『ベルベット・キス』『義父と先生と』『ずるいカラダ』『S彼×禁断』『快楽電流』


快楽電流―女の、欲望の、かたち

 以前、二十人ほどの作家の書いた官能競作集を話題にしたことがある。知人が、「それじゃあ、あなたが面白いと思ったやつを一つか二つ見せてくれる?」と言うので、後日、私がもっとも“感じた”二編を送ったところ、彼女が笑いながら言ったものだ。「あなたのセクシュアリティがよくわかったわ」


 セクシュアリティに関する分析にはそういうところがある。分析される対象よりも、かえって分析するこちら側のセクシュアリティをあぶり出してしまうところ……。(藤本由香里『快楽電流』p.137)

 ぼくがマンガを語る手法というのはいわゆる「自分語り」に近い。しかし自分の中には必ず社会が反映しているし、普遍性が横たわっている。ヘーゲルのいうところの「特殊は普遍である」。マンガを読んだときの自分の感覚から出発することを「自分語り」と蔑み、それへの反動として「客観的」な論じ方を用意しようとマンガ評論はあがき続け、表現論的な批評・研究の枠組みはそうした問題意識の中から広がってきた。
 しかし、「特殊は普遍である」ということが理解できるなら、なんら「自分語り」をおそれることはない。自分はそのマンガを読んでなぜそう感じたのか、あるいはなぜそのようには感じなかったのか、を探り続けることで、普遍に通じる道はある。

 にもかかわらず、エロマンガにはこの方法はなかなか通じない。
 官能という領域は、本当に個人の「感じるところ」が狭く、濃いからだ。その一人ひとりにあるバリアをとりはらって、普遍性をうちたてることはまったく容易ではない。「それはお前が勃起したポイントなんだろ」と笑われておしまいである。
 しかし、やはりぼくは、エロマンガにたいする批評も同じような方法をとらざるをえないと感じている。その制約を突破するためには、たとえば一つの作品をたくさんの人が論じることで浮き彫りにされるほかないだろう。(続きは非表示)