萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門~複雑化する社会の答えは哲学の中にある 「サイゾー」で萱野が連載していたものをまとめた本。
 ときどきの社会事象を、わかりやすく大もとから解説する。
 「わかりやすく大もとから」というのが、池上彰的なそれではなく、哲学的にやろうという態度。
 というのは、初心者の疑問というものはそもそもラジカルな、根元的な問いを含んでいる。そのことをきちんとわかりやすく説明しようとすると徹底的に考えざるを得なくなるからである。
 まあ、萱野の本書が結果的にその課題にうまく応えているかどうかは別問題であるけどね。


 「4 なぜ日本のポストモダン思想は不毛だったのか?」は次のような書き出しだ。

 私が大学に進学したのは1989年ですが、そのころの日本の人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味のある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。
 愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スタートしてあがめられていたデリダドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前をつかって議論を交わしているのをみて驚いたものです。(p.56)

 その上で、萱野は当時の状況を厳しく総括する。

ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうに空疎なものでした。そのころ日本でだされていた書物や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界の話です)。(p.56-57)

 ポストモダン思想への嫌悪は、萱野の初期の著作『国家とはなにか』の頃からにじみ出ていて、その後の彼の著作を読むと端々にそれが感じられた。
 本書のこの部分では、岩井克人貨幣論』が槍玉に挙げられる。

ポストモダン思想における貨幣論では、往往にしてマルクスの『資本論』(第一巻:1867年)における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、次のように論じられることが定番でした。すなわち「貨幣が貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(つまり、みんながそれを価値あるものとして受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」と。(p.58)

 “こんなものは何も説明していない、単なるトートロジーではないか”と萱野は批判するのである。
 岩井克人が最近新聞に引っ張り出されてきて話をしているのをみたが、それはビットコインなどの仮想通貨についてのコメントであった。


 仮想通貨は、それ自体は無価値なものである。
 この点は紙幣と同じである。
 そのことはぼくも過日のエントリで書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171224


 無価値なものが流通手段機能を果たし、通貨として働くのはなぜか?
 端的に言えば、岩井は「みんなが受け取ってくれるから」というわけだが、萱野は、本書で、「徴税力こそが貨幣の価値の裏づけとなる」(p.61)と言っている。萱野は徴税力を次のように補足的に説明する。

 徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの額の税を徴収できるかを決定します。
 要するに徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。(p.61)

 マルクスは紙幣がなぜ流通するのか、という問いに対して、国家による強制通用力があるから、説明していた。つまり、権力を持っていたからだ、というのである。


 権力を持っているから通用する、というのは「ほら、受け取れよ」ということを暴力をバックに強制できる、という意味であるが、マルクスの時代はその説明で済んだ。なぜなら、紙幣は価値の実態を持つ金(gold)の裏づけがあり、交換を保証してくれたからである。紙幣は単に「私は金100グラムを持ってますよ」という証明のようなものだった。


 しかし、今は金の裏づけはなくなっている。
 それなのに、なぜ紙幣という無価値なものが通用し続けるのか。
 萱野があげた「徴税力」は、いざというときは、国家が「徴税」という形で価値の実体のあるものをどこからか集めてきて引き換えてくれる、という意味にとっていいんじゃないかと思う。ぼく流の解釈だけど。
 そのコアにあるのは、国家権力、国家がふるえる物理的暴力の脅しである。
 ただ、いくら棍棒を持っていても、棍棒を振るわれる国民の方が富を持っていないと話にならないので、萱野のいう「国力」とは、「国家の棍棒+その国民の富」の大きさ、ということになる。いざというときは、その「国力」で、紙幣と富を引き換えてくれるから、安心して使ってください――こういう理屈で紙幣は通用する。


 この説明はなかなかよくできている。
 単に「国家権力の裏づけがあるから」という説明だけだと、例えば貧しい国家の紙幣はあんまり信用されない理由がわからない。貧しい国家は、いくら棍棒を振るっても国民も貧しいので富が集められないのだ。


 この説明は、ビットコインのような仮想通貨と紙幣の違いをも説明する。
 同じ無価値なものであっても、仮想通貨には「徴税力」の裏づけがない。だから、資産価値がゼロになった時(つまり「欲しい」という需要がなくなった時)、本当に無価値になってしまう。


 他方で、ビットコインのような仮想通貨がなぜ流通するのか、という説明としては萱野の説明は苦しい。岩井の説明、「みんなが受け取るからそれは貨幣なのだ」がまさに仮想通貨を言い当てているかのようである。


 萱野が不換紙幣・管理通貨制度下の紙幣の根拠が「徴税力」=「国力」であるというなら、逆に言えば、仮想通貨のようなものは通貨たり得ない、と主張していることになる。
 これは萱野の予言ではないか?
 つまり、ビットコインのような仮想通貨は実は通貨たり得ず、やがて消えて行くのだ、という。今通貨としての通用力をもっているのは、一時的な現象に過ぎない……と。いや別に萱野はこんなことを言っているかどうか知らないが、萱野の主張を延長していくとこういうことが言えてしまうのではないか。


 紙幣自体は、金と違い*1、価値を持たない、無価値なものである。
 しかし、紙幣は国家が「徴税力」=国力の裏付けを持っているので、いざという時はなんとかしてくれるかもしれないという期待がある。
 ところが、仮想通貨はそうではない。
 仮想通貨は、それ自体は紙幣と同様に無価値なものである。だから「1万円」という表示がしてあっても、それ自体が1万の価値を持っているのではなく、「1万円の価値物との交換をしてくれる」証票のようなものにすぎない。価値の実体的な裏付けも、客観的な担保もないのに、「貨幣として受け取る」という合意だけで成立しているのが仮想通貨である。これほど岩井の想定を裏付ける存在はあるまい。
 岩井は、朝日新聞のインタビューで、仮想通貨が無価値な流通手段のままでいることをやめて、分不相応な資産的価値を持ってしまったことを嘆いている。

――貨幣になるには、何が不足しているのでしょうか。
「いえ、逆に過剰な価値を持ってしまったのです。あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13318005.html

 もし、今の仮想通貨バブルが弾ければ、仮想通貨は資産価値を持たなくなる。
 その時、初めてただの流通手段・決済手段としての純粋な通貨として仮想通貨が現れる可能性は確かにある。


 萱野的な予測が勝利するのか、岩井の理屈が勝つのかは、ぼくには今のところどちらとも軍配をあげにくい。


 なお、萱野は、本章を

国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて貨幣の価値を支えることで内在的に市場を構成しているのです。(p.63)

と結んでいる。
 これはマルクス主義を意識しているのだろう。
 つまり、資本主義国家は経済にとって外在的な存在なのだというアレだ。この点への批判もまた萱野が『国家とはなにか』から唱え続けていることだ。
 しかし、この萱野の考え(国家は貨幣という点で市場に内在的に役割を果たす)は、例えば近代初期において金・銀が国家の関わりなく国際的な決済に使われ、人々によって追い求められてきた、という歴史をうまく説明できなくなるマルクスは、商品経済の中で、貨幣が国家権力の媒介なく自立的に登場して「金」という形態を得ることを、萱野が参考文献として紹介したはずの『資本論』のなかで説明しているのだ。


 萱野の説明は、不換紙幣の説明としてはうまくできているが、それ以前の価値物としての貨幣、それ以後の仮想通貨を説明するのには向いていない、という気がする。

萱野は右傾化したか

 なお、萱野については「右傾化した」という批判がネットを中心に非常に多い。
 正直、本書でも各テーマのポジショニングだけを問題にすればそれは「右」の方にいるな、ということは言える。テレビや新聞で萱野の発言を見ていても、同断である。


 萱野は例えば『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)でも表明しているし、本書でも上記のような物言いをしているように、自身の学生時代に自分の周囲にいたであろうポストモダン的な左派に非常に強い嫌悪感を覚えている。いったん、自身がそこに身を沈めつつ、違和感からそこを脱却したような感じであろう。
 ナショナリズムが俗悪な形で現れた時(例えばヘイトスピーチのような排外主義)、それは「反ナショナリズム」でいいのか、という問いの仕方は、ぼくは誠実なものだと考える。


 他に、萱野は例えばベーシック・インカムには批判的である。
 ぼくも現時点ではベーシック・インカムの現実的導入には課題が多すぎると感じていて、具体的な社会保障制度の改革が積み重なって結果的にベーシック・インカムのような「最低生活保障」に到達する、というのが一番現実的ではないかと思っている。だからベーシック・インカムに手放しで賛成する向きに批判的な萱野の気持ちはわからないでもない。


 萱野が結果的に「右」にきてしまっているのは、彼なりの知的誠実さの結果だと思いたい。むしろ萱野を乗り越えるつもりで左派は具体的対案を考えるべきで、萱野が「右」に行ってしまったこと自体を非難することに、あまり意味はないと思う。

*1:マルクスの説明では、金はその採掘に莫大な労働量を投下すし少ない量で大きな価値を表すとされている。