萩本創八・森田蓮次『アスペル・カノジョ』8巻のワンシーンへの違和感

 『アスペル・カノジョ』は、新聞配達のアルバイトをしながら、自分の好きなマンガを細々とウェブで発表して暮らしている男性(横井)のもとに、その作品を読んでどうしても会いたくなった女性(斎藤)がやってくる話である。

 横井は人付き合いが苦手でおそらく発達障害の可能性があるのだが、斎藤は自閉症スペクトラムの当事者で、極度の生きづらさを抱えて生きてきた。横井は、不安と苛立ちと絶望の中にいる斎藤を放っておけなくなり、依存や支配の危ういバランスを渡りながら、二人は共同生活を始めていくことになる。

 その中で、8巻に次のようなエピソードがある。

 

 

 同じ新聞配達をしている清水あずさという女性もまた発達障害なのだが、あずさのパートナー(浩介)もまた清水が放っておけないと感じて結婚し、子どもも産んで育てている。この夫婦と、横井・斎藤は知り合いになるのだが、斎藤が過去にいじめられた同級生を衝動的に殴ってしまった件で訴えられた際に、横井は浩介を頼る。

 問題が解決し、横井がお礼の電話を入れると、突然浩介から指摘される。

君が対人恐怖症に苦しんで人間社会から距離を置くのは自由だよ

でもそれは降ってくる災厄も自分で振り払うってことを意味してる

僕も人付き合いは得意じゃないし あずさちゃんなんてそれ以上に苦しんでる

それでも無理してでも人の輪に参加しようと努めてるのは いざという時に助けてもらう人脈を確保するためでもある

近所付き合いもそういうセキュリティの意味があるからね

だから鬱陶しくてもストレスに耐えながら人と接してる

僕を頼るのはいいんだよ

横井と僕は直接の友人だから

でも僕の人脈まで頭に入れて頼ろうとするのは意味合いが違う

君自身が人の輪を避けて他人への貢献を拒否してるのに

自分が困った時だけは考えてるなら

それは僕にとってかなり不愉快な心構えだ

 

 突然の指摘に横井が驚いていることはコマからもわかる。

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萩本創八・森田蓮次『アスペル・カノジョ』8巻、講談社、p.171

 ぼくはこのエピソードの浩介のセリフが突然ここで入った意味、そしてその意義が理解できなかった。

 まず浩介が言いたかったことへの、ぼくなりの感想。

 横井は浩介との「人の輪」には参加している。マンガにも出てくるが清水邸を訪問するにはかなりのハードルがあり、それを乗り越えて横井たちは清水の家にやってきたのである。そして、浩介も横井とは直接知り合いになったのだから、横井を頼ることは認めている。

 問題はここからで、浩介がストレスによって得た人脈(法律実務を知る知り合い)に横井がつながりそれを利用しようとするのは、要するにフリーライドだと浩介は言いたいのである。

 これは町内会やPTAなどでも起きることで、社会関係資本をなんの対価もなしに得ようとするのはおかしいという議論だ。

 だけど浩介が本当に「不愉快な心構え」だと思ったなら、浩介は自分が苦労して得た人脈を横井に紹介しなければよかったのではないだろうか。横井はストレスフルな人付き合いを避けていることによって、有益な人脈に直接つながれるチャンスを逃すわけだから、「ふん、いつも人付き合いを避けている、あんなやつに誰が紹介するか」と思われるリスクを当然抱えているのである。

 ぼくも町内会長をしていたのでわかるけど、まだ会費を集めて加入を呼びかけていた頃、団地の1軒1軒を訪ねて「町内会に入ってくれませんか」とお願いをしていた。そうすると「うちは入らないよ!」とつっけんどんな対応をしてくる家があった。もしも横井のような困難を抱えた家ではなく、そうした「つっけんどんな対応の家」を想定したら、「誰があんなやつに紹介するか」と思い「ごめんなさい、そういう法律関係の知り合いは思い当たりません」と嘘をつくのはとても自然だろう。そして「つっけんどんな対応の家」は「不愉快な心構え」の報いを受けるのである。

 だが、横井と斎藤の困難を直に知っているからこそ、浩介は自然な気持ちで自分の人脈を開放したのだし、「つっけんどんな対応の家」だって、ひょっとしたら困難な事情を抱えているのかもしれないから、困って頼ってきたのなら自分が持っている人脈を紹介するのもまた自然ではないか。

 人間関係のストレスを乗り越えて、多くの社会関係資本を獲得し、その中から有効なものを見つけることができるのはかなりの猛者だ。お金がある人は社会関係資本がなくても貧困から免れているし、お金がない人は、お金で解決する代わりにこのような社会関係資本を多く得ることで貧困から逃れている。お金もコミュ力もない人は、早々に貧困と孤立に陥るほかない。横井・斎藤はその典型だ。このような人たちが簡単に頼れる社会装置こそ必要なはずで、浩介がなぜここで横井にあんな説教をしたのか、まったくもって謎である。

 なお、上記のシーンへの不満をこのように書いたけども、『アスペル・カノジョ』は、ある種の発達障害を抱えた人の生きづらさとそれを受け止めようとする人・受け止めようとする活動の危うさをスリリングに描いた傑作である。