尾田栄一郎『ONE PIECE』

 『ONE PIECE』は言うまでもなく最も売れているマンガである。まわりに「何のマンガが好き?」と聞いてもたいていのやつは『ONE PIECE』と答える。
 そもそもぼくは『ONE PIECE』と相性がよくない。人気マンガというので数年前に読み始めたのだが、途中で挫折した。はっきり言って全然面白くないからである。「それでもまあ人気マンガだから」と今回再度がんばったのだが、27巻でくじけた。

少年マンガの感性についていけなくなっただけか

ONE PIECE 22 (ジャンプ・コミックス)
 少年マンガだからお前の感性がついてけなくなったのだろう、とお前ら言うつもりだろう。まあ半分くらいはそうなんだろうよ。でもなあ、『NARUTO』や『銀魂』はそれなりに楽しく読めるんだよ。『バクマン。』や『いぬまるだしっ』はかなり愉快に読める。なのに、『ONE PIECE』は……ちっとも面白くならないのである。ぼくにとって。
 「50巻くらいまで読まんと真価はわからんよ」という言い分もあろう。まあそうかもしれん。しかし、50巻まで読まないと真価がわからんってどんな少年マンガだよ。少なくともどんな人気マンガだよ、と思うね。

 さて、その『ONE PIECE』の「面白くなさ」について書きたい。
 とはいえ、それは山ほどある。
 いま強く思っている一点についてだけ書きたい。

「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」というテーゼ

 幼児期から小学生、そうだなあ中学生くらいまで、自分が何かの勝負に敗北に追いこまれそうになるシチュエーションがあって(たいていはスポーツ)、そのとき、ぼくを長く支配したのは「その状況を脱するには(勝つ、もしくは逆境を跳ね返すという)強い信念を抱き続ける」ということだった。

 これは『スラムダンク』の安西先生の有名な言葉「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」に通ずるテーゼでもある。

 しかし、この命題が成立するためには、実はいくつもの前提や条件が必要なはずであった。あたり前の話だが、スポーツにおいては一定の技量がどうしても前提になる。そういう技量をつね日ごろ持っていたものだけが「あきらめたらそこで試合終了」かどうかという選択肢を持つことができるのである。
 いまは選挙の時期だからw、選挙の例でいうと、「議席を獲得できる票を得られるかどうか」は選挙に動員できる資源を何らかの形で持っている陣営にのみ問われることだ。動員できるカネもヒトもないような陣営には初めから「あきらめたらそこで選挙終了ですよ」という問いは存在しない。

 試合や選挙が始まる前、もっと長いスパンをとって、実力を養い、経験を蓄えていくということをやったらどうか。もちろん、それならアリだ。だが、その努力がある種の科学性に裏づけられていなければ、努力の大半はムダになる。たしかに「あきらめずに」意思が持続する者は、膨大な試行錯誤の中からついに実力を高める方策を選びとることができるかもしれない。
 しかし、では、そのような意思の持続が一体何によってもたらされるのか、少なくとも小さい子どもにはまったくわからない。あきらめない気持ち、強い信念などというものはどんなふうに獲得できるというのだろうか。偶然しかないではないか。

「強い信念」は「叫び」という表現を求める

 「強い信念」ということを、足りなかった小さな頃のアタマでぼくは考えてみた(もちろん今でも足りないというツッコミは甘受しよう)。
 強く念じるとは、フンと腹に力をいれて念じることであった。
 歯を食いしばる、ということであった。
 あきらめない、とは体のどこかの筋肉をこわばらせて、力をこめることであった
ソフトボールだのサッカーだのをしていたぼくにとって、試合に負けそうになる、逆境に立たされたときに「あきらめずに、ふんばり、強い信念をもって反転攻勢に出る」ということは畢竟そのようなことであった。
 もちろんそれはスポーツにおいて、不必要な体の硬直をもたらし、客観的には試合に逆効果をもたらすはずのものであったのだろうが。

 体の硬直だけでは足りない。
 揺るがぬ意思、強固な信念は、わかりやすい外形を欲する。
 それには大声を出すのが一番だ

 「ファイトー!」などと言ってみる。部活動で応援してくれる仲間たちも一様にそのように大声を出してくれたから、それが「あきらめない、強い気持ち」を保つ上で巷間でよく用いられてきた方法には違いなかったのだろう。

 だけど、ダメなものはだめだ。
 中学で軟式庭球をしていたぼくは、中学最後の試合、1回戦でテもなく捻られた。前衛であるぼくが「穴」であることを見透かされて集中的に抜かれて、実にあっさり終わった。何のプレイもさせてもらえなかった味方の後衛が哀れ極まった。
 そんなとき、どんなに「強い信念」をもとうが、いわんや「大声」を出そうが勝てなかった。

 そしていま、『ONE PIECE』である。

ルフィにおける「信念」と「叫び」

 『ONE PIECE』は「ワンピース」というひとつながりになった伝説の巨大な財宝を求める海賊の物語であるが、主人公たちの海賊グループはまったく本物の海賊らしくはなく、略奪行為はほとんど行なわない。
 訪れる島々でより強く、凶悪な海賊や「敵」と武闘をおこなうのである。

 主人公のルフィは、しばしば強大な敵に出会い、苦境に陥る。いつも死の渕寸前まで追いやられるのであるが、そのときルフィはしぶとい。目を見開いて決してあきらめようとしない。そして、必ず大声を出す。
 ルフィの(というか作者尾田栄一郎の)グラフィックに特徴的なのは、見開かれた目と食いしばるための大きな口、そして踏ん張るための安定した足(foot)である。
 それはまさに、幼少期から中学時代まで、ぼくが考えていたような「強い信念」を維持し、「大声をあげて踏ん張る」ために格好の備えを持っているかのように思える。

 今手元に『ONE PIECE』22巻がある。
 最も強い7人の海賊「七武海」の一人、クロコダイルにのされてしまったルフィはそれでも再起し、クロコダイルに戦いを挑む。

「お前が…? おれに勝つ気なのか…!!?」
「ああ」
「確かによく見抜いたもんだ 死に際のあの状況でな…」
「……」
「……だがそんな事じゃあ埋め尽くせねェ格の差がおれとお前にはある!!
 それが“七武海”のレベルだ…!!!」
「……お前が七武海だから何だ…!! だったらおれは
 “八武海”だ!!!」

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 「“八武海”だ!!!」と叫ぶルフィのグラフィックを見てほしい(右図。尾田栄一郎ONE PIECE』22、集英社、p.93)。まさに目を見開き、口を大きく開け、自らの恃むところを強く叫んでいる。
 「“八武海”だ!!!」という叫び、そして、クロコダイルに再び敗れる201話までの間にルフィがそう叫ぶ根拠らしいものはあまりない。目の前の敵に決して負けない、という決意だけがそこにある。そしてその決意は「“八武海”だ!!!」という大声によって形にされているだけだ。

 ここにあるものは、まさにぼくが幼少期から中学まで苦しめられてきた空虚な精神論だ。それしかない。勝負において、これほど無内容なものがあるだろうか。いや何の役にも立たぬばかりか、それを信じることによって現実に裏切られるという有害な形を果たす、「信念」と「叫び」、あるいは「あきらめない気持ち」を少年たちに吹聴する危険な思想がここにあるではないか。

「叫び」の必然を描く──河合克敏モンキーターン

モンキーターン 12 (少年サンデーコミックススペシャル)
 突如、ぼくは河合克敏モンキーターン』を引き合いに出す。
 波多野憲二という競艇選手が選手として生まれ、ライバルたちに勝ち上がっていくまでを描く河合の代表作の一つだが、主人公の波多野が福岡競艇で転覆し、左手を切断寸前までの大けがを負い、再起不能かと思われるエピソードがある。
 しかし、波多野は懸命のリハビリによって奇跡的、いやある意味で科学的に手の動きを回復させ、再び福岡競艇でリベンジに挑む。波多野はスタートしながら心中で自分に言い聞かせる。

舟券を買ってるお客さんには悪いが…
今回のこのレースだけは、オレは着順を取ることが目的じゃない!
オレの敵は他の艇じゃない!
福岡競艇場1マーク!
今はコイツがオレの敵なんだっ!

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 1マークは、波多野が事故に遭ったポイントである。
 リハビリを重ねる努力もしてきた。復調のために様々な準備も整えてきた。技量的には万を持しての再出発であるが、波多野は強い緊張をもってこのレースに臨んでいるのだ。自分の選手生命を断つ寸前のところまで追いやり、恐怖と絶望のどん底に陥れた同じシチュエーションにまさに波多野は挑もうする。
 すべてを万全に準備したはずなのに、波多野の脳裏には、事故のときざっくりと開いてしまった左手の無惨な映像がよみがえり、一瞬波多野は恐怖に縮み上がる。歯が鳴る。そしてすぐ次の瞬間、波多野はその恐怖を押さえ込み、それと戦うために雄叫びをあげるのだ(右図、河合『モンキーターン』、小学館、2008年版、12巻、p.32)。

ちくしょおおおっ!
こわくねえぞっ!
おまえなんかっ!

 ここには、すべての人事を尽くした後になおもわき上がってくる恐怖が、実に的確に描かれている。そして、それに一瞬すべてをからめとられ、心を折りそうになる波多野が短いコマの中にはっきりととらえられている。
 その恐怖と格闘し、圧伏させんとする波多野において、「叫び」は絶対的に必要なものだ。強い意思を持ち、おらぶことがこれほど必然のなかで描かれたものはなかなかあるまい。
 ルフィが叫ぶ、その空虚さは、この波多野の叫びと比べてみるとあまりに鮮明だ。

 わかっている。
 ぼくはとってもいま野暮なことを書いていると。

 「人間はウルトラマンのように変身できないのに、突然力を得られるような幻想をあおりたててきたのが『ウルトラマン』シリーズだ」という批判がどれほどみっともないことかは重々承知だ。
 だけど、このルフィ的な信念と叫びに「騙された」少年時代を送ってきたぼくは、どうしてもこのルフィの勝負に臨む態度の「つまらなさ」「有害さ」に一言言っておきたいのである。

 一体みんなは、このマンガのどこを面白いと思っているのか。逆にそれを聞いてみたい。