今後の新しい雇用に耐えうるのはむっちゃ知的な訓練を受けた人か、めっちゃコミュ能力が高い人では
AIは仕事を代替するけども失業は増えるのか? みたいなことを考えているときに、日経の社説を読んだ。
AIやロボットが雇用に及ぼす影響をめぐっては、経済協力開発機構(OECD)加盟国全体で9%の職業がAIなどに代替される可能性が高いと、ドイツの研究者らは試算している。
ひとつの職業を構成する仕事には自動化が難しいものがあることを考慮したという。米国や日本では雇用の半数近くが機械化されるとした別の試算に比べればこの数字は低い。だが9%でも、雇用への影響は大きい。
AIやロボットは、それらを活用した事業に携わる人たちの雇用を創出することにも着目する必要がある。三菱総合研究所によれば、日本では2030年までに740万人の雇用が失われる一方、500万人の雇用が生まれる。(日経社説2018年1月9日付)
740万-500万=240万人は失業なのかなーとぼんやり思いつつ、新しい「500万人の雇用」っつって言っても、それはむっちゃ知的な訓練を受けた階層か、びっくりするくらいコミュニケーション能力が高いハイパーな人材じゃねーの、などと白けてみる。
むっちゃ知的な訓練。例えば大学院出るのは当たり前みたいなそういうやつ。
ハイパーコミュニケーション能力。コミュニケーションのお化けみたいな人。職場に1人いるかいないかみたいなすごいやつ。
産業用の建築事務所で働くことになった大学時代の同級生に正月会って、話を聞く機会があった。そいつは、職を転々としてきて、ようやくそこに落ち着きそうなんだが、建築士の資格取得をめざしながら、実際には設計の仕事をもうかなり事務所でやっている。いま通信制の大学に通いながら仕事をしている。仕事の様子を聞くと、事務所では各人が1日中ブースにこもって設計をやっていて、1日誰とも会話せずに終わる……みたいな感じだそうである。ずっと自分の仕事に没頭しているというわけだ。
今どき、どんな職種でもコミュニケーションが必要とされる場面が入っているので、ひたすら自分の専門の仕事に没入して、それで給料がもらえる、っていうのは、ある種の人から見たらなんというか理想的な職場じゃなかろうか。
例えば、ある種の能力は高いのにコミュニケーションにさまざまな制約があるような人は、そういう職場が向いているような気がした。
思えば、例えば昭和の初めとか半ばごろの「経理」のような仕事って、どんな感じだったのだろうか。
別に取材も何もせずに勝手な空想で書くけども、パソコンはおろか計算機もない時代は、1日中ずっとソロバンをはじいて計算をしていたのではないか。ソロバンさえできれば、別にコミュニケーションとかどうでもよくて、しかし重宝されたんじゃなかろうか。知らないけど。
それと、インフルで寝込んでいた時、古今亭志ん朝の「二番煎じ」を聞いていたんだけど、マクラで、防火の役目として「番太」という仕事が紹介されていた。これは志ん朝の説明によれば、若いころヤクザとか前科者とか放蕩三昧とか無茶をした人が年老いて食い扶持もなく、そういう人の仕事として、夜間の町内の見回り(防火・防犯のため)として町内に雇われて、駄賃をもらっていた。*1
それを聞いた時、昔はこういう軽作業でちょっとした手間賃でやれる仕事というものが無数にあったんだろうな、と病床でぼんやり思った。
以前、職業訓練校で講師活動をしている人と酒を飲んだことがあって、そのとき発達障害の人が訓練校にも増えてきたという話になった。
発達障害にもいろいろあることは承知しているが、その話の場では、「コミュニケーションがうまくとれずに職業になかなかつけない人」というようなニュアンスでまとめられて話が進んでいった。
その講師の人の仮説は「昔は社会に出る前に学校や家庭でかなり適応の仕方をしつけられたのではないか」というものだった。「しつけられる」という言い方はあまり穏当ではないが、自分がどういう存在かを知り、職場での対処法などを本人が自覚したのではないかという仮説である。
そのときはふんふんと思って聞いていたのだが、今思うに、どうもその仮説は違うのではないか。コミュニケーションを要求する仕事が格段に増え、昔ならあまり対人関係をなさなくて没頭していればいい仕事がたくさんあったのではないか、と思うようになった。
それもインフルで寝込んで落語の「芝浜」を聞いていた時に思ったことだが、「芝浜」の主人公は魚の棒手振りであって、まあ魚をちょっと仕入れて決まった得意先を打って歩く、へたなべんちゃらをいうのではなく目利きとさばく技術さえあればいい、というような印象を受けた。つまりほとんど資本なしに商売がはじめられ、日銭くらいは稼げる、というわけである。もしうまく行けば、「芝浜」の主人公よろしく店を構えることもできるが、そうならなくても棒手振りのままでもなんとか食べてはいける、ということである。
軽作業で小さな手間賃が稼げる仕事、職人技術が必要だけどコミュニケーションは不要である仕事などが昔はいっぱいあったよね、と思った。 むろん、別にそれはユートピアだったわけではない。社会保障なんてないから、体を壊せば一発で奈落である。老いがきても同じである。人生が50年で終わるなら、それでもまあなんとかなったわけである。
それで、昔の仕事について興味を持った。(1)「職人技術が必要だけどコミュニケーションは不要」の方は、いろいろ想像できるんだけど、(2)「軽作業で小さな手間賃が稼げる仕事」の方は、ひょっとして想像もつかないようなものもあるのかしら、と思った。
「押し屋」「街角メッセンジャー」
それで本を探したのだが、見つかったのは本書、澤宮優・平野恵理子『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(原書房)であった。115種が紹介されている。
「はじめに」の澤宮の書いていることを読むと、ややノスタルジックな意図から作られた本のようであるが、こちとら上記のようなヘンな、しかしクリアな意図で読ませてもらった。そしていくつか発見、再発見もあった。
例えば(2)「軽作業で小さな手間賃が稼げる仕事」で本書で紹介されているものをいくつかあげると、「押し屋(立ちん坊)」などはそうである。
この仕事は、「坂の下に立ち、車力屋が上り坂で大八車を押すのを後ろから支えて手伝い、金銭を得る」(p.26)ものである。「ほとんどが家もなく、木賃宿で物乞い同然の暮らしをしており、大八車を押すことで一日の稼ぎを得た」(同前)というから、本当に少ない手間賃だったのだ。声をかけてお願いされれば契約、となるらしかった。
「街角メッセンジャー」というのもある。「公衆電話が普及していない時代に、手紙やメッセージを届けていた。駅前で小荷物を預かり運搬するなど、便利屋のような仕事も請け負った」(p.46)。
こんなの都会の駅とかだけだろ、と思ったのだが、駅はもちろん「この種の仕事は地方や山村でとくに多く見られるようになった」(同前)というから驚きだ。昭和20年代前半で日収40円。本書によればそのころの小学校教員の初任給が月4000円くらいだから1%くらいである。いま小学校の先生の初任給が月20万円くらいだからその1%っていうと2000円かな。
本書では同じページで現代のバイク便についてちょっとだけ触れてるんだけど、バイク便は日給が7000〜1万円くらいなのでその5分の1くらいしかない。
「落ち買い」という女性の行商もあった。
「おちゃない、おちゃない(落ちてませんか)」と呼びかけて、抜け落ちた髪の毛を買っていた。これらの髪を集めて、問屋に売って、鬘(かつら)にした。京都でよく見られた。(p.125)
読んで見て思ったのは、そういう軽作業であっても、けっこう組織化・組合化されているということだった。それでうまく労働分配されていると同時に、上前をはねられたりするのである。重くない障害のある人も小さな仕事があったんだね、というのは美談とかユートピアではなく、そうとう過酷な搾取・収奪の仕組みの中に組み入れられていたということでもある。ただ、労働を通じた社会参加、という点だけみれば、それは実現していたことにはなるかもしれない。
本書の面白さは、平野のイラストにあると言えるかもしれないのだが、ぼくは澤宮の解説が気に入った。まずデータ。いくらぐらい儲かるものかが全ての職種について付記されている。冒頭に時代ごとの物価表がついているので、それと比較すると今でいうとどれくらいなのかが想像できる。そして解説自体も、「押し屋」であればどこからどこまで押すのか、とか、どうやって契約が成り立つのか、とか、どの辺りにいるのか、いつごろ隆盛となり、いつごろ廃れたのか、など当然に疑問に思うことがわかりやすく書かれているのである。
読み物としても楽しい。
「天皇陛下の写真売り」という項目では、「御真影」が民間業者の手に渡り、その売買を政府も黙認しており、家庭に天皇の写真があることは結構なステイタスだったことや昭和天皇は摂政時代「美形」として女学生の憧れの的だった話が綴られている。
けっきょく、昭和の頃にあったような「軽作業の小さなやすい仕事」とか「職人技術が必要だけどコミュニケーションは不要の仕事」のようなものは、消える一方だと感じた。
そうなると、多くの人は今後ますます職を得るのは難しくなる。
職業訓練して自己再教育するという手があるけども、それでなんとかなるのは一部の人だけだろう。
「人手不足」の社会になっても、その不足した人手になりうるのはごく一部の人だけなのだ。
そうなると、多くの人は職にはつけない。
井上智洋は『人工知能と経済の未来』の中でAIが支配的な経済を「純粋機械化経済」と呼んで次のように指摘する。
純粋機械化経済に至って全ての労働者は労働から解放され、もはや搾取されることもなくなるが、それと同時に飢えて死ぬしかなくなります。なんの社会保障制度もなければそうならざるを得ません。そういう意味では、労働者は搾取されている内が華だと言えます。
マルクスも彼が生きた19世紀の経済についてですが、「資本がもはや労働者に目を向けようとしなくなると、その気まぐれが必然的なものであれ偶然的なものであれ、労働者は労働を、したがって賃金を失う。しかもかれは人間として生存するのではなく、労働者として生存しているのだから、できるとことといえば、埋葬してもらうか餓死することしかない」*2と述べています。(井上智洋『人工知能と経済の未来』文春新書、kindle位置No.1922)
そして、井上は、だからもうベーシックインカムしかないんじゃねーの? と結論づけているのであるが…。