川崎昌平『売れないマンガ家の貧しくない生活』、木村イマ『シュガーレス・シュガー』1

 ネットで川崎昌平『売れないマンガ家の貧しくない生活』を読んでいるつれあいは、マンガ家の妻の視点でマンガ家自身がマンガ家のことを描くというこの作品の奇妙さを口にしていた。

 

 

 作品の中の話題が、マンガ家の本業労働(編集者)、副業としてのマンガだけでなく、家庭生活や家事とのバランス、最終的には出産・育児という大仕事にまで及ぶために、その広いフィールドを客観的に見て語る視点がほしかったのだろうと思うが、確かに奇妙ではあり、可笑しみがある。客観視するとはそういうことなのだろうけど。

 川崎はマンガ家としては売れていないが、「貧しくない生活」をしている。マンガ家を副業*1にしている、つまり兼業マンガ家だからである。本業の収入があるために、マンガ家としての生活に精神的な余裕があり、それがマンガ家の創作にもいい影響を与え、さらに本業にも反射があるというのである。いわば本書は「兼業マンガ家のススメ」のようなものだ。もちろん、専業マンガ家を否定しているのではなく、「兼業マンガ家という生き方もあって、それは結構素晴らしいものですよ」という賛歌である。

売れないマンガ家だからこそ自由につくれる!

と川崎は高らかに宣言する。

 またこうも言う。

オレは兼業マンガ家だから、マンガ家の収入でメシが食えなきゃいけないわけじゃない。つくることが楽しいかどうか、それだけだよ

「会社からのお給料のおかげでなんとかマンガ家を続けていられるわけだし」

マンガ家としての収入は会社員としての給与所得があるから精神的に余裕をもってマンガ家をやれている——夫はそう語ります

 川崎よりさらに、そしてはるかに少ない副収入を得ている「売れないモノ書き」であるぼくはこれらの点に深く共感する。

 もう一つの「仕事」があり、それに打ち込んでいるということは、精神のバランスを取る上でなんと重要なことだろうか。

 ぼくの場合は、仕事でダメであったとしても、あるいはあまり役に立った仕事ができていないと思った時でも、いつもでモノを書く仕事のことの方に思いをいたし「でも自分はモノを書いて自信が持てている」とすぐにその軸をスイッチできる。そして、本業が存在することでモノを書くことを安心して続けられる。

 他方でモノ書きの仕事があることで、本業の方でどれだけひどいことを言われたりされたりしても精神的に余裕ができる。「どうしても嫌ならやめてしまえばいい」と思っているのである。もちろんモノ書きだけで生きていくことは少なくともぼくの場合厳しい。にもかかわらずなぜかそのようなゆとりが生まれるのである。

 兼業というものがこれほど心にゆとりを生むのか、とぼくは痛感している。

 共産主義の目的は多くの自由時間をつくりだし、人間の全面発達を勝ち取ることで人間を解放することである。

各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるというようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするということができるようになる。(マルクス・エンゲルスドイツ・イデオロギー』)

 マルクスはこの初期の見地をのちに修正したというのだけども、自由時間でいろんな人間の能力を発達させるという見地は変わっていまい。

 副業(兼業)の世界は、実は共産主義の世界を垣間見せてくれる、その第一歩である。

 娘が小学生だったとき、自分の職業紹介をしてくれる人がいないか、学校が保護者全員に照会をかけていたけども、ぼくは手をあげたいなと思っていた。

 それは本業について語りたかったのではなく、「副業としてモノを書いて収入を得ている」という職業選択を小学生に語りたかったのである。当時(数年前だが)、娘の小学校の「なりたい職業」欄には「YouTuber」がかなり上位に来ていた。「プロゲーマー」も多かった。しかし肝心のキャリア教育の方は「好きなことをやってそれを副業としてやってみる」という選択肢は示されないままであった。これは何としても、と思ったものだったが、残念ながら、目立つことを嫌がる娘が頑強に反対したのでこの応募をあきらめた。

 

 さて、この川崎の本の中に、売れないマンガ家を続けるコツとして「『わかりやすさ』と距離を置くこと」というテーゼが示されている。

 わかりやすさはある方向への偏り(偏向)かもしれないし、もっと深く考えられる主題を浅くしてしまっている危険をはらんでいるのかもしれない、と川崎は警戒するのだ。

わかりやすい表現はマンガ家の寿命を縮める

とまで言う。

 『ブルーピリオド』12で主人公が興味を抱いたアートコレクティブのリーダーのアジテーションが「わかりやすく」、主人公が「シンプルな存在になれる」と感じてしまうその危険な魅力を描いていたことをぼくは紹介した。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 わかりやすくしたい、というのはぼくの基本的欲求であるので、このテーゼはむしろぼくと対立する。しかし、言いたいことはわかる。物事はそれほど単純ではないのである。しかし、その単純でなさが多くの人を問題から遠ざけてしまっているのであればやはりわかりやすくすることには大義がある。

 だが、ここではあえてこの川崎のテーゼを考えてみたい。

 最近そのことを感じたのは、木村イマ『シュガーレス・シュガー』1を読んだ時であった。

 

 

 昔は小説に応募して入選したこともあり作家にもなりたかった平凡な主婦・柴田業(しばた・ごう)は新進気鋭のSF作家・弦巻融(つるまき・とおる)と喫茶店で知り合う。弦巻との交流に刺激を受けてモノを書くことに目覚めるが、そこにのめり込む様子を見て柴田の夫は不安を感じる。夫のいる妻の行動としておかしくないか? 昼間の主婦に行動として逸脱してはいないか? と疑問をぶつけるのである。

結婚している女性が家族でもない男と会っていたらおかしいでしょ

 柴田はキレる。夫は自分の書いた小説をロクに読みもしない、つまり自分そのものに何の興味も示さなくなっているくせに、妻や母や主婦としての役割だけを形式的に求めようとするからである。

結婚して子供がいても私だよ!!

母親やって妻やってもも私は私だよ

役割のために生きてるんじゃない

 泣きながら飛び出して、しかしすぐに柴田は反省をする。

女性の一生を乗りこなすのは容易い

女性というパッケージに妻というパッケージ 親というパッケージ それさえ用意できれば主体性などなくても乗りこなしていける

SNSに以前投稿した小賢しい自分の一文を読み直しつつ

何をのぼせているんだろうか

今までパッケージに頼って生きてきたのは私じゃないか

自己批判をするのだ。

帰りたくない…

このまま全部やり直したい

 しかしこのような「役割」を破壊したくなる衝動はあっても、そんなに単純に「役割」という檻を壊せるものではない。

 柴田は結局「役割」に戻っていこうとする。

 だが、それを壊そうとする衝動は常に自分の中に蓄積していく。

 「役割」を壊そうとする「私」たらんとする衝動と矛盾は解決していない。一体この矛盾とどう折り合いをつけるのか、と不安に満ちた展開を示して1巻は閉じられる。

 一体どうする気なんだ、と思う。

 その「わかりにくさ」がこの作品の矛盾に満ちた推進力になっている。

 

*1:川崎に言わせれば「会社員」の方が副業なのだが。