笑えば幸せになるのか アラン『幸福論』の履き違え

 高島宗一郎・福岡市長が成人式でよく成人に対して説教することの一つに次のようなものがある。

 ふたつ目。それは「幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになる」——これは私の恩師からいただいた大切な言葉です。

 コロナのせいにせず、親のせいにせず、友達のせいにせず、学校のせいにせず、社会のせいにせず。自分の人生です。自分の意志と自分の行動で、切り拓いてほしいと思います。

 今年もまたこれを言ったようだ。

 彼は繰り返している。「私は毎年ほぼ同じ内容を伝え続けています」と述べているから、信念なのであろう。

 ふたつ目は「幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになる」です。

 これは私の恩師からいただいた言葉です。

 これから生きていくうえで、人のせいにせず、社会のせいにせず、環境のせいにせず、自分の意志と自分の行動で、輝かしい未来を切り拓いてほしいと思います。

成功の反対は失敗ではない | 福岡市を経営する | ダイヤモンド・オンライン

 唖然とする。

 少なくとも、政治家が市民を前に「説教」することではない。

 一人ひとりの市民がどういう哲学で自分の人生を切り開くかはその人の勝手だが、政治家はそのような人生が自分で切り開かれるように、「学校」や「環境」や「社会」を改革しておくことが仕事ではないのか。あるいは、「親」や「友達」や「コロナ」が誰かの人生を台無しにしたりしないようガードレールを作り、傷ついた個人を守り・支えるのが、仕事ではないのか。

 親から虐待され、毎日泣いている子どもに高島市長はこう説教するに違いない。

 「幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになるんだよ。あなたの不幸を親のせいにするな。社会のせいにするな。泣くな。まず笑おうか」と。

 

 この言葉はアランの『幸福論』にある次の部分が出典ではないかと思われる。

 

 

 友情のなかにはすばらしいよろこびがある。よろこびが伝染するものであることに気づけば、そのことはすぐに理解される。ぼくがいることで友人が少しでもほんとうのよろこびを得るなら、そのよろこびを見たぼくが、今度はまたよろこびを感じるのである。このようにして、お互いに与えたよろこびが自分に返ってくるのである。と同時に、よろこびという隠されていた宝が、手に届くところに現れてくる。そして二人とも、「自分のなかに幸福があったのに、今まで全然手をつけることがなかったのだ」と思うのである。

 よろこびの源泉は心の奥深くにある。それはぼくも認める。しかし、自分に対しても、すべてのものに対しても不満な人たちを見ることほど痛ましいものは何もないのだ。彼らは互いにくすぐり合って笑わせ合っているだけである。しかしまた、注意すべきは、よろこんでいる人もひとりだけでいたら、やがて自分のよろこびを忘れてしまうということだ。彼のよろこびはやがてすっかり眠り込んでしまう。そしてついには一種の茫然自失、ほとんど無感覚にいたるであろう。心の内部の感情があらわとなるためには、外部の身ぶりが必要なのだ。もしある専制君主がぼくを投獄して権力を尊重させようとしたならば、ぼくは毎日ひとりで笑うことを健康法とするであろう。足を強化するためトレーニングするのと同じように、ぼくは自分のよろこびを強化するためのトレーニングをするであろう。

 ここに一束の乾いた枝があるとする。この枝は見かけは枯れたようで、土みたいだ。実際、そこに放置されたら、土となるだろう。しかしながら、この枝は太陽から吸収した隠れた熱を秘めている。ほんのわずかな焔でも近づけて見たまえ。たちまちパチパチと音を立てて燃える炭火となるだろう。ただ、戸を揺り動かし、囚われている者を目ざめさせる必要があったのである。

 そういうふうにして、よろこびを目ざめさせるためには何かを開始することが必要なのである。幼な子がはじめて笑うとき、その笑いは何ひとつ表現していないのだ。しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。幼な子は笑って楽しんでいる、ちょうど食べて楽しむのと同じように。しかし、まず食べる必要がある。そのことは、ただ笑いに当てはまることではない。だから、考えていることを知るためにはことばが必要である。ひとりでいるかぎり、人は自分がほんとうに自分となるわけにはいかない。モラリストの馬鹿者たちは、愛することは自分を忘れることだと言っている。あまりにも単純な見解。自分自身から蝉脱(せんだつ)すればするほど、人はますます自分自身となるのだ。また、ますます自分は生きているのだと感じるようになるのである。君の薪を君の穴ぐらの中で朽ちてゆくままにしてはならぬ。

一九〇七年十二月二十七日

(「17 友情」/アラン『幸福論』神谷幹夫訳、岩波文庫、p.257-259)

 アランは、『幸福論』におさめられたエッセイ(プロポ=哲学断章)の中で繰り返しこの種のことを述べている。

寒さに抵抗する方法はただ一つしかない。寒さをいいものだと考えることだ。よろこびの達人スピノザが言ったように、「からだが暖まったからよろこぶのではなく、私がよろこんでいるからからだが暖まるのだ」。したがって同じような考え方で、「うまく行ったからうれしいのではなく、自分がうれしいからうまく行ったのだ」といつも考えねばならない。どうしてもよろこびが欲しいというならば、まずよろこびを蓄えておきたまえ。いただく前に感謝したまえ。なぜなら、希望から求める理由が生まれ、吉兆から事が成就するのだから。だから、すべてのことがいい予感であり、吉兆である。(「20 気分」/p.74)

 アランは『幸福論』の中で、2つの方向から、この議論を展開している。

 一つは、悲しみ・不安・憂鬱といった負の感情を、笑うという前向きの動作や、体操のような体をほぐし血流をよくすることによって、切り替え・清算し・断ち切ってしまうということだ。

気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。こんな実に簡単な運動によってたちまち内蔵の血液循環が変わることを知るがよい。(「12 ほほ笑みたまえ」/p.48)

 アランは、体操をしたり、バイオリンを弾いたりすることを勧める。「筋トレが全てを解決する」というやつの20世紀版である。

礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響力を及ぼしている。優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ治ってしまうものだ。こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。だから社交生活や訪問や儀式やお祝いがいつも好まれるのである。それは幸福を演じてみるチャンスなのだ。この種の喜劇はまちがいなくわれわれを悲劇から解放する。これは大したものである。(「16 心のしぐさ」/p.61-62)

 

「また雨か、なんということだ、ちくしょう!」と言ったところで何の役にも立つまい。そう言ったところで、雨のしずくや、雲や、風が変わることはまったくないのだ。どうせ言うのなら、「ああ! 結構なおしめりだ!」と、なぜ言わないのか。君の気持ちはよくわかる。そう言ったところで、雨のしずくはまったく変わらないだろうから。その通りだ。でもそう言うことは君にはいいことなのだ。からだ中に張りが出てきて、ほんとうに温まってくる。なぜなら、それこそが、どんなに小さなよろこびでも、よろこびのもつ効き目なのだから。君がこうしていさえすれば、それが雨にあたっても風邪を引かない秘訣である。…君がほほ笑んだところで、雨には何のはたらきもないが、人間には大いに力があるから。ただほほ笑むまねをしただけでも、すぐに人間の悲しみや退屈さはやわらいでいるのだ。(「63 雨の中で」/p.212-213)

 日常の小さな気持ちの切り替えをやる、ちょっとしたティップスのようなものであれば、これは正しい。ぼくも筋トレをやって頭を空っぽにするし、マンガを読んで笑ったり興奮したりすれば、小さな不安はリセットされてしまう。不安な感情を見つめ続けることは、それを増幅させるだけでしかない時がある。

 

 もう一つは、「ほほ笑み」のような小さなアクションを起こすこと、前向きな行動を始めてしまうことで、不安や悲しみで動けなかった状況が必ず前向きに打開される糸口がつかめるということだ。動かなければ変わらない。

始めている仕事にはこれからやろうとする動機よりもずっと深い意味がある。協同の仕事がやりたいというかなり強い動機があって、一生涯それを頭のなかであれこれ思いめぐらしながら、ついに協同する仕事は何もやらなかったという人がいる。…しかしながら、あの仕事に専念した幸福な人びとをごらんなさい。みんな始めている仕事に精を出している。それは食料品店を繁盛させることであり、切手を集めることである。つまらぬ仕事などはないのだ、いったんやり出したならば。…刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。だからほんとうに信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳にすぎないのだ。(「50 始めている仕事」/p.169-170)

 「幸せだから笑うんじゃない…」の格言は、最近ではホリエモンが引用していた。

 新自由主義を信奉する人間の間で流行りなんか。

 まあ、政治家ではない堀江がそういうことを言うのはわからないでもない。そして、堀江はこの言葉の元々の意味をある程度つかんで使っている。

 アランは『幸福論』におさめられたエッセイで繰り返し述べているのは、「まず行動を起こせ」ということだ。この立場でアランの言葉を解釈していた。

 そこにも道理はある。

 嫌がっていたものは、行動を始めてみればそれに没頭してしまうし、アランが言うようにその中に楽しみさえも覚えていく。頭で先に壮大な計画を夢想していることはあまり意味がない。そういう意味では目の前の仕事にきちんと対処する=行動することにこそ、現実を突破する希望が生じるのかもしれない。

 アランは、警視総監を「もっともしあわせな人間」(p.146)だという。「なぜか。いつも行動しているからだ。しかも新しい予見することができない状況の中でいつも行動しているからだ」(同)。

このしあわせな人間は、勤務時間中ずっと一瞬のすきもなく、明確な問題と向かい合って、明確な行動が求められている。(「43 行動の人」/p.146)

 

 最近読んだ森鴎外の小説で、森と思われる主人公が日常の小さな仕事を自分の本来やるべき大きな仕事ではないと考えるのに対して、やはり医師である父が日常の仕事に真剣に向き合っている様を見て、父を尊敬し直すというくだりがある。

父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。(森鴎外カズイスチカ」/『山椒大夫高瀬舟』所収、KindleNo.364-366)

 日常の与えられた仕事に向き合うことが、実は「天下国家の仕事」に通じるものだと熊沢蕃山が言っているぜ、と森は小説で記している。

 このように、アランの主張には一定の道理がある。

 しかし、適用の限界範囲を超えて濫用することになれば、たちまち百害あって一利なしのドグマに転化する。高島市長の成人式での説教は、市長がすべき説教としては最悪のものの一つだろう。ベストなメッセージだと確信して、自信満々、毎年のように演壇から繰り返し語っているという彼のセンスを正直疑う。

 「一定の道理」があるだけに厄介なのかもしれないが、あるラインを超えた途端に、反対の作用を及ぼす言葉になってしまう。実業家でもなくアスリートでもなく、政治家がそれを口にするとき、いかにこれがトンデモなメッセージなってしまうのか、他者へのほんのわずかな想像力があれば、容易に気づけるはずだと思うのだが。