ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その3)

 ローマーの『これからの社会主義』について引き続きコメントをします。途中から読んでもらってもわかると思います。
 ローマーはソ連タイプの「社会主義」を批判し、「市場社会主義」をかかげているアメリカのアナティカル・マルクス派の人です。


 さて、今回は第2章「公的所有」と第3章「長期と短期」、第4章「市場社会主義の理念の小史」についてです。


 第2章「公的所有」はどういうことが書いてあるかというと、かんたんにいえば、「これまでの社会主義者たちは生産手段の私的な所有から公的な所有にうつすことにこだわりすぎていた」という、これまでの社会主義者たちへの批判です。
 ローマーは、「投資を私的な思惑、つまり市場にだけゆだねられないのはそうなんだけども、それは市場のシステムだけでは先のことを読み取る力もないし、環境問題のような失敗をおかすから、外から介入しないといけないのであって、これまでの社会主義者たちのように『投資につかうような余分なお金は、俺たちのもんだ!』という理由で主張するんじゃないよ」と言っているのです。
 ここでローマーが問題にしたいのは「公的所有」のイメージの狭さです。「公的所有」とはだいたい「国家所有」がイメージされていて、経済が生み出したもの(余剰)をどうやって決めるかということは、これまでは「みんなで決める」「みんなで決めるには公的所有しかない」「公的所有なら、まあ国家所有だ」というパターンにおちいっていて、ローマーはその思考パターンを批判したいということなんだろうと思います。
 だから、ローマーは、いろんな所有の形態があるよ、といって、労働者管理企業とか非営利企業とか有限責任会社とかいろんなスタイルの企業の姿をあげていきます。


 これは半分正しい。
 ローマーがやろうとしているのは、「公的所有」のイメージのせまさを批判することです。ただちに国家所有がイメージされてしまうのはたしかになんとかしたい。
 だけど、ローマーはそのあといろんな企業の形の話にいってしまい、あとで自分がとなえる「みんなに株をくばって経済と社会に平等に関与する企業」というスタイル(この章では32ページに出てくる)に話を流し込む布石にしています。


 ここには「生産手段の公的所有とは何か」という問題があります。
 ぼくもそうですし、不破哲三もそういっていますが「生産手段の社会化」という言い回しのほうがいいと思うのです。
 なぜなら、「所有」という言葉をつかうと、すごく狭いイメージ、つまり法律上の所有ということだけがイメージされてしまうからです。*1
 「生産手段の社会化」つまり生産手段を社会のものにする、という場合、実はさまざまな形で社会が生産手段(あるいは経済全般)に関与し、影響力を行使し、最終的に生産手段と経済全体をコントロールできるようになる、広い意味での操作ハンドルをイメージしやすいと思います。
 つまり、「生産手段の社会化」というのは、単に所有だけでなく管理や運営はもちろん、多少の影響力の行使など、さまざまなツールを使うことだといえます。
 たとえば、法律で環境基準を企業に強制する、誘導計画をつくって自主的に企業にやってもらう、奨励金などのインセンティブで企業行動を変える、世論のキャンペーンで購買行動をつくり企業に圧力をくわえる、金融でコントロールする、株主総会で決める……などなどです。
 これはすでに資本主義のなかで生まれている「社会化」のための豊富なツールです。(この意味では前の記事のコメント欄で、バッジ@ネオ・トロツキストさんが「生産手段」や「所有」へのこだわりを批判していますが、一理あると思います。)


 また、「あ」さんが前回記事のコメント欄で、「日本社会の成員一人一人がやるようになることだ」…というような話をかいていますが、決定は単一のものではないのは確かです。国会レベルで決まること、自治体レベルで決まること、企業レベルで決まること、地域で決まること、社会集団の有形無形の行動圧力として影響を与えること。そういう無数の決定や力がうまく働くように社会をデザインするということが、新社会では求められることになると思います。このような方向はすでに現在の資本主義社会のなかでも部分的に行われているのですが、なにせ社会全体は利潤第一主義の原理が覆っているのですから、それは社会全体でコントロールを働かせるというふうにはなっていないわけです。


 たしかに社会主義者にも、一般の市民にも「生産手段の社会化」といったときのイメージの貧しさ(イメージのなさ)は問題だといえるのです。


 次に第3章「長期と短期」についてですが、ここはローマーのめざす社会主義が第1章であげた3つの意味での平等主義(個人の幸福、政治的影響力、社会的地位)を目的にしているのは、ジョン・ロールズの影響が大きいという話が書かれています。
 これは前回も書きましたが、理性による理想を目標においた社会主義というニュアンスが、ローマーには強すぎるなと思います。


 そして第4章「市場社会主義の理念の小史」です。
 ここでは、ハイエクとランゲの論争がかんたんに紹介されています。
 それは、単一の計画経済は、市場システムにかなわないということをランゲの側(社会主義者の側)が認めていく「敗北と後退の歴史」として描かれます。
 ローマーはこの点でのハイエクの正しさを認めます。
 けっきょく単一の計画、そのための公的な所有なんて、いらねえんじゃね? というのがローマーの結論です。
 しかし、そこまで言ってしまうとローマーは「じゃあ、おれって社会主義者なの?」と不安になったのでしょう。自分の社会主義者性をどこに求めたかというと計画経済とか公的所有じゃなくて、平等主義の達成に求めようとしています。


 ここは、すでに前の記事で、ぼくは「市場経済と資本主義を混同しないようにしようぜ」と主張しているので、ぶっちゃけハイエクのランゲ批判はだいたい正しいんだろうと思います(論争そのものを読んでいないので軽々にはいえませんが)。
 ただしローマーのように、だからといって、平等主義をめざすということを社会主義の目的にしようとは思いません。
 そうではなくて、資本主義のなかで利潤第一主義をおさえるさまざまなツールがそだち、それが経済をコントロールする新しい社会を準備しつつあることに次の社会の「芽」をみようと思うのです。


 面白いことに、ローマーも、ハイエクvsランゲの論争をふりかえりつつ「いやーなんか社会主義者が資本主義者たちに負けっぱなし、譲歩しっぱなしみたいに思えるけど、実は資本主義はこの1世紀でだいぶ社会主義に譲歩してるんだぜ?」といって4つの資本主義の「譲歩」をしるしているのです。

  1. 資本主義諸国での公共部門の増大。
  2. 北欧的社会民主主義の成功にみる所得配分の平等化。
  3. 日本などでの経済への政府の干渉ツールの発達。
  4. 法人資本主義における依頼人代理人問題の解決可能性。

 (4.はわかりにくい話ですからここではわからなくてもけっこうです。)


 あと、ランゲがすでに強力なコンピューターがあれば社会主義はできるぜと、すでに1940年前後に主張しているというのが印象にのこりました。「コンピューター社会主義」というのは、可能性としてはまだ残されているとは思います。


 






 

*1:民法では「所有権」は「自由に使用、収益、処分をなすことのできる権利」と定義されている。