山口つばさ『ブルーピリオド』12

 左翼運動、というか理想を掲げる社会運動にハマる理由の一つは、「たまり場」じゃないか、と1980年代に青春を過ごしたオールド左翼のぼくとしては力説したいところである(以下、年寄りの昔話っぽくなるのだが、そこはご勘弁願いたい)。

 大学のサークルボックス(サークル部室・サークル部屋)や自治寮の部屋はその典型だ。高校までは見たことがないようなユニークな面々がいつ行ってもくだを巻いている。そういう中で尊敬すべき先輩とか同級生を見出して、こんな本があるんだぜとか教えられてうかうかと読んでしまうのである。

 カリスマっぽい先輩でもいようものなら、その空間の虜だ。

 何気にしゃべること、語ることがいちいち眩しい。

 すげえ。面白え。こんな人がいるんだ。

 美大生の物語『ブルーピリオド』は12巻で主人公・矢口八虎(やぐちやとら)が反権威主義芸術集団「ノーマークス」のたまり場に行くことになり、その魅力にハマってしまうが、そのハマりように、ぼくは既視感ありまくりだった。

 

 

 八虎は「たまり場」の居場所感を、はじめ「新興宗教」「マルチ」「ルームシェア」などのワードで解釈しようとする。警戒しているのだ。もちろん、それらの要素が一定含まれていることをぼくも否定しない。「ハマって居着く」ということの心地よさが共通しているからこそ、中毒になる。

 入り口として大事なことは、親密であること。それなのに、閉鎖性がない。開かれていること。ここがとても大切である。

 「ノーマークス」の事務所は、「誰でも出入り自由な場所」を掲げているが、これを実践することは実は至難である。

 

 知らない近所の小さな飲み屋に入って行ったとき、一瞬談笑が途切れ、そこにいる常連が一斉にこちらを見る。気まずい空気が流れ、店の人が取り繕うように、新参のぼくに話しかける……というような、「親密であるが閉鎖的な空間」は逆にいたたまれない。そして親密であることは、その親密性を維持するために、よほど注意していなければ閉鎖し排除をともなってしまう。

 

 だが、「ノーマークス」はそうではない。

 作業を手伝いながら八虎がうっかり終電を逃して「ノーマークス」の事務所に泊まることになるのだが、常連メンバーの態度は開かれている。

 午前1時のうますぎる手作りカレーを食べ、寝床に入る頃に八虎は思う。

なんか

俺 昔からここに住んでるみたいに

みんな優しすぎるなあ…

 もちろん理想をかかげる芸術集団であるからトガった人はいる。トガっている人は毒を吐くけども、それを補う優しさや気さくさがあったり、他方で、毒を吐いた時に、他の人(ここではリーダー)が自然に・やさしくたしなめる。

 

 そして何よりも魅力的なのが、代表である不二桐緒(ふじきりお)である。ソファーに寝そべって気だるそうにしているのが常態だが、話しかけて喋らせたときに不思議な魅力がある。

 八虎とフジの間で美術館論議になる。

 フジは美術館がもつ権威性がアートの鑑賞にとって邪魔になっていることを平易な言葉で説く。そのうえでアートが時代の中で生まれてきたことをざっくりとした歴史において語り、アートが生活の中に置かれなければならないという理念を語る。

 「ノーマークス」の理念にとって最も本質的なことなのだろうが、それを大上段な演説ではなく、しかし、歴史を人に沿うように語ることで八虎の意識を変えてしまう。

 フジとの対話を終えた後、ソファーから手を振るフジを見ながら八虎は思う。

この人と話していると

自分がシンプルな存在になれたような気がする…

 複雑さをそぎ落として本質をつかんだ瞬間だとも言えるし、逆に世界の多様性を切り捨ててしまい、アジられてオルグされた危険な瞬間だとも言える。しかし、これは社会運動に出会う人間にとってとても大切な瞬間だ。正直、この瞬間の快楽にぼくは抗えない。

 レーニンは、経済要求を取り上げて闘争するだけでは単なる労働組合の活動家でしかない、として、それとは違う理想的な共産主義者(当時は「社会民主主義者」とレーニンは言っていた)のスタイルを次のように語っている。

社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべての現れを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ…る人民の護民官でなければならない(「レーニン10巻選集」2巻、大月書店、p.82)

 「一つの絵図にまとめあげる」。世界に起こる事象を、自らの世界観の体系のここ・そこに位置づけることが共産主義者の任務なのである。眼前に広がっている事件や闘争が、自分たちがすすめる世界変革にとってどのような位置を占めているのかを語ってこそ、宣伝・扇動は果たされる(日本共産党が「綱領を学び、語る」ことを強調するのは、単に共産党を知ってほしいというにとどまらず、本当はこのような意味からであろう)。

 フジがやっていることはまさにこれであろう。

 展示場所に美術館ではなくDJブースを選んだことについての八虎の小さな驚きや違和感をすくい上げて、アートの歴史を「ざっくり」語り、結論としての美術館の権威性が歴史的なものにすぎないことを批判するフジは、まさしく「ありとあらゆる現れに反応」し、「一つの絵図にまとめあげる」ことをやってのけている。

 それを、人に沿うように。

物質的な力は物質的な力によってたおされなければならない。しかし理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えかけるように論証をおこなうときであり、理論が人に訴えかけるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。(マルクスヘーゲル法哲学批判序説」)

 今まさに八虎はラディカル=根本的になろうとしているのだ。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そして、(おそらく)異性愛者であろう八虎にとって、フジが異性(女性)であることの性的な魅力がここに加わっていることは否定できまい。

 長い髪。大きな胸。頭髪の刈り上げを見せてそれを触らせる仕草。横から手を差し出して八虎の手に触れながら八虎のカレーのスプーンを自分の口に運ぶ「だらしのなさ」。

 そして、八虎の素直な感想にこの表情。

山口つばさ『ブルーピリオド』12、講談社、kindle131/196

 女性を何でもかんでも性的な存在としてみるのはどうかと思うよ、と批判されるかもしれないが、ぼくは性的な存在としてのフジを意識せずにはいられない。ぼくから見てものすごくフジは性的な魅力に溢れている。これは…これは居着いてしまうわ。

 

 作者が今後この集団をどのように描くかはわからない。たぶん最終的には批判的に描くんじゃないかと思うんだけど、この巻までで描かれたこの芸術集団のたまり場としての危険なほどの魅力はぼくには十二分に伝わった。つうか、ここに行きてえ。