こちらのつづき
A いきなり「しーちゃん」と「ユキさん」を間違えたわけですが。
B 精読でもなんでもないね。
A 今日、出張だったんだけど、飛行機の中で『放浪息子』読み直していて、気づいて、大声あげそうになったもん。
B それ、航空法のなんかにひっかかるんじゃ…。
A 気をとりなおして、9巻と10巻です。これは二鳥修一が、文化祭でもなんでもなくて、学校の日常、平日に、女の子のかっこうをして登校して、大変な騒ぎになってしまうところですね。試練という意味では『放浪息子』全体の中でも、修一にとって一番大きな試練ということになるんじゃないでしょうか。
B そうなんですよお。ぼく、主人公がキツい試練にさらされる、特に奈落に落とされて弱る、っていうのをどうも見ていられないタチなんですよね。『ガラスの仮面』でも、北島マヤが新興の女優に陥れられるくだりがあるでしょう。
A ああ、それで芸能界を追放されてしまうという。
B ああいうシーン、見てられないんですよね。いやだなあと思ってしまう。つれあいは逆なんですよ。「あれがいいんじゃない! まさにドラマ、ザ・ドラマ!」っていう具合で喜んでいるわけですよ。で、『放浪息子』でも、このあたりはイヤな感じなんですよね。といって、読まない、見ない、ってほどじゃないんですが。
A 女の子は男の子のかっこうをしてもそんなに文化的ハードルは高くない。笑って許してもらえる。でも、男の子が女の子のかっこうをして登校すると重大事になってしまうわけですよね。「ぼくだけ笑われた」というのは本質的な一言だと思います。
B 笑われてにとりんが傷ついた、というより、お母さんがあわてる、先生が取り乱す、お姉ちゃんが学校に行けなくなる、というふうに、むしろ自分以外の要素ですね、自分をとりまく社会や文化の固さというものを味わったんじゃないですか。自分で決意すりゃいいってもんじゃないんだと思うわけですよね。男性としてこうふるまう、女性としてこうふるまう、ということが、自分の主観というより、社会によって規定されていると思い知るわけです。
A うーん、だけど、やっぱりクラスの人たちが笑い者にするのは堪えられないという点もあるでしょう。教室に入れないようにしたり、遠回しにニヤニヤされたりというのは。そのあたりも描いてますよね。
B まあそういえばそうですね。どちらもということでしょうか。いや、社会の側についてぼくが言いたかったのは、結局社会の側の方が変化してにとりんを受け入れてくれるようになるでしょう。あるいは、もともと受け入れてくれていたけど、混乱が過ぎ去ってようやくそのことがわかったというか。家族はお母さんだけが取り残された感じですけど、お父さんは柔らかに受けとめ、お姉ちゃんは結局は心配してくれている。友だちも支持してくれる人たちがいる。先生の中にもやんわりと受けとめてくれる人がいる。ある意味、理想的に周囲が受けとめてくれた感じじゃないんでしょうか。まさに理想です。これくらいの衝撃度で性的自己決定が受け入れられるとすればある意味、美しいですよね。
A なるほど。
B そして、にとりんが最終的に復帰するのは、クラスの劇の脚本を通してです。彼の思いがクラス全体で共有される……というと言いすぎなんですが、「カントク」なんて呼ばれながら、居場所を取り戻していくわけでしょう。
A そうすると、紙屋Bさんは、修一の決意とか自己決定よりも……。
B 周りが支えてくれた、居場所ができた、そういうところによる部分が大きいし、そこにこの話の美しさがあると思います。「かっこいいにとりん」になる上では、周りが支えてくれているということなんじゃないですか。にとりんは最初から美しくてかっこよかったわけじゃないっていことです。
A 9巻、10巻では修一のかっこいいシーンが出てきますね。
B 出てきますねー。マコに、「マコちゃんはかわいいよ!」ってきっぱり言える、「女性的な侠気」って、ヘンな言葉ですけど(笑)。それと、安那ちゃんが自分をふった理由を語った後に、それでも安那ちゃんが好きだというシーンがありますよね。マコも、安那ちゃんも、にとりんのあまりのかっこよさに、返答を失って「そんなこと言うの反則」とか「だから……! なんであんたはそういう……!」とかしか言えないあたりの喜びぶりが、こっちにも伝わってきます。ああいうかっこよさは、結局、「女装登校事件」を経たから得られた、にとりんの力であり、成長なんじゃないですか。
A そうそう。そうなると、ここで大きな画期が修一にはあるってことになるわけですね。
B そう思います。
A 有賀誠といえば、修一から手をとられてマニキュアをぬられて、オーバーヒートしていましたが。
B あれね! あれ、わかる気がする! ぼくもにとりんに手をとられたら、同じようになる気がする。……っていうか、マコみたいにオーバーヒートしてみたい、っていう気持ちでしょうか。
A それ、どんな気持ちなんですか。
B この巻で高槻さんと千葉さんとにとりんの3人で出かける時、にとりんが女の子のかっこうをしてくるシーンがあるじゃないですか。あれ、ものすごくかわいいんですよね。ショートでちょっとうつむいていて。あの子に手をとって手をいじられるっていうことの快感ですよ。
A それは、かわいい女の子という……。
B いや、ちがうんですね。ちょっとちがう。別な感じなんですよ。「男の娘」っていう別のものにさわられていることの快楽なんです。
A そういうのってもう少しいうとどういう感情なんでしょうね。
B ぼくもよくわからないんですが、これまでの分析の仕方を無理にあてはめると、やっぱり中性的なものには、女性性特別にくっきり浮き上がるんだろうと思うんです。境界ですから。女とか男という定義のギリギリにある存在なので。それで特別な女性性を感じるんじゃないかと…。
A ほうほう。ところで話は全然かわるんですが、土居はどうですか。最初は繊細さをふみにじるだけのイヤな奴として登場するわけですが、「繊細さを理解しない」というキャラクターを定向進化させて、小細工を吹っ飛ばす=大衆のもっともラジカルな感情を代弁する、というふうになってますよね。
B そうですね。みんなが笑うようなセリフ回しを作れたり、「バカじゃん おまえ」っていう身も蓋もないけど、にとりん自身もそう思わざるをえないような本質的でラジカルな一言を言う存在になってますよね。それで保健室登校していたにとりんに、「お前もう教室出てきたら」と言う。やさしい、というより、すっきりと物事を理解する。それがラジカルさになって現れるし、「女みたいに」うじうじしている混迷を破壊する力になっているわけですよね。「嫌いだけども認めざるをえない力がある」っていうポジションはいいですね。好きです。性的な意味も含めた存在感の塊たるキャラとしては何も心を動かされませんが、ストーリー上のキャラクターとしては魅力的です。よくできてます。