議論になっているこれだが。
本論の前に一つ。
そもそもこのブログが批判している元記事「『本が読めない人』を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育」は一体誰が書いた記事なのか?
署名が「榎本博明」なので、常識的に考えて「榎本博明」が書いたものであろうが、リード文ではなく本文で「榎本氏も」とか「榎本氏は」になっている。
文章の終わりに行ってもなお「榎本氏は」という叙述になっており(2020年8月18日現在)、特に署名もない。インタビューなのかと思いきやそういうわけでもない。
記事末にある訂正は榎本ではなく編集部名義になっている。
一番考えられそうなのは、「榎本氏の著書の紹介記事として編集部が書きはじめたが、編集部の文責を示す署名を忘れた」というものであろう。だからそもそもこれを榎本執筆の記事として扱っていいのかどうかがよくわからない。
これはひょっとして高度な「実用文」練習問題なのであろうか。
とりあえず、以下はこの記事を榎本が書いたものだという前提で進める。
ぼくも榎本の「ダイアモンド」の記事と、『教育現場は困っている』(平凡社新書)は読んだ。
榎本の論旨は、「論理国語」と「文学国語」を対立させ(二律背反という意味ではない)、それぞれを「実用的文章」と「教養的文章」というほどの意味に捉え、受験をテコにして、前者が後者を駆逐していくのではないかという危惧の表明であろう。
だから、冒頭に紹介したブログ「ozean-schlossの綴方(仮称)」は榎本に対して「高校で『実用文』の読解は“不要”か」「新課程科目『論理国語』の中身は『実用文』だけか」「新課程で『論理国語』と『文学国語』の両立は本当に不可能か」など4つの批判的論点を提示しているけども、榎本もそれらには「そうですね、実用文が全く不要ってわけじゃないですね」程度には言うであろうから、4つの論点そのものにいちいち逐条で考えることは、あまり意味がないと思っている。
ozean-schlosの批判点の中からあえて取り上げるとすれば、
カリキュラムの組方次第で「文学国語」(すなわち、文学に充当できる授業時間)は確保できるのだが、仮にそれができなかったとして、榎本氏が何を問題としているかが見えてこないのである。
という点であろうか。
言い方を変えれば、文学にはどんな教育効果があるのか、ということなのだ。そのことを考えること・答えることで、文学を国語から追放・冷や飯喰らいにしていいかどうかが決まるだろう。
よく「算数の文章題を解くにも読解力が必要になる。国語は全てのベースなのだ」というようなことが言われるが、「読解力」ということであれば「論理国語」でもいいような気がする。
実は、「ダイアモンド」の榎本の記事の方ではよくわからない。
榎本の新書『教育現場は困ってる』では、
読解力を養うには、本を読む習慣を身につけるのが一番である。そのきっかけとなるのが国語の授業だった。(榎本p.139)
とされている。要は、本をたくさん読む導入として国語の授業があるのであって、本さえよく読んでおけば読解力なんてどうにでもなる、ということなのだろうか。
もう少し読み進める。
すると次のようにも指摘されている。
教員の解説を聞きながら、教科書の文章をじっと眺め、ああだこうだと想像を巡らし、文章の理解を深めていく。姿勢が悪いまま想像の世界に没頭しすぎて、椅子ごと後ろに倒れることもあった。そんな国語の時間が、私は大好きだった。(榎本p.141、強調は引用者、以下同じ)
自分の意見を発表するような授業が横行し、授業中に文章をじっくり読むことがないため、知識や教養の蓄積がない。そのような教育が行われているのだから、読解力が高まるはずがない。(榎本p.142)
静かに文章に没頭し、想像力を飛翔させ、思考を深めるような、孤独な時間を自ら持とうとする人間になれるように、読解のための基礎を習得させる授業であってほしいものだ。(榎本p.143)
榎本は、深い読解力には「知識や教養の蓄積」が必要だ考えているようである。
それはおそらく本をたくさん読むこと(知識の蓄積)と、それらを結びつけるように、じっくりと想像力をめぐらし・飛翔させ・没頭する深め方(教養の蓄積)と両方が必要なのであろう。いや、これはあくまでぼくの推察だが。
「想像力を巡ら」せることが、文学作品ではできる。
それは国語教育にとって、どんな意味があるというのか。
外山滋比古は『思考の整理学』で、既知のことを再認するのを「A読み」、未知のことを理解するのを「B読み」と定義する。
例えば、よく知っている土地について書かれた文章を読むのは「A読み」である。自分の生まれた愛知県N市のことが書かれた文章は「A読み」できる。しかし、フランスにあるスペインとの国境地帯にある山岳の村について書かれた文章を読むことはおそらく「B読み」であろう。
「フランスにあるスペインとの国境地帯にある山岳の村について書かれた文章」に懇切丁寧な解説がついているかと言えばそうでもない。それ全体は「未知」のものである。
言葉(単語)・状況説明・筆者の意見などについて、そこには想像または空想または解釈をする余地が生じる。
A読みをしていたのが、突如としてB読みのできるようになるわけがない。移行の橋わたしがなくてはならない。それに役立つのが文学作品である。国語教育において、文学作品の読解が不可欠な理由がそこにある。(外山滋比古『思考の整理学 』Kindle版p.201)
物語、小説などは、一見して、読者に親しみやすい姿をしている。いかにもA読みでわかるような気がする。あまり難解であるという感じも与えない。それでは創作がA読みだけですべてがわかるか、というとそうではない。作者の考えているのは、読者の知らないものであることがうすうす察知される。このとき、読者は既知に助けられ、想像力によって、既知の延長線上に新しい世界をおぼろげにとらえる。こういうわけで、同じ表現が、Aで読まれるとともに、Bでも読まれることが可能になる。創作が独得のふくみを感じさせるのは、この二重読みと無関係ではあるまい。(外山前掲書)
文学作品が、Aの読みからBの読みへ移るのに欠かすことができないのは、前述のとおりであるけれども、読みは創作の理解が終点であっては困る。本当にBの読みができるようにするのが最終目標でなくてはならない。それには、文学作品を情緒的にわかったとして満足しているのではなく、〝解釈〟によって、どこまで既知の延長線上の未知がわかるものか。そのさきに、想像力と直観の飛翔によってのみとらえられる発見の意味があるのか。こういうことがしっかり考えられていなくてはならない。(外山p.202)
既知のものから未知のものへの移行の橋渡しに、人間の思考には想像力の力が必要だとして、「一見して」既知のものばかりのように見える文学作品は、実は未知のものが入っており、それが解釈や想像によってつかみ出されてくる。
これは文字面の読解ではない。「読みは創作の理解が終点であっては困る」というのはそういう意味だろう。想像して解釈するしかないようなもう一つの面を探すのである。
それが「既知から未知」を理解する力になる、と外山は言うのだ。
これは、榎本の言う想像力を巡らすことに重なっている。
「データ」や「エビデンス」や「ロジック」は大事だが、それだけが幅を利かせ、国語が形式論理だけの読解に限られると、このような想像力が貧困になっていく。飛躍という弁証法の否定といってもいい。