タイトルにある通り、不安障害、ADHDを抱えた作者の自伝であり、「メンタルチップス」、つまりメンタルの面でのちょっとした(自分流)対処法である。
うまく学校や社会になじめず、生活が破綻し、死ぬ直前まで追い詰められる様は『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』の永田カビを思い出す。
ただ、永田カビの方を読んだときは永田の苦悩の天よりも、性が自分を解放するカギになっていて、「フーゾク」(この場合「レズ風俗」)がその解放の契機となる可能性について驚かされた。そしてそれは説得力があった。
史群アル仙(しむれ・あるせん)の本書については、もっとまっすぐに、障害をもった自分がどう社会に「適応」するのか、という点が読む者に伝わってくる。
ぼくが興味を持ったのは、第29話「ADHD、働く」である。
ADHDと診断されても、「何か変わるワケではありません」(本書p.129)。つまり、そのまま職場がその診断を受け入れて急に寛大になってくれるわけではないのである。
ただ、史群は、商品を壊して叱られているとき、上司の顔をよく見ると、上司自身が困っている……と気づき、自分も工夫をしてみようと思うのである。
自分のミスと、弱点をノートに書き出し対策を練る。
このとき、いくつかのポイント、ステップがあるのだが、その中で自分のことを相手に「カミングアウト」してみる、というステップがある。
それは「欠陥を受け入れてもらう」のではない、と史群はいう。
「仕事」をするための私の「情報」なのです(本書p.132)
得意なものを、自分のペースでまかせてもらい、そのとき自分の弱点をカバーする工夫(例えば計算機を持参する)をする……などの相互性だ。
どうしてぼくがそこに注目するのかといえば、これは単に障害を持った人たちの問題ではないと思うからである。
誰かが職場で働く、というのは、その「誰か」にカスタマイズして職場が変形するということを含んでいる。職場に合わせて一方的に自分が変わるのではないということだ。
青年が社会にうまく出ていくことをどう支援するかを書いた、白井利明『社会への出かた』(新日本出版社)には、重度聴覚障害者が自動車運転をともなう職場はムリだとされていた話が出てくる。
しかし2007年に道路交通法が改正され、死角を減らすワイドミラーなどがあれば運転できることになった。適性の内容や条件が変わったのである。
いいかえれば、作業環境を変えると、適性の内容や条件も変わるのである。(白井p.189)
その職場が自分に合うとか合わないとかは、一方的に労働者側の中にある「適性」の問題にされてしまうことが多い。就職試験に落とされる、ということは、自分にその適性がなかったのだ、と。
しかし、本当の(あるべき)労働契約というのは、そういうものではないはずだ。
小さい子どもを抱えているので、働く時間はこういう配慮をしてほしい、とか、こういう障害を抱えているのでこういう仕事ならできる、とか、そういう「交渉」をして、それはOKだとか、それはダメだとか労使で協議する。おたがいに歩み寄るということになるだろう。
そのとき、職場は「変わる」。変わらねばならない。
労働者もまた変わる。成長することになる。
白井の本の中では、重度聴覚障害者の運転の話を聞いて、ある就職活動中の学生が「非常に衝撃的」と告白する。新卒一括採用というシステムの中では、往々にして就職の「当落」は自分の中の「適性」としてだけ処理されるからである。
もし「交渉」という、本来の労働契約らしいあり方が探れるのであれば、「適性」は変わるはずである。
そのような相互性が、史群の職場との付き合いの中には含まれている。
資本が示した労働条件に一方的に従わせるのは、いうなれば「ブラック企業」であるが、そのような労働に対する専制性は、実は「ブラック企業」だけのものではなく、資本の本性でもあるのだが。
これは労働契約だけの話でもない。
働き始めてからずっと続く話でもある。職場の民主化の話といってもいい。
実は、ぼく自身がいま直面していることでもある。
職場の方は、ぼくの事情を真剣に考えてくれて、カスタマイズしようとしてくれている。それに応えるように、ぼくも工夫をするつもりだ。
史群がここで試みたいくつかのステップは、まさにぼくの今の課題と重なって、響いた。
先ほどぼくは、
障害をもった自分がどう社会に「適応」するのか
と書いたが、実は社会の側がどう適応したかを含んでいるのである。