コロナ禍の下での届くプリントが嫌いでクリスタが好きな娘

 新型コロナの感染拡大による学校の臨時休校はまもなく終わる。

 中学に入ったのだが一度も学校に行っていない娘は、1日1回「散歩」または「サイクリング」をする以外、ずっと家にいて、ずっとPCの前にいた。ラインと、クリスタ*1と、にじさんじと、ツイッターである。

 「絵が上手くなりてえなあ」というのが口癖で、1日に30回くらい言っている。

 ついで多いのが「学校早く始まらないかなあ」「友だちに会いたいなあ」である。

 そして「夜空メルが…」とぼくが話題を振ると、食いついてくる。入れ食いである。お前は夏の堤防にいるハゼか。そしてコミュニティにおける親和と闘争、炎上や賛美などについてまるで我が事のように悩んでいる。お前が運営しているわけではないぞ。

 そういう彼女にとって、中学校から送られてくるプリントは、まったく「外的」なものである。封筒で届く不気味なプリントの束は、彼女の生き様とは何も交錯しない、彼女の生活への闖入者である。

 

娘にとって切実なこと

 「前衛」6月号の佐貫浩(法政大学名誉教授)の「今こそ、民主主義を生み出す学校と教育を ——危機に対処することのできる教育とは何かを考える」を読む。

 

 危機の時代に、自分の思っていることをまずは表現するという力が本質的に重要なものだとして、さらにそれを共同的な判断へと高めていく必要を説き、佐貫は次のようにのべる。

 

とするならば、一人ひとりの力を引き出し、その力を社会的な力として作用させる方法として、表現をみんなののもの、大人のもの、子どものものにすることが、決定的な課題になる。(「前衛」2020年6月号p.103)

 

 まあ、ここで佐貫論文の全体像はおいておこう。

 表現といった場合に、ぼくらは絵や文章のようなものを思い浮かべるが、佐貫は自分の思いの表出のようなもっと広いものを想定している。

 だが、ぼくはこの文章を読んで、ただちにコロナ禍の中で絵ばかり描いている娘のこと、その娘の「イラスト」のことが思い出された。

 

そのためには、自己の思いに共感してくれる他者による承認とケアが不可欠となる。ジュディス・L・ハーマンは、自己の表現を遮断された孤立状態を脱して心的外傷から回復するためには、自己の思いや表現に共感してくれる他者の支えとケアによる「人間の共世界」(human commonality)——共に生きる世界——の回復が不可欠であることを指摘している。(同p.104)

 

 特別に成績が悪いわけではないが、教科的な学力が抜きん出ているわけでもない。自信の根拠のようなものを明確に持たない娘は、何かによってキャラが評価される「社会」の中で決定的ではないにせよ不安を抱いている。そこから抜け出す一つの道として彼女が考えているのが「絵」のような気がする。「絵が上手い自分」というキャラの獲得だ。

 そういう思考自体が未熟だとは思うけど、しかし理由のあることであって、そこに彼女の今の切実な表現がある。

 そのことと隣り合わせているのだが、Vtuberに「なる」ことは、彼女の職業的選択肢の一つになっている。彼女にいくつかの「推し」がいるということと相まって、そこで起きているコミュニティのいざこざは、娘にとって他人事ではない。何か、自分にとって切実な課題なのである。

 絵が上手くなることバーチャルでの紛争をどう原理的に解決したらいいかを考えること——こうしたことが今の彼女にとって「考えるべき切実なもの」なのである。

 

 佐貫は、学びにとって課題が主体的に把握されることが大事なことだとした上で、こう述べている。

真に考えるためになにより必要なことは、自分にとって切実な課題を、考える対象に据えることである。(同p.105)

  そして現状を批判する。

避けられない課題に立ち至ったとき、誰でもが必死に、すなわち主体的に考える。その必死に考えることを教育の場で直ちに始めれば良いのである。しかし現在の学校教育には、考えるべき切実なことを考えるという学びの様式が大きく失われているのではないか。(同p.104)

  どうなっているかといえば、こうなっている。

獲得すべき能力が提示されて、その能力——知識と共に思考力や表現力などの、いわゆるコンピテンシー——を獲得するために考える(頭脳を使いこなすこと)が課題として提示されているという様式なのである。(p.104)

 これは例えば少し話題になった次のツイートで紹介されていたような例である。

 

 これは同調させて喜ばせるという話ではなくて、「思考力」というものを養成するために、「思考力」を分解して「比較」(「AとBの共通点は何ですか」的なもの)を行わせようとしているのである。また、それを発言することで「表現力」を養おうとしているのだ。写り込んでいる教科書のテキストをよく見るとそれがわかる(違いについても述べることを求めている)。

 だが、これは佐貫が指摘するように、先にまず獲得すべき能力があり、それを身につけるために課題が設定されるという逆立ちした様式をとっていて、「子どもは本質的には課題そのものを主体的に把握していない」(p.105)、もっといえば子どもにとって何ら「切実な課題」ではないのだ。相手の服装とか見て、「共通点を探そう」なんて…どうでもええやん

 

 自分にとって切実でもなんでもない課題を与えられて、抽象的に思考の練習をする……「思考力」なんていうものは、たぶんそんなふうには身につかない。いくら読んでも身につかない自己啓発本とか他人の成功談を読んでいるかのようだ(まさにコンピテンシーだ)。

 

 娘は、「絵が上手くなること」「バーチャルでの紛争をどう原理的に解決したらいいかを考えること」を切実に考えている。本来ならそこは表現力や思考力を鍛えるため宝庫のはずである。娘はまさに「切実な課題」としてそれを考えるであろう。

 

しかし、競争の教育の中で、それらの関心事は学習と無関係な余計な事柄として無視され、学習空間から排除される。そして現実の課題から隔離された空間の中で、与えられた課題に主体的に取り組む難行苦行を求められ、心ここにあらずの状態のまま学ばされるのである。(同p.105)

 

 ネットを切れと親に説教され、中学校から届く不気味なプリントを、いやいややっている娘の姿はまさにこれだ。

 彼女が切実な課題として本当の意味での学力を獲得するのは、実はクリスタを使って絵を描くことであり、「にじさんじ」やそれに伴うツイッターの反応を見ながらみんなでラインで語り合うことのはずなのだ。

 

むしろ余談:オンライン授業という問題から考えたこと

 書きたいことは以上で、以下は佐貫論文を読んで考えたメモであり、いわばこの記事からすれば「余談」である。

 コロナ問題で「オンライン授業」がもっとやれるようにすべきだという意見があった。

 各家庭に、あたかも電話レベルで、もしそういうインフラがきちんとあれば、確かにそれは役立つだろうな、という思いを抱いた。自分もZoomで読書会をやってみて、一部実感するところであった。

 他方で大学の教員の知り合いを見ていて、オンライン授業を受けるにしても学生側にインフラがなかったり、契約の上限があったりしてそれはそれで一筋縄ではいかないんだな、というのも見てきた。

 しかし、こうしたオンライン授業で国連子どもの権利委員会が各国政府にコロナ問題で次のように求めたのはなぜなのだろうか。

オンライン学習が、不平等を悪化させず、生徒・教員間の相互交流に置き換わることがないようにすること

 「個別最適化された学び」という触れ込みのもとで、福岡市でも補正予算が組まれて子どもに1人1台の端末を渡す「GIGAスクール構想」の予算がばらまかれたのだが、「プリントを配る」というほどの教育思想のままの「個別最適化された学び」であれば、結局「やる奴はやるけどやらない奴はやらない」という程度の「不平等の悪化」しか招かないなと、この臨時休校のわが娘の様子を見ていて実感した。

 表面的には、このコロナ禍を奇貨として(まさに「ショック・ドクトリン」として)、巨大資本はこれを「ビジネスチャンス」にして「個別最適化の学び」のビジネスを売り込み、同時に教育の民営化と公教育のスリム化を押し付けようとする。そのかげでわからない子どもは置いてけぼりになってしまうのである。

 だけど、それは表面的なことだ。

 佐貫が言うように、半面で次のようなことも明らかになった。

学校の突然の「休校」要請——首相の独断による学校機能の一斉の停止——が、逆に子どもの生存と権利実現にとって決して停止してはならない社会的、共同的機能を、学校が担っていることを鮮明に示した。学校は単に学習権に止まらず、人間的な共同性を実現する場、貧困対処、栄養の摂取、障がいや発達の困難への特別の支援、等々、総じてそれなくして子どもの権利実現も社会の営みもできない高度で不可欠な仕組みであることが再認識されつつある。(p.97)

 娘から発せられていた「友達に会いたい」「学校に行きたい」という切実なつぶやきはまさにこういうことだったのだろう。

  そして先程来述べてきたように、本当なら、学校での学びは、単に個人個人が勝手に「最適化」という名の下に与えられたプリントをこなして得るような知のあり方ではなくて、その人のとって切実な課題を表現して、それをみんなで考えて解決するという民主主義の問題であり、その民主主義の機能が学校で失われているというのが佐貫論文の核心である。

 そしてそれこそが国連の子どもの権利委員会が述べているように「生徒・教員間の相互交流に置き換わることがないようにすること」という意味であろう。

 しかし、先ほどから述べてきたような、「個々人にとって切実な課題」を、どうやって「みんなの課題として考えていくのか」、ということは、少し理屈が必要になる。そこはぜひ佐貫論文を読んでみて、そこに答えがあるかどうかを実際に考えてほしいと思う。

*1:クリップスタジオというお絵かきソフトのこと。