めて異例の制度でした。王の褥で相手を務めるだけでなく、宮廷の儀式でも一定の役を与えられ、音楽、演劇などの文化を助成し、娯楽を演出するなど、王妃をしのぐ権力を行使していました。
 王の公認の愛人になる資格は、既婚女性であること、貴族の出であること、もし独身であれば夫を宛てがわれ、身分が低ければ貴族の称号を与えられ、紹介の儀を経てから宮廷に迎えられます。ただし、愛人の子供は国王の後継者にしないという掟が存在しました。(紅林直佐藤賢一『かの名はポンパドール』1巻、集英社kindle版No.39)

 まず「ポンパドール夫人」は、ちゃんと言うなら、「ポンパドール侯爵夫人」である。誰も家名を受け継ぐ人がいなくなった「ポンパドゥール侯爵」の夫人、という扱いにしたのである(という理解だけど)。
 王妃が子どもを産む道具だったのに対して、愛人=公妾=寵姫は公の儀礼や文化に役割を与えられており、現在の「ファーストレディー」(首相夫人・大統領夫人)の役割の一部を、公に与えられている存在のように思えた。公務員としての安倍昭恵みたいな。
 一応これを読むとルールはわかるけども、なぜ「既婚女性」でないといけないのか、つまり「夫人」であることが「公妾」(寵姫)である資格なのかは今ひとつよくわからない。


 ポンパドール夫人の贅沢の全貌についても、これだ、というようなわかりやすい形では描かれていない。
 だが、次々と豪華な建築物を建てていったこと(現在のフランスの大統領官邸であるエリゼ宮はその一つ)、そこでの調度などが豪勢だったことがマンガの中でも取り上げられており、それは迎賓のために仕方のないことだったかのように言い訳されている。
 また、ポンパドール夫人は、フランスの将来を見据えて外交や軍事にまで口を出し、そのために政敵が流した悪評によって「贅沢の限りを尽くして国を破滅に追い込んだ」という悪評を立てられているというふうに描かれている。


 「女衒」と呼ばれるのは、なぜか。
 ポンパドール夫人は、国王・ルイ15世のセックスの相手をしなくなった後も寵姫の座を降りず、「性豪」だったルイ15世(1日3〜5回したらしいよ)のために「鹿の苑(バルク・オ・セール)」という妾の小館を作って、ルイ15世のいわば「セックス・ハウス」にした。
 そこにいる女たちの世話もポンパドール夫人がした(作中では、従来妊娠した女は堕胎をさせられていたのをポンパドール夫人が年金を手配するなどしたとされている)ので、腹心スタンヴィルが「まるで娼館のやり手ババァの仕事ではないか」と呟くシーンがある。
 つまり、国王のセックス相手を降りた後も、国王のセックスパートナーの世話の仕事をしていたので、「女衒」と呼ばれたのだろう。


 きわめつけは“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”の解釈だろう。
 本作第4巻、ポンパドール夫人の臨終に際して、この言葉が出てくる。
 本作では、「我が亡き後に洪水はきたれ」となっている。


 プロイセンを包囲し滅ぼす一歩手前まで行きながら、ロシアの女帝・エリザベータが急逝し、墺・仏・露の同盟関係が崩壊する。他方でアメリカ大陸での英仏間の植民地戦争にも破れる。
 「七年戦争」で事実上敗北に近い形でフランスは条約を結ばされることになる。
 つまり、ポンパドール夫人は、自身がフランスの将来を賭けてきた戦争に敗れたのである。
 大打撃のうちに、病床から復活できなくなる。
 夭逝した実子・アレキサンドリーヌが成長した姿で夢に登場し、山頂に用意されたノアの箱船と思しき船にポンパドール夫人とともに乗る。ふりかえると、怒りに満ちた民衆がやってくる。
 その民衆こそ「革命」であり、「大洪水」だというわけである。
 つまり、懸命にフランスのためにがんばったけども、どうやらそれは間に合わず、いよいよ自分の死後、「大洪水」がやってくるのではないか……という憂いが含まれているのである。


 ちょっとちょっとちょっと〜
 ポンパドール夫人は、一般的には、国王の寵姫としての地位を利用して贅沢の限りを尽くし、政治に容喙し、フランス王政の破滅=フランス革命の遠因を準備した女とされている。
 不破哲三とかは“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”をこう書いている。

 「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」。これは二百数十年前、フランスの大革命が起きる直前の時期に、革命で打倒されることになる国王の愛人、ポンパドゥール夫人の言葉です。彼女があまりにも贅沢をするので、大臣が“こんなことをやっていたら国の財政がめちゃくちゃになる”と倹約のお願いにあがったところ、彼女が大臣に投げつけた言葉が、これでした。“変なこと言わないでよ。そんな話は私が死んでからのことにしてよ”という意味です。(不破『マルクスと友達になろう』p.32)

 典型的なポンパドール理解ですな。(ただしこの「革命で打倒されることになる国王の愛人」は間違いである*1。)
 しかし、この作品(『かの名はポンパドール』)ではどうか。
 先ほども述べたように、フランスの将来を見据えてあえて政敵と戦い、(本来政治への関心が薄かったルイ15世にかわって)政治・外交・軍事を指揮した事実上の宰相のようなポジションだったというのが、本作の描き方である。
 が、無理あるだろ、これ
 原作は知らないけど。
徳川家康 [コミック/画:横山光輝] コミック 1-8巻セット (講談社漫画文庫) 中学生のころ、山岡壮八原作の横山光輝版の『徳川家康』を読んで、「家康はたぬき親父ではなくて、常に平和を望んだピュアな武将だった」という描き方をされていて、ぶったまげた記憶があるが、あれに似た感じを受けた。
 でも別にそれは苦情じゃないよ。
 そういうぶっ飛んだ解釈も含めて面白かったわけである。


 ところで、アマゾンのカスタマーズレビューは、作画が酷いっていう評価がけっこうあるんだけど、そんなことないぜ。紅林直って『嬢王』の人だよね。
 誰が誰かわからん、って評価は違うと思う。ちゃんとキャラは描きわけられていたっすよ。あえて言えば、マンガ読み慣れていない人からの意見のような気がする。
 セックスシーンはあるんだけど、相当に正面からの「歴史モノ」なので、歴史に興味のある人でないと、青年マンガ誌ではなかなかついていくのが大変だと思う。ま、ぼくも最初(数年前)は振り落とされたわけだし。


余談

 『銀河英雄伝説』のアンネローゼのエピソードって、ずいぶんポンパドール夫人に似ているなと思った。貧しい家から王に見初められ宮廷に入るとか、元の家名を捨てるとか、母親の墓碑銘*2のこととか。まあ、そういうエピソードは、王室に掃いて捨てるほどあるのかもしれんけど。
 
 

*1:「国王」はルイ15世のことではなく、国王一般のことだ、という主張はあるかもしれないが。また、「フランスの大革命が起きる直前」というが、ポンパドール夫人が死んだのはフランス革命勃発の四半世紀前で「直前」とまでは言えない。

*2:「ここに眠るは肥の中から出でて財産を作ろうと名誉を小作人〔母親の新夫・トゥールネム〕に売り娘を地主〔ルイ15世〕に売った者」。(紅林・佐藤『かの名はポンパドール』2巻kindleNo.69)