「今の日本では労働者は解雇できない」という意見に対して「きちんと手続きを踏めば労働者は解雇できる」と答えたら、あたかも解雇指南をしているかのようである。
いや実際「解雇テクニック」としてそういう「手続き」を教える場合もある。
しかし、経営者として労働者の能力向上や技術習得に必要な手立てがどういうものかを定めて、それに力を尽くしたかどうか、その判断基準とするのであれば、ここでいう「手続き」はまるで正反対の意味を持ってくる。
それでは、どのような場合に解雇が正当であるとされるのでしょうか。……一言でそれを述べれば、「解雇の通知の前に、経営者としてやるべきことをやったのかどうか」ということになります。
その「やるべきことをやったのかどうか」は、たとえば「仕事ができない」「業務命令に従わない」と判断した労働者に対して、経営者が「どれだけ仕事ができるように可能な手を尽くしたのか」「どれだけ業務命令に従うように可能な手を尽くしたのか」ということが問われるのです。
この「手を尽くしたのか」に関する経営者の自覚と覚悟のもとでの具体的実践があって、「そのように手を尽くしたにもかかわらず、労働者が変わらなかった」「だから止むを得ず解雇に至った」ということであれば、解雇は正当であるとされるのです。(ホワイト弁護団『めざそう! ホワイト企業 経営者のための労務管理改善マニュアル』旬報社、p.46-47)
よく経営者の中で「日本の労働法制は解雇が事実上できないようになっている」という向きがあるけども、それは誤解である、と本書は主張する。「多くの裁判で『解雇』が認められないのは、法律上必要とされる手続きを踏んでいないだけなのです」(同前p.46)。多くの解雇が労働契約法16条に定められた「客観的に合理的な理由を欠き」「社会上相当と認められない場合」なので「経営者が勝てないだけ」(同前)なのだという。
経営者が、自ら行なった解雇について、これらを充たす手順(「正当化」手順)を踏んでいないことを棚に上げて法律・裁判を批判することは、とんでもない勘違いだと言わざるをえません。(同前、強調は引用者)
一番わかりやすいのが、試用期間中の労働者に対してだ。
試用期間の終わりに「必要な水準に達しませんでしたね。はいさようなら」ではなく、あらかじめ必要な水準やスキルを明示すること、そしてそのための研修・教育の機会を設けること、途中で本人への注意喚起や改善の手立てを取ること、どうしてもダメな場合は配置転換などを検討すること……など本書は説いている。
経営者が「優秀な労働者」を採ろうとするのは勘違いであって、採用基準は、「普通の労働者」であるべきで、「それなりの教育制度があり、それなりの担当者がいて、それに経営者の覚悟が加われば、よほどの専門的分野でない限り、『普通』の社員でもそれなりに『優秀』になるのではないでしょうか」(p.39)とする。
「だらだらと残業している」「まともに仕事もしない」と経営者は労働者をくさす前に、「お前は経営者として具体的に『残業しないで済む手立て』『まともに仕事をする措置』をどうとったんだ?」ということが問われるのである。裁判にでもなれば、必ずそのことが争われる、と本書は言う。
本書はこのような義務を使用者(経営者)が負っている理由を、労使関係の法的意味から説いている。
労働契約法では雇用関係にある労働者に対して使用者は指示が出せるし、その指示に従った仕事をさせることができ、労働者はそれを拒めない(使用従属関係)という、圧倒的優位を使用者に認めている。そして、そのような契約が売買のように一瞬ではなく継続される。
こんなに強い権限を持っている使用者だからこそ、「効率的業務」のためにどういう具体的措置をとったのかが問われるのである。労働者に「自分で考えろ!」「ちゃんとやったのか!?」と言い放って終わりで済む話ではないのだ。
この『めざそう! ホワイト企業 経営者のための労務管理改善マニュアル』は題名のとおり、労働ルールを破壊し労働者を使い捨てにする「ブラック企業」の反対、ルールを守る企業をめざし、経営側の改善を求める本である。
労務管理を“短期的に利益をあげるために労働者を厳しく統制するもの”と考えるのではなく、ルールを守るようにさせる。
しかし、一見すると、それは労働者の利益だけになって、経営者にとっては何もいいことがない、ただ利潤を削られるだけではないかと思うかもしれない。
そうではない、と本書は言う。
「ホワイト企業をめざす」ということは、それ自体が目的ではなく、それによって企業(法人)の中長期的な発展をめざすということにその目的があります。(前掲p.125、強調は引用者)
なぜホワイト企業になることが「中長期的発展」と言えるのか、いろいろ本書には書いてあるのだが、ぼくなりに読み取ったことをまとめれば、結局コンプライアンス、ルールを守らない企業は市場から退場を求められるように、かなり世の中が厳しくなってきたということである。
昔は、ルール無視で短期利益をあげることが問題視されず「やったもん勝ち」だったので、ルールを守っている方が「アホ」だったのだが、行政の監督的にも、また、社会の目線的にも、それでは済まなくなってきたということである。「売り手市場」において生き残れない(本書p.72)。
本書では労働組合も「会社の中長期的な発展に貢献すべき役割が期待されています」(p.54)としている。
本書は
勘違いしていただきたくないのは、たとえば、残業のある会社あるいは解雇をする会社は、イコール即「ブラック企業」ということではないということです。(p.30)
としている。
「労働法の精神通りやる」≠「杓子定規なルール」ということが言いたいのだろう。
ぼくなりの解釈を示せばこうなる。
解雇をするさいに、労働法の精神通りにやるなら、労働者と経営でどんなスキルが必要なのかをはじめにしっかり確認し合う。そして、研修や教育を用意して努力する。メンターをつける。途中で注意をしたり、再教育をする。面接をする。それでもダメなら他の職種に変えてみる。
そういうルールと手続きがきちんとふまれれば、解雇はやむを得ないという結論もあるというわけだ。
あるいは、残業をするには36協定(労働基準法第36条にもとづく協定)を結ぶ必要がある。
この協定は経営者が労働者の知らないところで勝手に押し付けてはいけない。
https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/dl/36kyotei.pdf
労働組合、それがないところは、労働者の代表と結ばないといけない。
この代表は経営側が勝手に選んではいけない。「親睦会」のようなものがあるからといってその代表者を勝手に当ててもいけない。
つまり、労基法の精神をきちんと踏まえるなら、経営側の干渉を排して、労働者の中で残業していいかどうか、残業するならどれくらいを上限とするかをきちんと話し合って経営側と協定に臨まなければいけないのである。
そういうふうにしたほうが、労働者にとっても納得がいくし、経営者にとってもいいのではないかというのが本書の提起である。
逆に言えば“解雇してもいいし、残業してもいいが、ぜんぶルール通りにして、お互いに可視化してやろうよ”――これがホワイト企業だということになる。
ルールや手順を踏もうとしない企業・事業所が多すぎるのだ。
それをコストとしか見ていない。
それが中長期的な利益になるとどうして信じられないのだろうか。
解雇にしたって、残業にしたって、そういう手順を踏む方のがはるかにいいのではないかというのがぼくの率直な疑問である。
本書の良さは、労働契約の本質からホワイト企業論を起こしている点にある。