「あ」さんの問題提起で時短論を一部修正する


 前々回前回のエントリで不破哲三の時短論について疑問を書いてきた。
 それぞれの記事について、コメントがついている。
 うち「あ」さんが提起されているぼくへの批判(「紙屋は誤読しているのではないか」という批判)についてぼくもよく考えて再度コメントし、その時点でぼくの立論に修正は必要ないなと思っていたが、再度よく考えてみて、やはり修正が必要だと考え直すに至った。修正、というか、再整理であり、疑問の一部解消である。


 不破の記述は次のとおりである。

社会的生産力が発展した現在の条件のもとでは、社会全体が生産活動を担当すれば、一人一人の労働時間は短くなり、社会のすべての人間が、「必然性の国」の義務を果たしながら、自分の自由な生活時間・「自由の国」を十分に持てるようになります。(不破『党綱領の力点』p.146、引用1とする)

搾取がなくなり、労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになうようになれば、それだけでも、労働時間の抜本的短縮が可能になるはずです。さらに、利潤第一主義から解放された社会では、生産力が発展すれば、そのことを労働時間のいっそうの短縮に結びつけることができるはずです。(不破『新・日本共産党綱領を読む』p.374、引用2とする)

 搾取がなくなるわけですから、当然、社会が生産する財貨のうち、働く者の取り分は大きくなりますし、社会保障の抜本的な充実も可能になりますから、社会のすべての成員の生活を向上させ、貧困をなくす道が大きく開かれてきます。
 それと同時に重要なことは、すべての人間が、生産労働と同時に、社会の知的分野の活動にも参加し、自分のもっている人間的な能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになります。(同前p.373、引用3とする)


 これとマルクスの『資本論』のもともとの部分を重ねよう。

労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分から他の社会層に転嫁することができなくなればなるほど、社会の労働日のうちで物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる。(マルクス資本論』第1部第15章、新日本新書版、第3分冊、p.906、引用4とする)


 不破が言いたかったであろうことは、

  1. 「社会的生産力が発展した現在の条件のもとでは」つまり生産力の水準が今のままであっても、例えば8時間労働の社会であれば、4時間は必要労働分、4時間は剰余労働分であるが、搾取の廃止によって、剰余労働分は(まるまるではないが)短くなる可能性がある。(引用1、3より)
  2. 生産力の水準が今のままであっても、ワークシェアリングのような形で「労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになうようになれば」労働時間全体は相当短くなる可能性がある。(引用1、2、4より)
  3. 生産力の水準が今のままでの「ワークシェアリング」(=「労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになう」=「社会全体が生産活動を担当」)とは、失業者・無業者・専業主婦のような人口の活用が想定されているのと同時に、利殖生活者のような不生産階級の生産活動への参加が見込まれている。(引用1、2、4より)
  4. 不破は「生産力が発展」した場合にさらに労働時間の抜本的短縮ができるということを排除しておらず、きちんと予見しているが、まず現状の生産力水準で果たして労働時間の抜本短縮が可能かどうかを考察している。(引用2より)


 ……となる。
 ゆえに、まず生産活動の「義務的性格」というのは、必要労働が社会の維持と発展にとって必要不可欠だという意味であって、個々人への義務づけではない、ということははっきりする。
 また、次に、学者のような知的・文化的・精神的活動に従事している人が、一部分とはいえ別の仕事を受け持つ義務を持つのか? という疑問は、「そうではない」という答えが出てくることになる。つまりその点でのぼくの疑問は解消されたことになる。


 不破の議論が最初と変わった(「生産力上昇による時短」から「現状の生産力水準での時短」)のは、「生産力が上がらないと時短は無理なのか」というあきらめに目配せしたか、マルクスの議論に忠実にしようとした(マルクスは「労働の強度と生産力が与えられているならば」という前提を書いている)か、どちらかだろう。


 3.のような就業人口の増大が労働時間短縮効果をもたらすことは、あまり大きくないと思ったのだが、ないとはいえないし、生産力上昇による労働時間短縮自体は不破は次の段階として当然に認めているので、これはあまりこだわらないことにする。


 疑問が「一部」しか解消していないというのは、2.や3.のようなことが本当に想定されているのかどうかは、不破自身に聞かないと本当のところはわからないからだ。だから、この修正自体も再度修正することはありうる。


 オランダのパートタイム労働ような「週3日」勤務の労働者と「週4日」勤務の労働者が組み合わされるような形態を見ると、1人の労働者が週6日働きづめだったものが、2人で分担することで短い労働時間になるということはすでに現実で起きていることであって、こういう想定にはあまり無理はないように見える。



 なお、「植田与志雄」さんと「バッジ@ネオ・トロツキスト」さんは生産労働の範疇に何を含めるのか、という問題提起をしている。
 ぼくがコメントに書いたことから考察を書いてくれたものだと思うが、ここの主題には直接関係はないと感じた。ただ、どんな労働が社会を維持するのに必要なのか、「物質的生産」の「物質」とは何か、という別の興味深い問題は提起されている。


 お三方に感謝を申し上げる。