すでに明らかなことを本に書く気はない

 拙著が家に届きました。

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 今日あたりから書店に並ぶと思います。「不要不急の外出自粛」が呼びかけられている地域も多い中であり、まあ「必要であり急ぎである買い物」と位置付けてもらって……とは申しませんが、何かの折にぜひお読みください。あまり初刷りはありませんので、かなり大きな本屋でないと、取り寄せない限りないんじゃないかと思います。こういう時こそ本を読んでぜひご感想をください。

 家ではつれあいが読んでくれました。だいたい何事にも辛口なことが多いつれあいなのですが「面白い」と言ってもらい、しかも具体的にここがというのを的確に指摘してくれたので、身内の評ながら1週間ぐらいハッピーでいられました。

 

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 この本は「表現の自由」を扱った本ですが、例えば「あいちトリエンナーレ」の事件にさいして「政府からの圧力は表現を萎縮させるものであり、表現の自由を脅かすものだ」ということは、少なくともぼくにとってはかなりクリアなことです。クリアだからこそ、共感を呼ぶ社会運動になっているわけですが、ぼく自身としてはそのことを「本」という形にする意味はあまりないような気がしていて*1、ぼくとしては、一般の人が疑問に感じていながら実はあまりよく知らされていないことを明らかにするところに、本を出す意義を感じています。*2

 

表現の自由謳歌したいなら行政の支援を受けるな」

 例えば、「行政の支援を受けているものには表現の自由はない。好きな表現は支援を受けずに、どこかで自費でやれ。それなら干渉されないぞ」という意見をどうみればいいのでしょうか。

 ぼくはこの意見を左翼的な若い人たちが集まる場所で、酒を飲みバーベキューを食べながら、まさに左翼的な若い人から聞かされました。

 行政でも例えば福岡市の高島市長がしている次のような発言はこの若い人と同じ意見だと思います。

◯市長(高島宗一郎 表現の自由は、当然認められるものと思いますので、いろいろな催事を行えばいいと思います。ただ、福岡市の後援を要るというのであれば、それは当然、ルールがあります。(2015年9月11日福岡市議会での答弁)

  本書では、この意見をどう考えればいいか論じています。

 

「あいちトリエンナーレ」事件とは結局どういう事件であったのか

 「あいちトリエンナーレ」事件というのは、結局何が問題だったのでしょうか。事件に関するさまざまな本、論評は出ていますが、一般の市民としては、「端的に言えば結局なんだったのか」という評価が必要ではないかと思っています。

 ぼくもブログで書きはしましたが、その後の事態の発展によって、実は事件の表見は大きく変わっています。(さらに言えば本書が刷り終わってのちに政府による補助金不交付決定の撤回がありました。)そこを本書では明らかにしています。

 

「政治的なものは芸術ではない」「〇〇はおよそアートではない」

 つい最近、浦沢直樹が「アベノマスク」というタグをつけて描いた安倍首相の似顔絵が炎上しました。

 浦沢は例えば『MASTERキートン』ひとつとっても相当に「政治的」だと思うんですが、「あれは原作者がいて浦沢は単なる絵師として機械的に作業しただけだ」とでも思っているんでしょうか。

  それはともかく、この議論は理屈の上ではあまり大して解明は必要ありません。

 それよりも、実際に出展されている現代アートの多くが「政治的」であり、またはぼくらが考える「美術作品」の常識からは外れていることを、実例で見ながら示していこうと思いました。

 そして、それがわかりやすいように、専門家の解説を簡単につけながら。

 

「政治的に偏った作品への支援は行政の中立性を損なう」

 「政治的に偏った作品への支援は行政の中立性を損なう」という理屈を行政がしばしば口にするようになりました。ぼくが表現の自由に対する本質的な危機感を抱いたのは、実は公民館だよりに憲法9条のことを描いた俳句の掲載を拒否されたいわゆる「九条俳句事件」でした。

 福岡市で起きた「平和のための戦争展」での「後援拒否・取消」事件もその一つでした。やはり当の高島市長は次のように述べています。

◯市長(高島宗一郎 市民の表現活動につきましては、憲法の保障する表現の自由のもと、公序良俗に反する場合などを除いて自由に行うことができるものでありまして、これは福岡市の後援の有無によって制限を受けるものでもありません。一方で、市民の活動に福岡市が後援を行う場合は、これは行政の中立性を確保する必要がございます。(2016年9月12日福岡市議会での答弁)

 これも行政が口実にしているので、市民にもそれなりに浸透している理屈の一つであり、これをどう考えればいいのかを最高裁の判決や議会の議事録などを参考に考えています。

 

不快な表現をなくす方法?

 そして「宇崎ちゃん」献血ポスター事件です。

 つれあいは、拙著のこの問題の箇所を読んだ時、「あなたの説明はわかりやすかったけど、問題が複雑だということもよくわかった。そして不快なものの存在を許容しなければならないというところに常識感覚からするとモヤモヤが残ってしまうけども、それが表現の自由ということなのだとわかる」と言ってもらったときはわが意を得たりという気持ちでした。

 しかし同時に、実はぼくの本で、「表現の自由を守りながら、自分にとって不快な表現をなくしていく方法」についても書いています。こう書くと非常に「不穏当」なのですが。

 そして、それはとても根気のいる活動なのです。本来ぼくたち左翼はそのような忍耐強い活動をしてきたはずなのです。

 また、言論の自由を比較的穏当に発揮しあった結果、双方が納得して、ある表現が消えてしまう(撤去されてしまう)ことがあります。そうした事件をモデルケースとして取り上げ、それは果たして正しいのか、間違っているのかを論じています。

 

規制することはできるのか

 憲法第21条にはこうあります。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 「一切」ですよ、「一切」。これはすごいことではないでしょうか。

 しかし、表現はどんな場合であっても規制できないということはありません。ではどんな場合にできるのか? 規制ができるようになるためのロジックを本書で簡潔に明らかにしています。とくに、志田陽子教授のインタビューはそれをわかりやすく示してくれていると思います。

 

「ポルノがどうしていけないの?」

 本書は、編集者との対話の中で生まれたものです。

 本書の編集者は、実はぼくの学生時代の知り合いでもあるのですが、学生時代から女性の権利についての運動に関心を持っていた方でしたから、ぼくが「宇崎ちゃん」ポスター事件で、どちらかといえばポスター表現の擁護をしていることに違和感を持っていました。

 「宇崎ちゃん」ポスター事件の発端になった太田啓子弁護士の批判ツイートは批判としてはあまりに「雑」でした。

 女性を性的対象としてみるような絵、性的モノ化・性の商品化をするポルノ、そうした作品はなぜ「問題」なのでしょうか。

 考えてみると、そのことをきちんとわかりやすく論理化したものを、ぼくはあまり見たことがありませんし、日常でも聞いたことがありません。「ジェンダー平等」などと昨今声高に言われながら、いやむしろ言われているだけに、「ポルノがどうしていけないの?」と口にしにくくなっているのです。

 それで、ぼくなりにそのことを「理屈」として書いてみました。

 関連して「労働力は商品化やタレントは人格が商品化されているのに、性の商品化だけが問題なの?」「セックスをするときはいつでも相手を性の対象と見ているのではないの?」など素朴な疑問への答えを書いてみました。

 これらは表現の自由そのものとは確かに直接関連がありません。

 しかし、レッテルばりの批判にならないような、根源のところでのわかりやすい議論こそ、表現の自由を豊かにするものだと思い、その実践の一つとして書いてみたのです。

 

「ポリコレ棒」と表現

 ぼくの本の目次に「ポリコレ棒を心の中に」とあるのをみて、「ポリコレ棒」という、リベラル・左派にとって“敵性用語”を使っているからこんな本は読む価値なし、と言っているコメントを見ましたが、まさに「読まずに語る」典型として興味深く拝見しました。

 「政治的公正」という基準を使って、作品を論じることは作品批評を貧しくするのかどうか、また、表現の自由とどう関わるか、という問題をここで論じています。

 

 「あとがき」で東山翔の作品をぼくが「愛好」していることなどを書きました。いわばポルノに対する立ち位置を明らかにしています。東山のような作品自体の「存在」が許されることが表現の自由であり、その存在の擁護は、いかにも「ポルノを楽しみたい人間、女性の犠牲の上に快楽を享受したい人間の自由だ」という批判が返ってきそうな問題です。

 

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 どの問題も、例えばぼくの身近にいる人に聞いても明瞭な返事は返ってこない問題ばかりなのです。だからこそ、ぼくは本にする意義があると思いました。

 実際に読んでいただいた批評をもらえるとうれしいです。

 

 

 

 

*1:もちろんあくまで「ぼく」についてです。社会的にそこに意義を見出す人がいることは全く否定しません。

*2:「明らかにする」というのはぼくが世界で初めて解明したという意味ではないし、新聞・雑誌や専門書などで論じられてこなかったという意味でもありません。そういうものを引っ張ってきてわかりやすく示すこともここでいう「明らかにする」という意味です。