玉虫で装飾された馬具が福岡県内(古賀市)の古墳の出土品から確認されたという記事を読んだ。
「玉虫装飾」という見出しに何の感興ももよおさずに、ぼーっとした頭で記事を読み始めた。「国内で玉虫装飾の馬具が確認されたのは初めて」などという記事の一文を読んでも「ふーん」と鼻くそをほじっていた。
しかし、記事を途中まで読み、そのうち次の画像をちらりと見て、初めて事柄を理解した。
「あっ、これは本物のタマムシを装飾に使っているということではないか!」と。形がタマムシの羽そのものだったからである。
羽はほぼ完全な形で残っており、昆虫専門家が玉虫であることを確認している。……調査を指導した今津節生奈良大教授(保存科学)は「埋納坑内の土壌が湿潤だったため鉄類が早い段階でさび付き、さびに守られる形で玉虫などの有機物が残った可能性がある」と指摘する。
すごくないですか、昆虫(甲虫)の羽を装飾に使うなんて!
え、そこからかよ? と別の意味で驚く貴兄は、さらに基本的な事実に無知な紙屋に驚くに違いない。「だって、法隆寺の玉虫厨子ってウルトラ有名じゃん? 教科書とかで習わなかったの?」。
そうなのだ。たぶん学んだはずなのだが、「ふーん」としか思ってなかったのである。聞いても本当の昆虫を使っているという事実を頭の中で最初から除外していたのだと思う。
九井諒子『ダンジョン飯』に、コインに擬態した「コイン虫」というのが出てくる。
人工のコインにそっくり(上図参照)だというのがSF的であるが、コイン虫が炒って食べられるという設定にクラクラすると同時に、コイン装飾がコレクターの間で高値がついているという設定にもSFだなあなどと思っていた。
だけど、「虫を炒って食べる」というのは、今世界的に昆虫がタンパク源として注目されている流れからすれば当たり前であるし、虫の装飾が現実に宝物として珍重されるというのは、まさにこの「玉虫装飾」なのである。
こんな簡単な結びつきに気がつかなかった。
「頭がいい」とは言えない人の演説
今回は本当にアホみたいな例だったのだけど、「頭がいい」という人の一つのパターンは、「あれ」と「これ」を結びつける人なのだろう。ぼくはなかなかそれができない。
全く違うものを結びつけることで技術思想が革命されるということはすでに「イノベーション」として言われていることであるが、もっと広く言えば、前に学んだことと今学んだことが様々なコネクターによって結びつけられる人がきっと「頭がいい」ということになるのだろう。特に文系的学問ではこれは必須だし、理系ではこういうことができる人がパラダイムシフトと言われるくらいの大転換をやってしまえるのだろう。
逆に言えば、「頭がいい」とは必ずしも言えない人は、これがなかなかできない。「大転換」はおろか、本当にすぐ気づくような結びつきさえ気がつかないのである。「タマムシ」はまさにそれであった。
政治演説などを聞いていても、こういう「結びつき」がわからない人のそれは、「結びつけ」がなっておらず、訴える内容について、やたらと柱や要素が多くなってしまう。悪い意味で教科書のようであり、スタティックなのである。訴えが生き生きしていない。死んでいるのだ。ぼくも気をつけていても、往々にしてそうなる。
まあ、これ自体、よく考えるとすでに外山滋比古が『思考の整理学』で言っている「セレンディピティ」とか「思考のカクテル」とか「知のエディターシップ」のような話ではあるのだが。
発想のおもしろさは、化合物のおもしろさである。元素をつくり出すことではない。(外山前掲書Kindlepp.63-64)