「スクールカースト」とまでは言わないけども、文化圏が違うクラスの女子、特にギャル的な女子から、相当にからかわれながらちょっかいを出されて「構われる」、つまりそのからかいは、実は自分への好意じゃないのか……?っていう話の作りかたは、ぼくの中学時代の体験を思い出させてしまう。

イジらないで、長瀞さん(1) (マガジンポケットコミックス)
- 作者: ナナシ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/03/09
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (1件) を見る
って言ってもだね、この作品と同じシチュエーションがあったわけじゃないんだよ。
この何百分の一くらいの、カケラみたいな個人的経験。
全然日頃接触のないヤンキーの先輩女子にからかわれながら学校から帰ったことがたった1回だけあった。
そもそもそれまでの人生の中で女子にそんなに「いじられる」=関与された体験もなかったし、体をベタベタと触られたこともなかったし、「かわいいね」とか言われたこともなかったので、ものすごい鮮烈なインパクトがあったんだよね。
別にその先輩を好きになったわけじゃないんだが、こう、身悶えしてしまうみたいな。何百回でも反芻するとか。性的な妄想を膨らませるとか。
『長瀞さん』はその核になっている微量の記憶にすごくよく似ている。
よく似たマンガに『からかい上手の高木さん』があるけど、あれと決定的に違うのは、オタク男子から見て「異なる文化圏からきている、アクティブな女子の関与」ということ。『高木さん』の高木さんと西片は同じ文化圏だと思うけど、長瀞さんとセンパイは本来別の棲息域にいたはずなのだ。
性的に見て主体性の乏しい自分が、都合よく関与される妄想のコアにあるのがこういう「イジられ」系の話だと思う。性的な主体性の乏しさは80年代以降に様々な、そして豊かな変奏を生み出してきた。
『長瀞さん』は、『高木さん』的なものに比べて、個人的な体験からいえば、ギャルというキャラ設定は関与してくる力が相当に強く感じられる。だから、ぼく個人でいうと『高木さん』より強く訴求してくる。『長瀞さん』がいいか、『高木さん』がいいか、そこらへんは個人体験に基づく好き・嫌いの度合いでしかないと思う。
50近い、いい大人がこれ読んで甘酸っぱくなっているのである。
ぼくの場合、上記のような経験があったんだけども、それ1回きりのことだけが記憶のコアにあるんじゃなくて、他にも、文化圏が同じような感じの女子であってもなぜか知らないけど自分に関与してくれる(ちょっかいを出してくれる)女子というものが中学・高校時代にいて、そういう女子を強く意識してしまったり、好きになってしまったりすることがよくあった(そして大抵リアルでは「えー、紙屋君のこと別にそんなふうに思ったことないし」的な手痛いしっぺ返しを食らう)。
そういう複数の経験がごた混ぜになって、『長瀞さん』を読むときの身悶えするような記憶を形作っている。
くそっ。ひ、ひ、人を童貞だと思いやがって。