※この23日付および24日付の記事については一部疑問が解消し、修正をした。併せて読んでほしい。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171125/1511658305
生産手段の社会化とは何か、を考える前に、生産手段の社会化が労働時間の抜本的な短縮をもたらすという話について少し考える。
ここはそんなに難しくないと思っていた。
生産手段が社会化されているなら生産力上昇を時短にむけりゃいいだけでは?
機械化などによって生産性が上がると、資本主義のもとではもうけを上げるためにリストラにつながってしまう。
しかし、生産手段が社会化された社会では、その資源を時短に振り向けるよう、社会が強制する。
不破哲三がよく紹介するソニーの盛田昭夫が言うように一企業では個別企業で解決しようとしても、経営危機に追い込まれてしまう、だから日本の経済・社会のシステム全体を規制すればいいのである。
具体的にはこうだ。
競争のある市場経済を前提としたら、法律で労働時間を定めて、それをチェックする体制をつくれば、まあそんなに難しくない。
規制法と監視の人員配置は、生産手段を社会がコントロールする一つの形態であるとぼくは考える。
フランスの週35時間労働の話は前にも書いた。
それ以外にも、例えばオランダが「パート」大国でありながら「パートタイム」は非正規労働というより短時間正社員を意味すると言われるように、週4日とか週3日だけ働くような形を組み合わせることもありえる。
働き方先進国オランダ 子育てと仕事の理想バランス | 日経DUAL日経
http://dual.nikkei.co.jp/article/098/25/
オランダでは、「週3勤務」「週4勤務」という形が、それほど珍しくありません。筆者もオランダに移住した当時、驚いたのは、平日の昼から公園で子どもと遊んでいるパパが多いことです。夏の晴れた日などは、日本の休日の公園より、パパと遊んでいる子どもたちが多いのです。
これは後で分かったことですが、特に子育て中の共働き夫婦は「週4勤務」「週3勤務」というパートタイマーとなり、平日に休みを取り、子どもと過ごす時間をつくる人が多いからなのです。
ですから、例えば、パパのお休みが水曜日となると、その日は「パパの日」として、日中子どもと過ごすのはパパの役割になります。共働きの場合、平日の休みを夫婦でズラして、子どもと過ごす時間をつくる家庭が一般的なのです。
http://dual.nikkei.co.jp/article/098/25/
住宅費と教育費が社会保障に移転されれば(公共住宅や住宅手当、教育費の完全無償化など)、パートタイムで十分「健康で文化的な最低限度の生活」ができるからである。
ね? それほど難しくないでしょ。
今ある社会の現実の萌芽の中に、未来社会を予想するようなものがすでに育ち始めているのである。
生産手段が社会化されているなら生産力上昇を時短にむけりゃいいだけではないのだろうか。
「すべての構成員が生産活動の一部をになう」?
ところが、不破哲三が示す「生産手段の社会化による労働時間の抜本的短縮」の道筋はなんだかずいぶん複雑のような気がする。
搾取がなくなり、労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになうようになれば、それだけでも、労働時間の抜本的な短縮が可能になります。(不破『新・日本共産党綱領を読む』新日本出版社、2004年、p.374、強調は引用者=以下同じ)
「搾取がなくなり」ということについては、いずれ別の機会に議論するが、ここではとりあえず、「労働者・国民が生きていくのに必要な生産物」以外の余剰分が労働者・国民の自由に使えるようになる、という程度に考えておいてほしい。
問題は次の箇所である。
「労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになうようになれば」……? 「すべての構成員」……?
(働ける人は)みんな生産活動に従事するようになる、ということか?
不破はこの箇所の前にこう書いている。
社会の多数者が、その生活時間の大部分を生産労働に当てざるをえない状態におかれ、精神的・知的・文化的な分野での活動に参加できるのは、恵まれた条件のある少数の人びとだけ、ということです。(同前)
ここで「生産労働」が「精神的・知的・文化的な分野での活動」に対置されているのがわかるだろう。
「生産労働」「生産活動」とは何か。
不破はこの問題をごく最近でも、マルクスを引用しながら、次のように語っている。
マルクスはまず、未来社会に生きる人間の生活時間を、二つの部分にわけます。
一つは、自分とその家族の生活を含め、社会を維持・発展させるために必要な物質的生産に従事する時間です。この社会では、一部の階級ではなく、社会の全員が生産労働を分担するわけですから、それだけでも、現在の資本主義社会での労働時間よりも、はるかに短い時間になるでしょう。……マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間部分を「必然性の国」、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を「自由の国」と名付けました。
……この(「必然性の国」の――引用者注)活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります。マルクスは、「必然性の国」という言葉で、この時間部分が、「すべての労働能力のある成員」にとって義務的な性格をもつことを示したのでした。(不破『『資本論』刊行150年に寄せて』日本共産党中央委員会出版局、2017年、p.51-53)
また、別の著作でもこう書いている。
…階級社会では、必要な生産労働が、社会の大多数をなす被支配階級(奴隷、農奴、労働者)に押しつけられ、この人びとにとっては、生活の全体が「必然性の国」、つまり労働以外は食べて、寝るだけということになり、「自由の国」が支配階級に横取りされてきました。つまり、支配階級は、被支配階級の剰余労働に支えられて「自由の国」を独占し、多数者を犠牲にして社会の知的活動その他を独占することができたのです。
いま、「会社人間」という言葉がよく言われますが、これは、労働者が生活時間のすべてを企業のために吸収されている状態、まさに、資本によって「自由の国」が横取りされている姿を、多少上品な言葉で表したものにほかなりません。
この関係が根本から変わるのが、社会主義・共産主義の社会です。ここでは社会の大多数の者はもっぱら生産労働、少数の者が知的活動といった分業は無くなります。社会的生産力が発展した現在の条件のもとでは、社会全体が生産活動を担当すれば、一人一人の労働時間は短くなり、社会のすべての人間が、「必然性の国」の義務を果たしながら、自分の自由な生活時間・「自由の国」を十分持てるようになります。(不破『党綱領の力点』日本共産党中央委員会出版局、2014年、p.145-146)
生産力の現状を前提にしているように読めるんだけど、なんで生産力の発展を織り込まないの?
まとめると、生産手段が社会化された社会では、社会の構成員のすべてが、何らかの「生産活動」、つまり社会を維持・発展させるための物質的生産のための活動の一部を分担し、それに従事し、それを一因として*1、労働時間の抜本的短縮が起きて、残りの自由時間を「精神的・知的・文化的な分野での活動」に当てられる、ということになる。
大学の研究者は午前中の1時間、工場で働くの?
たとえば大学での研究のような活動は、どうなるのか。
大学の研究者の活動は、「社会を維持・発展させるための物質的生産」ではなく、それと対置された「精神的・知的・文化的な分野での活動」であるように思われる。
このような「精神的・知的・文化的な分野での活動」は、かつて生産活動を担っていた階級からは切り離されていたのは確かである。
では、大学の研究者は、生産手段が社会化された社会では、「生産活動」=「社会を維持・発展させるための物質的生産のための活動」の一部を分担するように「義務」づけられるのであろうか。
研究者は午前中の1時間とか2時間、工場の仕事をするのか?
それとも、大学の研究は「社会を維持・発展させるための物質的生産」の一部を担うのだろうか? 小学校の教師は? マッサージ師は? 翻訳家は? ウェブ・デザイナーは? ディスコの店員は?
これを冷笑的に旧ソ連的ディストピアになぞらえなくてもいいけども、そんな義務づけが必要であろうか。
不破のエラいところは、こういう主張(展望)を、不破が勝手に考えるのではなくて、マルクスに典拠をいちいち求めていることである。
この箇所は、『資本論』第3部とともに、第1部の次の箇所にある。
労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分から他の社会層に転嫁することができなくなればなるほど、社会の労働日のうちで物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる。(マルクス『資本論』第1部第15章、新日本新書版、第3分冊、p.906)
仮にマルクスがこう考えていたとしても、その通りになるわけでもないし、ここはずいぶんマルクスの時代に拘束されたイメージに、マルクスが頼っているという気がする。
この文章の後に、マルクスは
資本主義社会*2においては、一階級の自由な時間は、大衆のすべての生活時間を労働時間へ転嫁することによって生み出される。(同前)
と続けているように、19世紀のイギリスでは「働かずに精神的・知的・文化的な分野での活動にふける有閑階級」と「働くだけで一生を終える労働者大衆」という明確な構図があった。
社会学者ヴェブレンがアメリカでの有閑階級の出現による知的活動の独占と歪みを論じた『有閑階級の理論』を書いたのは、『資本論』第1巻を刊行してから30年ほど経ってからであった。
全体としての有閑階級は、貴族階級や僧侶階級を、その多くの従者とともにふくんでいる。その階級の職業は、それに応じていろいろ分かれる。しかし、それは非生産的であるという共通の特徴をもっている。このような上層階級の非生産的職業は、おおざっぱにいって、政治、戦争、宗教儀式およびスポーツのもとにふくませることができよう。……このような分業は、いっそう高度の野蛮文化のなかにあらわれる労働階級と有閑階級との区別に照応する。職業の分化と専門家がすすむにつれて、このようにひかれた境界線が、生産的職業を非生産的職業から区別するようになる。(ヴェブレン『有閑階級の理論』岩波文庫、小原敬士訳、p.9-12)
現代の多くの人が自分が働く一分野だけに縛られて、精神的・知的・文化的な分野での活動における人間の能力を全面的に開花させるほどに自由時間を与えられず、そのまま死んでいく、というのはその通りである。
しかし、精神的・知的・文化的な分野での活動のあり方は、すでに資本主義のもとでも単純に一階級に独占されているというほどではなくなっている。
本業とは別に余暇で才能を開花させて、陶芸の専門家になっているサラリーマンがいたりしないだろうか。時間のあるときに作った彫刻が話題になっている工場労働者はいないだろうか。本業とは別にネットでモノを書いてそれが書籍になってちょっと売れて自分がびっくりしている、メガネでひょろ長のえせインテリ気取りのブロガーはいないだろうか。
別に「副業」とか「趣味」でなくても、そもそも「精神的・知的・文化的な分野での活動」に進出することは、もはや「一階級」の独占物ではない。
そして、一番大事なことであるが、労働時間の抜本的な短縮をするために、生産「労働」を「社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分」することがぜひとも必要なのだろうか。
ぼくはそうは思わない。
生産力の急激な上昇だけで、すでにその条件は整えられるはずである(むろん生産力の上昇だけでは無理で、生産手段が社会化されて、経済の果実が時短に使われるようにふりむける政治の力が必要となるのだが)。
マルクスは、先ほどの紹介した「労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分されていればいるほど……」という一文の前に、
労働の強度と生産力が与えられているならば、(マルクス同前)
という断り書きをわざわざつけている。
逆に言えば、「生産力の上昇」という条件がもし生活向上や時短に利用できる社会になるなら、「労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分」される必要はないということなのだ。
仮に、生産労働をしていない階級が生産労働をしたからといって、抜本的時短になんかなるだろうか?
前に、小島アジコのこの記事でコメントしたことがあるが、
国民の休みが増えているなら一体だれがこの仕事をしているのだろう - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2017/10/31/000000
統計上は、1985年と比べると、就業人口(1割増えてる)×就業時間(非正規化で5%減ってる)×労働生産性(1.4倍に増えてる)=日本全体の総作業量は1985年比で1.5倍増。
つまり、作業量は1.5倍をこなしているけども、就業人口の増加が寄与している分はあんまり大きくない。そのあとの非正規化にほぼ打ち消されている。
むしろ労働生産性が上がっていることが寄与度としては大きい。
「労働生産性」自体はマルクス経済学の概念ではないが、生み出された付加価値を労働者や労働時間あたりで割ったものだから、ここには機械化や合理化が大きく反映している。
生産力の上昇こそが労働時間の抜本短縮の基礎であり、「生産活動に従事していない人が均等に配置」されたとて、どれほどのことがあるだろうか。
不破(あるいはマルクス)がそう描くのは勝手であるが、「生産手段が社会化された社会」の労働の姿をこんなに具体的に描く必要はないだろう。むしろ今ある社会の中で未来の社会に向かって現実にどんな萌芽が生まれているかを見落とすことになる。(つうか、生産活動の「義務」を課すとか、どうなんだ。そんなの個人の勝手だろ?)
「時短を法律で規定するとか、現在のヨーロッパの時短の政策などは、単に資本主義の下での暫定的な政策であって、生産手段の社会化ではない」というかもしれない。
しかし、それこそ、「生産手段の社会化」のイメージが貧しいのだ、とぼくは思う。
すでに「生産手段の社会化」は資本主義の現実の中に萌芽として生じ、育ちつつあるのだ。