双龍『こういうのがいい』

 双龍『こういうのがいい』は、形式に拘泥したり、強い束縛をかけてくる彼氏・彼女とのつきあいにうんざりした江口友香(えぐち・ともか)と村田元気(むらた・もとき)がゲームのオフライン飲み会をきっかけにセックスをし、それをきっかけに独特のゆるいつながりを始めていく物語である。

 「え? つまりセフレ(セックス・フレンド)のことだろ?」と思うかもしれない。

 Amazonの本作品紹介は次のような文言だ。

したい時に、したい事を、したい人と。一夜限りでもなく、付き合う訳でもなく、身体のみの関係でもない、ゆるくて気楽で、なおかつえっちぃ“フリーダムフレンド”となった村田♂と友香♀

 定義的には確かに「セフレ」であることを含んでいるのだが、「セフレ」ということに限定されているわけではない、というのが二人の自己規定なのである。

 とはいえ、まずセックスだ。

 この二人にとって、セックスは純然たる快楽を目的とした重要な(そしておそらく最も重要な)イベントである。そこは外せない。セックスをした時の相性というだけでなくて、頻度・タイミングが(豊富な量の側で)ピッタリ一致していることは、めちゃくちゃ大事なことではなかろうか。

 まあ一種のファンタジーである。現実には、生身の人間だからどこかにズレが生じるし、それが不満にもなるはずだ。だけど、やはりその不満を塗りつぶして妄想してしまう。まるで自分の欲望の合わせ鏡のように、「したい時に、したい事を、したい人と」できる頻度・タイミングがセックスにおいて保障されていれば…! と。

 原理的にはセックスを快楽だけのものととらえれば、10人セフレがいるなら、そのうちの誰かは自分の需要を満たしてくれる供給ができる人がマッチングできるかもしれないのだが、運用は大変そうだし、何より10人というストックを作るのが一大事業になりそうな気がする。

 

 しかしこの二人の関係はセックスだけに限定されない。

 オンラインゲームであったり、食事であったり、家飲みであったり、ちょっとしたお出かけであったり、「したい時に、したい事を、したい人と」できるという設定になっている。

 こうしたイベントは、通常、例えば気の合うカップルだったとしてもまずお互いの仕事の都合によって阻害されてしまう。それ以外にも他方の気分や健康状態などが上下するから、なかなかうまくタイミングが合わせられないのである。

 結構マジに付き合って、相手のことを知って、その異文化を克服する作業が入念に必要になる。例えば一方は焼肉が大好きだが、他方は肉ではなく魚が好きとか、あるいは男が奢るのは当たり前だと思っているとか、女がベラベラ喋るのは好きではないとか、そういうやつである。

 本作では、最初の出会いで、お互いがかなり似た文化であることを確認し、こうした文化衝突をおそらく一気に克服してしまっている。その上で、つきあいを最大にゆるくしていることで、「一致点での共闘」しかしないから、日常的な微妙な違いが顕在化しないのだろう。…ってこれは虚構の世界の人だから。読み手としてはあくまで「ゆるいつきあいだから、細かい違いはスルーしてしまう、寛容性を二人とも持っているのだろう」と勝手に補正して想像することになる。

 ただ作中でもそのような寛容性を裏付けるエピソードは用意されている。例えばこの状態でお互いに「恋人(彼氏・彼女)」をつくることはアリかと双方が問うシーンがある。お互いに「アリ」だと答えるのだ。

 

 ぼくはこの二人のつきあいのポイントは「タイミング」——つまり「したい時に、したい事を、したい人と」セックスをはじめとするイベントを開催できるという点にあり、その「タイミング」を軸とした世界の「リアリティ」を確保しているのは、おそらく二人の働き方であろうと考える

 

 村田は、かなり大きな企業のIT技術者のようなのだが、基本的に在宅勤務で、緊急の時だけ会社に呼び出されて会社で仕事をする。一定の所得水準がある正規労働者であろう。職場で頼りにされ、技術者として有能であることを示すエピソードが作中に盛り込まれており、「ふだんはあまり時間に追われず、家で自分のペースで仕事をしている」ことが印象付けられる。

 これに対して江口は、ファミレスのフロアスタッフで働く非正規労働者のようだが、職業人としてはかなりのベテランで、職場は忙しそうではあるが、こき使われたりしている様子はない。職歴が長いために「目をつぶってでもできる」と江口が豪語するシーンもあるなど、労働に汲々としてはいない。シフト制であるこの職業は、江口にとって桎梏とはならず、むしろ自由に生活を組み立てられる都合の良さとして現れている。

 そう、二人とも時間に追われていない感じがする。

 むろん、例えば村田は急に呼び出されて修羅場を押し付けられたりはするのだが、それは「時々」ある非常事態に過ぎないのであって、通常は「マイペース」なのだ。

 このような働き方としてのゆるさが、二人の関係の自由さのベースにあり、読者はそのベースに裏打ちされながら、セックスを軸とした「したい時に、したい事を、したい人と」という「フリーなフレンド」(二人は「フリフレ」とその関係を呼んでいる)の関係性に説得力を与えている。

 

 なるほど、「こういうのがいい」と思わせる関係である。

 これはもう本当にすばらしい関係だとぼくなどは思うのだが、どうであろうか?

 

 ちなみに本作における会話についてAmazonのカスタマーズレビューでも批判しているものがった。

現代社会が舞台なのにネットスラングで話すのがきつくて耐えられなかったです。…ストーリーやキャラは共感できる部分があるのですが私にとっては口調の痛々しさで全てが台無しになっているように感じました。

 二人が交わす会話のネットスラング多用+独特の速いテンポについては、ぼくも「勘弁してくれ」と思う。この会話のトーンだけはどうしても好きになれない。

 

伊藤野枝が本作を読んだとしたら?

 最近、堀和恵『評伝 伊藤野枝』を読む機会があった。

 

 

 伊藤野枝大杉栄と関係を持つにいたるが、大杉は長年連れ添った堀保子と、やはり深間となった神近市子との多重関係に陥って、「自由恋愛三か条」なるものと打ち立てる。

一 お互いに経済上独立すること

二 同棲しないで別居の生活を送ること

三 お互いの自由(性的にも)を尊重すること(堀p.97)

 しかし評伝の筆者堀からは

この三条件は、大杉の驚くほど無知な、男性中心主義のエゴイズムが丸出しである、といえる。また、多角関係に陥った大杉の、苦しまぎれの空論ともいえよう。(同)

と酷評されている。実際、この多角関係はいわゆる「日影茶屋事件」として神近による大杉への刃傷沙汰となって劇的に破綻する。

 堀の評伝では、伊藤野枝が求めたものの中心には自由があるとされる。伊藤の自由観には母・妻といった固定した役割の拘束を乗り越えようと格闘した印象がある。

『フレンドシップ』には、当然ながら主従関係はない。契約だって必要はない。野枝はここから拡がって、人間の集団に対する理想も考える。…野枝は「友情とは中心のない機械である」という。互いに個性を尊重しあえる友情こそが大事なのだ。夫、妻という役割を持つのではなく、互いの力を高めあっていくことこそ大切だいう。(堀p.149-150)

 

 読みながらふと思ったのだが、もし伊藤野枝が現代によみがえり『こういうのがいい』を読んだら、村田と江口の関係を絶賛したのではなかろうか。

 「こういうのがいい!」と。