「マンガ論争 24」で対談&木戸衛一「ドイツ総選挙をどう見るか」

 「マンガ論争 24」で荻野幸太郎さんと対談した。

manronweb.com

 左翼が表現の自由表現規制についてどうしているのか、どうすべきなのかがテーマだったが、もっと言えば、表現の自由の問題と、ジェンダー平等の課題をどう両立させるのか、という問題だと感じた。

 「マンガ論争 24」については、できれば別の機会に感想などを書きたい。

 この「表現の自由の問題と、ジェンダー平等の課題をどう両立させるのか」という問題に関わって、この記事では、日本共産党の政治理論誌「前衛」2022年2月号の木戸衛一「ドイツ総選挙をどう見るか」を読んだ感想を綴る。

 

 

 その中で、ドイツ左翼党の中での紛争について書かれた箇所に注目した(強調は全て引用者)。

 そうしたせめぎあいの中で目立つのは、移民の背景を持つ人、女性、LGBTなど、抑圧されたマイノリティのアイデンティティを主張する「アイデンティティ・ポリティクス」である。「ブラック・ライヴズ・マター」(BLM)運動の影響がそれに拍車をかけたことは言うまでもない。ところがアイデンティティ・ポリティクス」は、いささか一般庶民の感覚からずれた展開を示している。(「前衛」p.92)

 木戸が「一例」としてあげたのは、言語のジェンダー化の問題だ。

 記事を読んだだけではよくわからなかったのだが、次のネット記事を読んで、こういう話かと理解した(正しくないかもしれないが)。

もうひとつの問題は、一般的な表現ではいつも男性形が使われてきたことである。つまり一般的に「先生」を指す場合は、男性形の「Lehrer」(単数複数同じ)である。しかし男女差別であるとし、「Lehrerinnen und Lehrer(女性教師に複数形と男性教師の複数形)」を使うことが増えてきた。このとき、女性形から先にいうのが暗黙の了解にと*1なっている。

https://chikyumaru.net/?p=11620

 木戸はさらに、問題はここから複雑化しているとする。

 これに加えて、最近ではLGBTも意識すべきだという立場からの表記や発音がさまざまに飛び交っている。(「前衛」p.92)

 このほか、植民地主義の歴史を議論するときには「白人の爺さんは黙ってろ!」と言われることや、「黒人の生活を白人が翻訳できるのか」という批判がおきたアメリカでの事件を受けてドイツ出版社では63ページの本の翻訳に白人女性・黒人女性・ムスリム女性の3人のチームを当てたという話などが紹介されている。

 このように本来少数派の権利拡大と抑圧からの解放を目指したはずの左翼の「アイデンティティ・ポリティクス」は、生得的メルクマールを用いて差別・排除を正当化する右翼の「アイデンティティ・ポリティクス」と図らずも同様の機能を果たす皮肉な現象すら引き起こしている。(「前衛」p.93)

 つまり、年配の白人だから植民地主義を議論する資格はない、とか、白人だから黒人の生活は理解できない、とかいった「生まれ」で差別する現象がおきてしまっているということだ。これでは右派と同じではないか、と。

 そして、世相をこう結論づけている。

 世論もおおむね、ポリティカル・コレクトネスの画一主義的傾向、とりわけ過去の言動で著名人の業績を全否定する「キャンセルカルチャー」に辟易している。(同前)

 その例証として、木戸は「フランクフルター・アルゲマイネ」紙の世論調査を紹介。例えば「男性名詞とともに常に女性形を書くジェンダー的に正しい言葉遣い」をするのに理解を示すのは19%しかなく、71%が「やりすぎ」と答えている。

 

 このような世論状況のもとで、左翼党の中はどうなっているのか。

 左翼党の中で「アイデンティティ・ポリティクス」に手厳しい批判を加えているのが、ザーラ・ヴァーゲンクネヒトである。(同前)

 「アイデンティティ・ポリティクス」についてヴァーゲンクネヒトは、大都市に住み高学歴・高収入で、グローバル化EU統合の恩恵を受けている「ライフスタイル左翼」が、社会問題や再分配の問題よりも、ライフスタイルや消費習慣、道徳的態度の問題を政治テーマ化し、自分たちを模範に伝道していると強く批判した。(「前衛」p.94)

 2021年6月にはヴァーゲンクネヒトに対する除名動議騒動までおきている。

 木戸は、ヴァーゲンクネヒトが緑の党社会民主党の有志と「立ち上がれ」運動を起こしたことについて、「不服従のフランス」やコービン英労働党の動きにならったものだと見つつも、ヴァーゲンクネヒトの動きは「左翼党内の亀裂をむしろ深めた」(p.94)と冷静に見ている。

 

 後半の問題(「ライフスタイル左翼」批判)は、『99%のためのフェミニズム宣言』などに見られるように、「左翼」的ポジションから、民主主義的課題を批判するものである。

 

 

 後半の問題は大ざっぱに言えば、「民主主義的改革のために左翼(社会主義者)はどう振る舞うべきか」という問題であって、「民主主義革命」を共産党がかかげる日本では近代以降ずっと論じられてきた古典的テーマである。すなわち、“その国の資本主義のきわだった矛盾によって資本主義のルールの範囲でも問題が生じており、資本主義の枠内での民主主義的な改革を行うために、左翼だけでなく無党派保守主義者も広く手を組むべきである”ということになる。

 だから、後半の問題について言えば、日本では基本的なスタンスは確立されている話なのだ。ヴァーゲンクネヒトのようなやり方では、分断が煽られてしまう。

 しかし、だからと言って、「ライフスタイル左翼」批判に学ぶことがないわけではない。ジェンダー平等の課題として押し出されている問題が、その国の資本主義制度のどのような矛盾から生じているかを常に左翼は考えるべきであって、その中でも、経済や再分配の問題と切り離したり、それを後回しにしたりするようなやり方をすれば、「ライフスタイル左翼」とみなされてしまうということだ。

 ジェンダーや気候危機の問題が、生活から浮き上がってしまうような提起の仕方に、注意すべきなのである。

 

 それにしても、「アイディンティティ・ポリティクス」全体についてである。

 ドイツの左翼党もこの問題で揺れているわけである。

 木戸が「アイディンティティ・ポリティクス」が「いささか一般庶民の感覚からずれた展開を示している」「ポリティカル・コレクトネスの画一主義的傾向……に辟易している」と述べている点は興味深い。

 「前衛」もこういう論文を載せるんだなあ、と思った。

 

 政治的な公正と表現の自由のためのたたかいを両立させることは、日本の左翼においてまだ探求の過程にある。模索中なのである。模索中なのだから、「揺れ」があることは仕方がない。それを我慢しながら、統一と団結を深めて前進すべきだ。

*1:2022年1月15日現在、ママ。