倉本一宏『戦争の日本古代史』

 知り合いの研究者が10年前に韓国で学会(理系)に参加したときと、今回参加したときではその水準がまるで違っていて、「ああ、日本は今抜かれつつあるというか、抜かれたんだなと思った」と話していたのを印象深く聞いた。

 

 韓国のことに詳しい同僚が「前衛」(2019年12月号)所収の加藤直樹の「なぜ日本のメディアの韓国報道は歪むのか」などを紹介しながら、「もともと韓国や朝鮮に対する蔑視・格下視があった(日本の)人たちは、80年代末に韓国が民主化を果たして経済を成長させていき、今急速に日本を抜いていく姿を見て、『格下に抜かされる』という焦燥感から断末魔のように嫌韓感情を吹き出させているのでは」という考えをぼくに語った。*1

 

 同僚が語っていた加藤論文には、朝鮮半島に対する根深い蔑視の出発点に、「神功皇后三韓征伐」神話があるという旨のことが書かれていたと述べた。

 その話を聞いて、ぼくは最近読んだ、倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書)のことを思い出さずにはいられなかった。

 

 

 

 この本はサブタイトルが「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」とあるように、まさに日本と朝鮮半島の戦争という角度から日本古代史を書いている。そして、日本における朝鮮半島への蔑視が古代の支配層の中に起源を持っている問題を「神功皇后三韓征伐」神話(それに対応する史実)にポイントを置いて論じているのだ。倉本はそれを「近代日本のアジア侵略の淵源」(p.280)と見ている。

 

 もちろん、「三韓征伐」論は出発点にすぎず、古代全体を通じて日本の支配層にあった地政学的感覚は「東夷の小帝国」(石母田正が提起したカテゴリー)という発想だったという。

つまり、日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが、朝鮮諸国よりは上位に位置し、蕃国を支配する小帝国であると主張するというものである。(p.281)

 倉本は、このような帝国思想が全く荒唐無稽だったかというとそれなりに「歴史的根拠」を持っていることを7点に渡って記している。

 その出発点になるのが、好太王碑に記されているように「百済加耶新羅」を「臣民」にしたという認識だ。これが「神功皇后三韓征伐」的な認識として神話になってしまったというのである。

実際には、百済の要請を承けて半島に出兵し、百済(や加耶)と一時的に軍事協力関係を結び、新羅に攻め入っただけなのであろうが、その過程において、百済加耶新羅を「臣民」としたという主張は、倭国の支配者層の間に根強く残った。(p.281)

 あとの倉本の挙げた6つの点は、いちいち書かないけども、例えば中国の王朝が朝鮮半島に対する日本の軍事指揮権や上位の位置付けを(全く形式的に)認めてしまったこととか、百済新羅が「調(みつき)」を御都合主義的に日本に贈ったために「うはww俺の方が格上www」という日本のカンちがいを誘ってしまったことなどがある。

 間違いが是正されずに累積していきながら、平安時代には、朝鮮側とは国としての外交をやめた上に朝鮮側の海賊行為から敵視思想だけが大きくなっていったことなどが書かれている。

 

 ぼくが住んでいる福岡県、その中でも福岡市周辺はこうした朝鮮半島の古代史に馴染みが深い。

 先日、九州大学(伊都キャンパス)周辺の遺跡をめぐるツアーにつれあいとともに参加したのだが、一番興味深かったのが、大学の移転による開発とともに鉄滓(スラグ)が大量に発見されていたという話だった。

 近くの今津の浜から取れる砂鉄(この辺りの浜辺の砂は時々黒い)を原料にしており、鉄の生産者集団のリーダーと考えられる古墳もいくつもある。日本では鉄の生産が6世紀まではできず、それゆえに鉄の生産地であった伽耶地方、すなわち「任那」に日本側は利権的な関心を抱いていた。しかし、この九大周辺ではちょうどその前後から鉄の生産が始められている。

 本書には鉄に関する話が繰り返し出てくる。

 国内で鉄が生産できるようになる六世紀までのあいだ、朝鮮半島南部の加耶地方の鉄をめぐって、倭国朝鮮半島と深く関わることになる。(p.9)

すでに『三国志』魏書東夷伝弁辰条に、「弁辰(弁韓加耶のこと)は、また十二国有る。……国は鉄を産出する。韓・濊・倭は皆、従ってこれを取る。」と記されているように(『後漢書東夷伝辰韓条にも同様の記事がある)、倭国も6世紀まではこの地域の鉄生産に依拠していた。(p.21)

五世紀までは高句麗に従属していた新羅も、六世紀に入ると急速に国家体制を固めた。成長の背景には、鉄生産の確保があると見られている。(p.67)

 九大キャンパスのある糸島の西端には「伽倻山(かやさん)という糸島富士があり、芥屋(けや)は「かや」の訛りではないかという話もある。

 ツアーに行った時のガイドの話では、藤原仲麻呂新羅征伐準備における兵器生産のロジスティクスとも関連があるのではないかとしていた。本書でも仲麻呂時代に築城された「攻撃的陣地」としての「怡土城」(九大キャンパス周辺地域にある)が紹介されている。

 正倉院に残っているこの地域の豪族と思しき人物「肥君猪手(ひのきみいで)」の戸籍を見ると、たくさんの妾や奴隷を擁した大家族であった。

http://inoues.net/study/mokkan.html

 まーそれもぼくの勝手な妄想だけど「ひのきみ」だから「火の君」で、鉄生産に関連のあった家じゃねーのかなとか思う。

 

 そして、本書に登場する刀伊の入寇元寇で侵略された地域というのは、まさにこの九大キャンパス付近なのである。

じつに有史以来、日本が外国勢力に大規模に侵攻されたのはこれ〔刀伊の入寇――引用者注〕がはじめてで、以降も鎌倉時代の蒙古襲来、そのつぎは太平洋戦争の空襲までないのであるから、いかに重大な出来事であったかがわかる。(p.234)

さらに重い影響は、〔蒙古襲来という――引用者注〕外国からの全面的な侵略をはじめて経験した日本人の異国観に、決定的なゆがみを生じさせてしまったことである。「清浄」な「神域」である日本と、その外の「汚穢」に満ちた「異域」、という図式は、深く日本列島住民の心理に根ざしてしまったのである(新井孝重『蒙古襲来』)。/そして異国に対する屈折した心理は、世界帝国であるモンゴルそのものよりも、その尖兵となって日本侵攻を進言し、多くの艦船を作って日本に攻め寄せた高麗に対して、より強く及んだものと考えられよう。(p.267-268)

 何が言いたいのかといえば、古代日本の朝鮮侵攻史と朝鮮・大陸からの侵攻史に、自分がよく知っている地域が深く関わっていることを、近くの遺跡・遺物からも、そして本書からも感じ取ってしまったということである。

 どれも倉本の推察の積み重ねに過ぎないといえばそうなのだが、現在の「嫌韓」の淵源が「三韓征伐」神話に相応する朝鮮介入史を起点としており、それが自分のよく知る地域の歴史現実に符合したために、なんだか「ものすごい客観的な根っこ」のようなものを感じてしまったというわけである。

 

 倉本は、本書の終章で近代の日韓(日朝)の国民感情について触れている。

「自己(朝鮮)は中国よりは下位にあるが日本(倭)よりは上位にある」と思いつづけてきた朝鮮が、「自己(日本)は中国よりは下位にあるが朝鮮よりは上位にある」と思いつづけてきた日本の植民地支配を受ける。これほどの屈辱感は、その国の人でないと、我々日本人にはとうてい理解しがたいことだったであろう。/一九四五年に植民地支配から解放された朝鮮(韓国・北朝鮮)の人びとが、あいかわらず自己を韓国・北朝鮮の上位と認識している戦後日本に対して抱きつづけている感情は容易に想像できよう。(p.288)

 

 倉本は「同様に、これは韓国(もちろん北朝鮮も)の人びとにも考えてもらいたい問題である」(p.288)としているが、この格下・格上的な見方、蔑視感こそが問題の根源にあると言える。

*1:加藤自身は劣位・上位という単線的な進歩主義による見方そのものを批判している。冒頭のぼくの知り合いやぼく自身を含めてそういう気持ちが韓国に対してあることは間違いない。また、加藤は同論文で「断末魔」という同じ表現を使っているが、加藤のいうえ「断末魔」は、「近代日本の歪んだ韓国・朝鮮認識の断末魔」であって、ここでいうニュアンスとは違う。