「ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである」(マルクス)について

 ある左翼組織の会議に出ていたら、報告者がマルクスの有名な章句を引用していた。報告が文書になっており、引用は次の通り。

物質的な力は物質的な力によってたおされなければならない。しかし理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えかけるように論証をおこなうときであり、理論が人に訴えかけるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。

 『ヘーゲル法哲学批判序説』からの引用である。出典が書いていないが、大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』と全く同じなので、おそらくそこからの引用だろう。マルクスのこの著作は有名なので他にもいろんな訳がある。

 

 

 今どきこんなマルクスの発言を引用をするコミュニストの会議報告があるの? といぶかる方もいるだろうが、本当にあるのだ。だいたい定期的に行われる会議なのだが、この報告者は必ず1か所はマルクスとかエンゲルスとかの長々とした引用をする。近年ではまことに珍しい報告者である。

 それはさておき。

 もともと、ぼくはこの「ラディカル」と「根本」という訳について不思議に思っていた。

 「ラディカル」には「過激な」とか「急進的」という意味がある。「ノンセクト・ラジカルズ」と言えば「党派に属していない過激派」というような意味になる。

 他方で「ラディカル」には「根本」という意味があるから、世間様から見て「あいつは急進派だ」とか「過激思想だ」とか言われる人は「物事の根本からの問題を提起し、行動している人間・思想」であることが多い。「資本主義社会そのものを変えないとダメだ」とか「消費税を廃止せよ」「学校制度そのものが悪なのだ」とかである。

 だから、初めの「ラディカル」は本当は「過激」「急進」とした方がわかりやすいのではないかと思っていた。しかし、訳さずに「ラディカル」とそのまま載せる場合をよく見る。

 原文はドイツ語である。そのもう少し前を入れると、次のようになっている。

Die Waffe der Kritik kann allerdings die Kritik der Waffen nicht ersetzen, die materielle Gewalt muß gestürzt werden durch materielle Gewalt, allein auch die Theorie wird zur materiellen Gewalt, sobald sie die Massen ergreift. Die Theorie ist fähig, die Massen zu ergreifen, sobald sie ad hominem |am Menschen| demonstriert, und sie demonstriert ad hominem, sobald sie radikal wird. Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen.

 参考にしたのは以下のブログ。

anowl.exblog.jp

 

 このブログは次のように訳している。

批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない。物理的な暴力は物理的な暴力によって倒されなければならないが、しかしまた、理論も、それが大衆を捉えるやいなや物理的な暴力になる。理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。過激であることは、事柄を根本から掴むことである。

 “フツーは「剣はペンより強し」なのだが、大衆が何かの理論を知ると一気に過激化して、暴動=革命を起こし、国家の武力など倒してしまう”という意味で訳している。これはこれで意味が通っている。

 die materielle Gewalt「物質的な力」が「物理的な暴力」という訳になっている。この部分は英語ではmaterial forceである。

 materielleは英語でいうとmaterial、Gewaltはあの「ゲバ棒」の「ゲバルト」である。「ゲバルト」を「暴力」と訳す場合もあるが、「強力」「実力」「力」と訳す場合もある。英語ではforceになる。

 ちなみに、英語では次の通りだ。

 

The weapon of criticism cannot, of course, replace criticism of the weapon, material force must be overthrown by material force; but theory also becomes a material force as soon as it has gripped the masses. Theory is capable of gripping the masses as soon as it demonstrates ad hominem, and it demonstrates ad hominem as soon as it becomes radical. To be radical is to grasp the root of the matter.

 参考にしたのは以下のアーカイブ

www.marxists.org

 

 しかし、このブログの訳は、後半がわかりにくい。

理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。

 「感情に訴えて人身攻撃で」の部分はad hominemだ。英文にも独文にも出てくる。ad hominemはラテン語である。英和辞典では次のように解説されている。

 

  1. ラテン語〉理性より感情に訴えて
  2. ラテン語〉〔議論などで〕人の性格を攻撃して、人身攻撃の

  

 ブログ主はどちらの意味をも付与したようである。あえて意味をとれば、“人格攻撃をして感情を煽ればたちまち炎上するよね”ということになる。うーん、マルクスがネット論客みたい。

 ここまではまあいいとして、しかし次の、

過激であることは、事柄を根本から掴むことである。

にはつながりにくい。“人格攻撃で煽動されたアホなネットイナゴ”というイメージで来たのに、そのアホ大衆は「事柄を根本から掴む」ということをやってのけているからだ。

 マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』を書いたのは1844年。ドイツは1848年の革命の前であり、さらに言えばヨーロッパ中で議会による革命などイメージすることがまずありえない時代の論文だから、ここで革命が武力革命をイメージしていてもそれは仕方がない。だから、前半部分の翻訳はとりあえず容認しよう。

 しかし後半のad hominemのあたりはどうも違う。

 

 ぼくがすぐ参照できる本として『マルクスエンゲルス8巻選集』があり、これは次のような和訳を載せている。

 そこでは該当箇所はこうである。

理論はそれが人に即して〔ad hominem〕論証するやいなや、衆人を摑むことができるのであり、そしてそれはラディカルになるやいなや、人に即しての論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根元においてとらえることである。(選集1、p.16-17)

 

 ad hominemは「人に即して」となっている。

 ドイツ語の原文では、このラテン語の後に「am Menschen」があり、Menschenが「人」、amはan dem の縮約形で「〜で」とか「〜に」とか「〜において」という意味となる。英語の前置詞にあたるものだろう。

 「人に即して」というのはどういう意味だろうか。

 「その人に合ったように」「その人に相応しいように」というオーダーメイド的な、あるいは個別最適化のような意味に聞こえるのだが、そうではないだろう。最初に紹介した、ぼくが会議で聞いた報告(おそらく大月版『全集』)の訳「人に訴えかけるように」の意味だと理解すれば理屈がつながる。「人の心の琴線に触れて」ということだ。*1

 そして、マルクス研究家の的場昭弘は「ラディカル」という言葉を放って置かずにあえて「急進的」と訳している。

 ぼくもここは「過激」か「急進的」かにあえて訳した方がいいんじゃないかと思う。マルクスがここで書いているのは、普通の人が使う「ラディカル(ラジカル)」という言葉をまず持ってきて、その本当の意味を打ち明ける、という論法になっていると思うからだ。つまり“人から過激思想だと思われているものは、実は物事を根本からとらえているので「過激」に見えるんだよ”ということをマルクスは言いたいんじゃないだろうか。*2

 

 冒頭の「批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない」は初期のマルクスがよく使うペダンティック諧謔で、先ほども述べたとおり、ここは「言論による批判では、武力の代わりにはならない」(武力の方が言論よりも強い)という意味である。

 die materielle Gewaltを「物理的暴力」と訳すか、「物質的な力」と訳すかは難しいところである。「物質的な力」って、フツーの人が聞いてわかるかな? materielle(material)には「実体的な」という意味があり、自衛隊を「実力組織」と言ったりするので、「実力」はどうかと思ったが、それだと「実力テスト」の「実力」みたいに聞こえるよな。ここはあえて「力」だけにした方が伝わるのではないだろうか。

 

 紙屋訳はこんな感じか。

理論による批判では、武力の代わりにはならない。力は力によって打ち倒されるものだ。しかし、理論であっても、それが大衆をとらえると力になる。理論が大衆をとらえるというのは、それが人の心の琴線に触れるように論証されるということだ。そして、人の心の琴線に触れるように論証されるというのは、それが過激になるということだ。過激とはものごとを根本からつかむことである。

 うん、まあでもこれ「超訳」だからな。

 忠実な翻訳としては、やはり大月版『全集』訳がこの部分については一番わかりやすい。

 

 冒頭にも述べたとおり、例えば「消費税を廃止しろ」というのは「過激思想」に思える。しかし、こう提起することで税金は富裕層への累進課税であるべきか、大衆からの収奪的な課税であるべきかという根本的な問題提起がなされる。まさに「根本からつかむ」ということだ。

 消費税が5%か10%かという問題設定は確かに社会合意は得やすいけども、廃止か否かという議論に比べると、税制の根本問題は浮かび上がりにくい。根本問題が提起されて初めて、消費税は大衆から収奪するための税金であり、税金を取るならなぜ大儲けしている大企業や大金持ちから取らないのか、という点が「人に訴えかけるように」(人の心の琴線に触れるように)論証されることになる。

 

余談(付記)

 15日付の「しんぶん赤旗」でワタナベ・コウが自分と共産党(とその綱領)との出会いを語っていた。「共産党との接点は(それまで)まったくありませんでした」と述べるワタナベが人生を大きく変える様子が語られている。

  ワタナベは記事中で核兵器をめぐる世界情勢の見方についての自分の転換を語っている。これはまさにワタナベ的には共産党という「過激思想」に触れたということであるが、「過激」とは実は「物事を根本からとらえる」という意味であることがわかる。

 共産党は少なくとも党員の半分以上が改定された綱領を読み終えようという党内運動をやっているのだが、なかなか苦しんでいる。*3「大変な労力をかけて綱領を読ませても即効性がない(すぐに活動に立ち上がらない)」という気分が組織の中にあるからだろう。そんなに目の色を変えてやるような課題に思えないのだ。

 しかし、「このままだと落選するから土曜日までにあと2票お願いできない?」というような「即効性」のある訴えを求めるのではなく、「物事を根本からとらえる」変化をして長いスタンスで社会変革の運動に取り組んでもらえる人をつくろうとするなら、ワタナベが起こした変化にこそ注目すべきなんだろう。

 

*1:前述の英語の辞書の「1」の意味では「理性より感情に訴えて」とあってこれと似ているが、これはわざわざ理性と感情を対立させていて、別のニュアンスになってしまう。

*2:ちなみに、的場は当該部分全体を次のように翻訳している(的場「青年マルクスの『革命』観」から)。「もちろん、批判の武器は武器の批判にとってかわることはできない。物的な力は物的な力によって崩さねばならない。理論もまた大衆をつかむやいなや物的な力となる。理論は人間に即して証明されるやいなや、大衆をつかむことができるのであり、理論が急進的となるやいなや、理論は人間に即して(ad hominem)証明されるのである。急進的であることは、ものごとを根本からつかむことである。」

*3:ときどき「共産党員なのに『資本論』も読んでいないんですか?」とか言っている共産党外の人がいるけど、それどころではないのである。