竹信三恵子『家事労働ハラスメント 生きづらさの根にあるもの』


家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書) 家事労働と聞いて、「あ、おれ関心ない」という男は多いだろう。ぼくもそのクチであった。著者も苦労したらしい。本書の発端となる連載には反響も大きかったのに、

出版社へ企画を持ち込むと、反応はさっぱりだった。(本書p.234)

 家ではカミさんに感謝しているぜ、という男性社員。私は働いているから関係ない、という女性社員。家事労働なんていう地味な話題はやめろ、これからは女性進出の時代だよ、という後輩。「家事労働の本」と聞いてイメージする消極的な反応にとりまかれたのである。


 正直、ぼくも「専業主婦の働きをお金に換算して評価する話」みたいなイメージが強くて、「ふーん…」という感じになってしまっていた。ふーん現象。


家事労働の在り方が私たちの会社での働き方や社会政策にまで広く影響を及ぼすのだと力説しても、「料理や洗濯がなぜ会社の仕組みや福祉制度に関係あるんですか?」と首をかしげられた。(同前)

 結論めいたことを先に書いておけば、すべての家庭がかなりの量の家事労働(育児や介護をふくむ)をおこなっていて、その一定量はどこかで誰かが担っている。女性におしつけるか、社会的に委託するか(購買や社会サービス)、男女が分かちあうか、またはこれらのミックスか。その組み合わせで働き方と社会のありようが大きくかわってくる、という話である。

ぼくの独身時代

 ぼくの独身時代。親の介護はない。子どももいない。婚約はしていたがつれあいとは別居していた。家事はどうなっていたか。食事はほぼ完全に社会に委託。つまり外で買っていた。したがって面倒な配膳や洗い物、食器管理もない。洗濯もひどかった。背広とか着なかったので、同じものを何日も着たり、1日着てスーパーヘビーローテーションでくり返し、そうだなあ1ヶ月に1回まとめて洗濯したりしていた。部屋の掃除もしない。埃がたまり、本が部屋に充満したときだけやる。食べたものを食い散らかして腐らせる類のことはなかったが、まあ相当に家事をしない人間だった。こういう人間に家事労働の問題意識など起こりようがない。
 同時に、ここまでひどくはなくても、家事労働が「ない」かのように思える若年層は、夜遅くまで働かせることができる。外食ばかりでも体がもっているかような錯覚のまま、知らずに無茶を蓄積しているだけなのだが。

子育てが特にアレだな

 ところが、つれあいと一緒にすみ、やがて子どもが生まれてから、家事労働は「なかったこと」にはならなくなった。職場から出て、保育園に迎えにいき、子どもが荷物をまとめるのを待ち、買い物をし、家についてから荷物の片づけで子どもとほぼ毎日格闘を続け、料理をし、配膳と食事と片付けをめぐってふたたび子どもと格闘し、子どもに食器を洗わせつつ、洗濯物をとりこんでここでもたたむことについて子どもと格闘し、何度か言って子どもにやらせつつ、風呂をいれてまた、子どもがマンガを読むのや絵を描くのをやめて風呂に入るかどうかで子どもと格闘し、風呂で早く洗ったらどうかと格闘し、先に風呂から出た後、風呂のふたをしめたかどうかを子どもに対して声かけして、布団をしくものの、歯磨きをしたかどうかで子どもと格闘し、時間があれば子どもに本を読んでようやく消灯である。
正直ヘロヘロだ。
 途中でつれあいが帰ってくると、心底ほっとする。このプロセスのうち、風呂ぐらいにつれあいは帰宅することが多い。こっちが夜出るときは、このプロセスはすべてつれあいに押し付けられるのであるが。
 もし自分がシングルだったら、こりゃあつぶれるか、何かを完全に手抜きするしかなくなるだろう。

…家事はいつも楽しいわけではない。料理や洗濯のひとつひとつは、一見「軽い労働」に見える。しかし、それが束になり、しかも家族の必要に応じて一日中間断なくのしかかってみえるとき、それは重労働になる。介護や育児は重要だという人でも、「家事」となると「女性ならだれでもできる仕事」と考えがちだ。でも、介護や育児って、ご飯を炊いたり洗濯したりの家事の連鎖なんだって、わかってます?

しかもこの労働は、どういうわけか対価がつかない。家政婦が雇い主と結婚して妻になったらそれまでの有償労働が無償労働になる、と言った人もいたようだが、「家事」となったとたん、その仕事は、お金を稼げたはずの時間を着実に奪っていくものに転化する。茶碗を洗ったり、繕いものをしたりすることは、適度に、自発的に行うときは、癒しや自己回復の営みになる。だが、その分配が過重になるとき、「家事」は、その担い手を破壊しかねない。(本書iv)

 この指摘がすごくよくわかる
 これで子どもが複数いたり、介護すべき家族がいればさらに大変だろう。
 そして、実感としては、家事労働は職場の労働よりも密度が高い。同じ1時間でも労働支出量がより多いと思う。とくに育児・介護。

家事労働が「なかったこと」にされる

 残業させて平気な人、早く帰る同僚を非難の目でみる人、夜の「出ごと」を気軽すぎるほどに頼む人、というのは、この家事労働を自分ではない誰かが担っていることが多いのだろう。
家族だったり、社会だったり。その人にとって家事労働は「なかった」ことにされている。カウントされていないのだ。
 あ、夜の「出ごと」を気軽すぎるほどに頼む人って、たとえば町内会長であるぼくがケンカした、町内会連合体のウンコ幹部の人たちね。男の老人。子ども会関係の会議を夜開かせて親が子どもをつれてくると「子どもをつれてくるな」といきり立つ老人。真性困ったちゃん。



 本書は、この家事労働が、いまの社会でいかに「ないこと」にされているかを、さまざまな問題、さまざまな角度からルポしている。そして、家事労働が「だれでもできる軽いこと」という扱いをされることによって、保育や介護などの仕事の低い評価を生み、ついにはワタミの厨房で働いていた人が過労自殺をするような事態にまでつながっていく。「料理」という「だれでもできる労働」は、積み重なることで人を殺してしまうまでになる。


 専業主婦と働いている女性との賃金を比較して「専業主婦のほうがたくさん稼いでいます」とぶちあげてしまう男性役人の勘違いの話も出てくる。働いている女性の家事労働がその場合換算されていなかったのだ。どっちがえらいとかいう話ではなく、ここでもまたしても(働いている女性の)家事労働は「なかった」ことにされているのである。

家事労働の再配分こそ問題の根本

 著者は、オランダやスウェーデンの実態を紹介する。
 家事労働の時間をはっきり社会的に明らかにし、「これを誰がやるんですか?」と社会全体で検討したというわけである。
 家事労働を社会に移してしまうというのがスウェーデン型で、男女ともにパート(といっても日本で言えば正社員の短時間版)にして男女が担うようにしたのがオランダ型。週4日ずつのパート労働でやりくりする夫婦が紹介される。男だけが1稼ぐのではなく、男女で0.75ずつ、あわせて1.5をめざすという。いやまあ、別に0.51ずつでもいいわけなんだがね。
 このようにすれば確かに社会はかわる。


ワーク・ライフ・バランス政策の根幹は、家事労働の再分配にある。ワーク(賃労働)とライフ(無償労働)の二つの領域のバランスをとるということは、働きながら家事もできるなんらかの労働時間政策が必要ということを意味するからだ。日本のように、ワーク・ライフ・バランスが保てないような長時間労働が慣行として横行している社会では、これをいったん矯正してあるべき姿に戻すための労働時間規制が不可欠だ。こうした労働時間の適正化を前提に、女性は、抱え込んだ家事労働の一部を、男性と保育所介護施設などの行政サービスに委ね、浮いた時間で賃労働を増やして経済力をつける。男性は、家事労働の一部を引き受けることで人間的な暮らしを回復しつつ、女性による有償労働で自身の賃金の減少分を補う。こうした道筋でワーク・ライフ・バランスは進むはずだ。(本書p.219-220)

 本書を読んでいて、うっと来た箇所は、2005年に著者が取材した30代の派遣労働の女性の話。正社員の職が見つからずに派遣をしているうちに妊娠した。夫は契約社員なのでこの女性の収入なしには生計が成り立たない。
 派遣会社が育児休暇を認めてくれれば何とか乗り切れる、と思ってかけあうが、派遣会社の男性営業担当は彼女を切る。

さらに、夫に対し、「同じ男として、面倒を見る自信がないのに妊娠させたりはしません。私も妻がおりますが、家でごろごろしております。(中略)いつ妊娠しても大丈夫な経済的蓄えもございます」というメールを送りつけてきた。(本書p.28)

つうのがヒデェ…と思わざるをえなかった。

女性は夫の経済力で生活すべきで、子どもができたら働き続けることなど論外、派遣会社はこれを前提に労務管理しているということだ。(同前)

 自分自身が家事労働を「なかった」ものにしていたという反省、そして、それを「見える」化したうえで、社会の誰がそれを担うのか、再配分をどうするのか、という視点から社会を組み立てなおす、という視点が弱かったことを反省させられた一冊だった。


 とりあえず、アレじゃないかな。
 自分の背広の背中に、「家事労働時間8時間/日」(労働強度を加味)というワッペンを貼って出社したい。
 だめ?