『サラリーマン漫画の戦後史』と『三等重役』

 会社の慰安旅行に行ってきた。
 温泉街に100人規模とかで出かけたりして、そんでもって、大宴会場でみんな浴衣を着て、舞台で中高年の上司とかが演歌とか歌っちゃったりするので、ものすごく「戦後」なわけである。別に若い女性にじゃなかったけど、年配の女性の肩を年配の男性が揉みながら喋るという「コミュニケーション」まで見た。くらくらするよ。

 こういう福利厚生は死滅したのかと思っていたら、某大手企業に勤めている人と飲んだとき「うちにも部署ごとですけどありますよ」と言っていた。総勢2〜30人ほどだそうである。その人が言うには、「まあ、そういう場は上司が好きなことを言って、部下はそれに何でも反抗していいっていう無礼講の場なんですけど、部下=若手の方があんまりそういう場だと思っていなくて、上司=年配者のほうはシラケちゃうし、若手の方もフラストレーションがたまるんですよね」。
 福利厚生としてこうした旅行をありがたがる人はもういないだろうけど、もっと洗練されたコミュニケーションの場に変えるなら、再生される余地はあるだろうなあと思った。

 そんな「昭和」な世界が、今回紹介する源氏鶏太『三等重役』には満載である。というか昭和に書かれた小説なんだから当たり前だ。

『三等重役』という家族主義

 『三等重役』が書かれたのは1951年。日本が「独立」する前の占領時代とその直後を舞台にした作品である。
 主人公の社長は、前の社長がGHQの指令で追放されたことによって急きょ繰り上がった社長である。戦争推進の構造として地方経済の親玉も根こそぎ追放された時代の空気は、民主主義の空気でもあった。
 支配者的な前社長が追放されて、サラリーマンの中から新たな社長が生まれている。家族主義的な社風ではあるが、この会社は縁故採用を一人もしていないという「美風」をもっている。
 だが、その内実は必ずしも新しいものではない。
 前社長をけむたがるものの、新社長が何かにつけて思い出すのは前社長の威風である。それを真似て自分も社長として威厳をうちたてようとする。
 そして何と言っても目を見張るのは会社全体にあふれる家族主義である。いや、昔の会社というのはこれが当たり前だったのだろう。ぼくは源氏鶏太の小説を兄の書棚から中学時代に盗み読みしたことがあるが、あまりの退屈さに何度も挫折した。しかし今読んで面白いのは、それが「昭和的企業の博物館」になっているからだ。昭和的企業の人間関係の現実、とまではいかないまでも、どういうファンタジーを描こうとしていたのかはこれでよくわかる。

 一番容喙的だと思ったのは、結婚である。
 とにかく家畜の交配のように、組織的手だてで結婚をさせたがる。そこに積極的に会社の人事も介入するのだ。

「実はゆんべ家内とも相談したんやが、今後社内結婚には、わしが仲人になろうと思うとるのやがどうかね。」
「そりァきっと、みんな感激するでしょう。」
「やっぱり感激するかな。家内もそういうとったよ。」
「早速、御趣旨を社内に回覧しましょう。」
「おお、そんなら早い方がええな。ところで近く社内結婚するのがいないか。こんなに若い連中がたくさんいるんだから、もうそろそろあってもええじぶんや。」
「それも早い方がええな。どうだ、浦島君、昔の社長と違うて、わしはなかなか話せるやろが。」
「民主的ですよ、社長は。」
「そうや、その通りや。わッはッは。」

自今、結婚の場合、特に社内婚の場合には、御面倒でも、ぜひぜひ社長御夫妻に仲人をたのまれたし
月日
人事課長
未婚男女職員各位

と書いてあった。
「うん、これで上等や。早速、タイプに打たせよう。……こうなると何とか早いとこ誰かに結婚して貰わねばならんが、心当りが無いかね。」

 そればかりではない。
 重役たちが「女中」に「手を出し」、会社が秘書を派遣してその「後始末」をやってやるのである。他にも前社長の愛人の稼業を手伝ったりする。近代経営もくそもない。まさに「家族」である。勧善懲悪の世界観も生きており、女性社員をくいものにする男性社員は地方に飛ばされる。しかし、首にせずに地方に飛ばす論理がいかにも昭和である。

「そこを社長の寛大な精神によって、特別なお取計らいを願います。それに、戸田君ばかりが悪いのではなく、女だって悪いんです。戸田君を馘にするとなると、女の方も馘にしなければなりません。それでは、将来女の縁談にも差し支えますし……」

 (男性優位の)家族的温情主義がここにはあふれている。

 もともとこれを読み始めたのは、真実一郎『サラリーマン漫画の戦後史』を検証するためだった。「検証」なんてエラそうに言うものの、その内実は源氏鶏太を1冊読むだけというトホホなものなのだが。


『サラリーマン漫画の戦後史』の主軸——源氏=島耕作

 真実一郎は、戦後日本のサラリーマン漫画の王道を弘兼憲史課長島耕作』に見る。真実は次のように歴史を総括する。

親のような上司がいる家族的な会社を舞台に、営業や総務、宣伝などジェネラリストが多い部門に配属された男性社員が、誠実な人柄で得た人脈を武器に、敵と対峙しながら成長する。源氏鶏太が高度経済成長期に確立させた、この「最大公約数」的なサラリーマン・ファンタジーは、高度成長の終わりとともにいったん姿を消したものの、80年代になると弘兼憲史の『課長島耕作』としてマンガの世界で蘇り、バブル景気の盛り上がりとともに、いくつものフォロワーやバリエーションを生んだ。

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)
 源氏鶏太=『島耕作、この中軸をめぐる盛衰の歴史として真実一郎のサラリーマン漫画史観は展開されているのだ。
 その下敷きにあるのは関川夏央弘兼憲史であろう。
 関川は、『島耕作』ではあまりビジネスの内実を描くようなシーンが少なく、労働を忌むべきものと根底ではみなしていると考え、社内政治とセックスに明け暮れる同作品を、弘兼のインタビューを引きながら“源氏鶏太の世界の延長”ととらえた。

 ぼく自身、この関川の論立てを自分の立論のベースに使ったことが何度かある。とくに『課長島耕作』と新井英樹『宮本から君へ』を対立させて、前者を労働忌避的=西洋的労働観、後者を労働自己実現的=東洋的労働観という構図に落とし込んだ関川の着眼はたしかに秀逸だった。

島耕作』は本当に「労働忌避的」か?

 だけど、今そのことをもう一度振り返ってみると、さえない文具メーカーで汗水たらして大した成果も得られない宮本の姿はそこに辛い仕事の中でかちとられる自己実現をにじませているように見えて、その実「うわー、こんなつらいことしたくねえわー」という読者を大量につくりだしたという点において、本当のところは「労働とは辛くて苦しいもの、避けるべきもの」という労働観に貫かれているのは『宮本から君へ』の方ではないのか。

課長島耕作 (1)  新装版
 『課長島耕作』はたしかに何だか仕事をしていないように見えるし、「SF」だと酷評されたその労働描写の問題はあるにせよ、労働を忌避しているのではなくて、「気楽な稼業」としてのサラリーマンの仕事、強引にまとめ直すならば「やりがいのある楽しい仕事」という労働観があるのではないか。

 事実、『島耕作』シリーズは出世するにしたがってビジネスの中身自体が次第に詳細に描かれていくようになる。その「転換」について、『サラリーマン漫画の戦後史』は次のようなエクスキューズをおいている。

不況を契機に、終身雇用や年功序列といったサラリーマンを支える「神話」が大きく揺らいだこの時期からは、さすがに島耕作も社内政治とセックスばかりというわけにはいかなくなり、『部長島耕作』ではビジネスやリストラといったテーマが物語の中心に据えられるようになる。

この頃から、この作品は各業界の裏側を紹介することに主眼を置く業界マンガ、情報マンガのような体裁をとるようになっていく。最大公約数の共感を提供する方向から、知らない業界のビジネスをのぞき見する楽しさを提供する方向へと軌道修正したことで、飽きさせずにビジネスを描くことに成功した代わりに、課長シリーズのような身近さ、快活さは薄れていった。

 だが、こうした方向は「軌道修正」というより、もともと『課長島耕作』の中にあったビジネスを通じての自己実現という要素が前景化してきたのではないかと思える。弘兼が本当に労働を忌避すべきものとしかとらえていないのなら、いくら食い扶持のためとはいえ、こういう展開になることはまずないであろうから。
部長 島耕作(1) (講談社漫画文庫) ビジネスの新しいトレンドとか工夫とか「厳しさ」(笑)とかをあれこれ考え、それをやや説教チックに書きたがる(その政治バージョンが『加持隆介の議』だが)という弘兼の地金というものが『部長』以後開花したとみるべきであろう。

 もしそうだとすれば、源氏鶏太の系譜、すなわち「源氏の血」としての『島耕作』という真実一郎の仮説は崩れざるをえないのではないか。

 もちろん、仮にそうであったとしても『サラリーマン漫画の戦後史』がつまらない本だというわけではなく、この明快な史観の周辺に、豊富な情報を寄せてさくさくと読み進めていける文章編成に仕上げている力量はなかなかのもので、「面白い」本であることは間違いない。

 ではサラリーマン漫画というのものは、真実一郎の提唱した歴史観に替えてどのような歴史をもっているのか、という問題については、考察不足でぼくがここで述べる力はない。


源氏鶏太の血」はどこに受け継がれているか?

 ただし、「源氏鶏太の血」というものがもしあるとするなら、それは何であるかは当て推量で書けるかもしれない。
 『三等重役』しか読んでいないぼくが何か言うのももうまったくもってアレであるが、それはひとことで言えば「家族主義」としての企業体ではないか。
 大企業というより、企業数において99.7%、雇用者数において7割を占める中小企業は「家族主義」と深い関係にある。どれだけ「日本的経営」が崩壊したとか変容したとかいわれようとも、家族主義はバージョンを変えて日本の中小企業経営のなかに潜んでいる。

 その家族主義の戦後期の一つの理想像として「源氏鶏太」の世界がある。

 家族を共同体とみなすのであれば、結婚や恋愛にさえ上から目線で介入する古典的な家族主義はすでに忌み嫌われる位置にある。
 かわりにまったく仕事も私生活も、そして恋愛さえも「自然」な形で口をはさめる理想的な職場というのは、「サークル」的な職場ではないだろうか。

 はてな」や「Google」といった職場を持ち上げる記事に共通するのはこの「サークル」的な感覚である(これらの職場が現実にそのようなものかどうかは別にして、それを「理想」とする空気のこと)。

 サークル感覚であるということは、仕事への感覚を「自然」なものにさせ、それが公私の区別のない自己実現ワーカホリックのような仕事中毒を正当化させることにもなる。まあ現実はそういうことだけじゃなくて、実際に人手が少ないのに莫大な業務量がある、っていう根本問題があるわけだけどさ。

午前3時の無法地帯  (1) (Feelコミックス)
 そういう「サークル」的職場といえば、それこそ真実一郎が指摘する「サークル化する職場……ねむようこ『午前3時の無法地帯』」ではないか

 パチンコに何の興味もないのに、DTPの作業をする場所というだけでとびこんだ女性主人公が辞めよう辞めようと思いながら、職場や周辺のオフィスに出入りする人たちに恋をしてしまう物語である。

 真実一郎は次のように書く。

……この作品が従来のサラリーマン漫画と比べて異なると感じるのは、会社がまるで仲良しサークルであるかのように描かれている点だ。
 経営者はもちろんのこと、上司らしい上司も全く登場しない。残業時間や風紀を管理する人はいない。職場の人間たちは皆極めて年齢が近く(おそらく全員20代)、係長や課長といった肩書きも使用されない。せいぜいサークルの先輩後輩程度の枠の中で、皆が横並びで働いていて、そこにいる誰もがスキあらば辞めようと思っているほど組織としての着脱自由度も高い。……年齢が近く、上下関係も緩やかな友達感覚の仲間たちが、マットレスやシャンプーの置いてあるサークルの部室のような空間で、昼夜を問わず時間を共有するのだ。

 タイトルが示すとおり、そのサークル的な狂躁のなかで午前3時まで労働はエンドレスのように続いていく。

 真実一郎は、ねむようこ『午前3時の無法地帯』のような「サラリーマン漫画」(?)を「源氏の血」の解体とみなす。
 だが、家族主義というエッセンスは、会社は共同体であり、そこに居場所を見出してしまうということではないだろうか。そうだとすれば、「源氏の血」はまさに「ねむようこ」にこそ受け継がれている、というべきだ。

 ところでこの文章を書いている最中、小林桂樹が死んだのは巡り合わせ、ではなくただの偶然だろう。