左翼の定義

 この記事について。

世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼 - Zopeジャンキー日記http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo

 ぼくは公言している通り左翼である。

 左翼とは何か、とよく問われる。

左翼・右翼は元来「相対的な意味」しかない

 しかし、Yahoo!百科事典(小学館日本大百科全書』)で「他の多くの政治的用語がそうであるように、右翼ということばも多義的であり、対立概念の左翼と同様、元来、相対的な意味しかもたないゆえに、厳密な定義を行うことは困難である」(西田毅)、「対立概念の右翼と同様、元来、相対的意味しかもたず、その時の政治状況や右翼が何をさすかで決まる」(加藤哲郎)と書かれているように、ここに固定された絶対的な意味を求め、万人の認める定義づけをすること自体が空しい作業だといえる。

 よく言われるように、この言葉はフランス革命のさいに議会にどういうグループが陣取ったか、に語源を発しているとされる。

1792年のフランス国民議会で、議長席からみて左側が急進派(ジャコバン派)、中央に中間派、右側に穏健派(ジロンド派)が議席を占めていたことに由来する。(加藤)

http://bit.ly/b3g1WY

 いわば穏健派・保守派が右翼(右派)で、急進派が左翼(左派)である。
 ここでは、ある社会改革にたいする態度の違いとして右翼と左翼がある。こういう使い方だけならわりと使いやすかったに違いない。社会改革の状況ごとにどういう立場が急進派で穏健派かはくるくるかわるからだ。使う方も、そんなにこだわりをもたなかっただろう。

 この用法がそのままだったら、たとえば自民党あたりのネオリベ顔した若手候補が「私は市政改革派です!」と演説するところを、「私は市政左翼です!」と演説していたんだろうな。

社会主義者共産主義者が「左翼」を認じてから

 ところが、複雑になるのは、社会主義者共産主義者が、初めは誰かに投げつけられた言葉かもしれないが、積極的に自分を「左翼」だと名乗り始めたことからだ。

 社会改革におけるラジカルな対案を持っているのは我々である、という自負を「左翼」とか「左派」という言葉で誇示し出したからである。「保守・革新」という区分も同じだ。全共闘時代のセクトがやたらと「○○党左派」とか「○○同盟革命左派」とか、面白いくらいに左へ左へと椅子を動かしていったのはこういう精神作用による。

 共産主義者社会主義者が自らを「左翼」だと自称し始めた時点で、「右翼」とはそれへの反対物として「想定」されたものにすぎない。だから、近代社会主義が台頭して以後の「左翼・右翼」という分け方は左翼自身が自分の正当性を主張するための宣伝文句だということができる。
 実際には必ずしも多数派でもなかったボルシェヴィキが自らを「ボルシェヴィキ(多数派)」と名乗ったようなものである。*1


「進歩と反動」というモノサシ

 フランス革命から社会主義台頭以後にわたって共通するのは、社会改革を「進歩と反動」の二つの方向で見て、進歩側に自らを位置づけるという世界観である。いわゆる「進歩史観」というやつだ。現存資本主義の後に来るのは我々が唱える社会主義である、と自らを進歩の先頭に位置づけるからこそ、左翼は最もラジカルな改革派として自らを「左翼」と呼んだわけだ。

 ここまでをまとめてみると、「左翼・右翼」というのは、いわば左翼の業界用語であると言ってもいい。そもそも「進歩・反動」という数直線*2を承認できない人はこのツールを用いる必要はないのである。*3



ところで「進歩」の中身について

 定義についての論議は以上。
 では、お前自身は進歩というものの中身についてどう考えるのか、世界は進歩しているのか、という疑問があるだろう。

 くり返すが、以下の中身の承認は、ぼくの「右翼・左翼」定義とは関係ない。何を「進歩」とするのかは、ほとんど今合意がないであろうから。

 でもせっかくだから、ぼくの考えものべておこうというにすぎない。定義論争以上に興味のない人は、以下のしちめんどくさい議論は読まなくてよい。

 さて。

 なんかいかにもこうした「進歩史観」を自分は使っていなさそうに書いたけども、ぼくは一種の進歩史観進歩主義者である。社会は法則にそって進歩(発展)していると考えている。それも、リバタリアンのいう、必然性の対立物としての「自由」ではなく、ヘーゲルがいうところの自由(「自由とは必然性の洞察である」)を世界が次第に獲得していく過程として歴史を見ている。

 あのー、言っておくけど、それは単線的、直線的進歩じゃないんだよ、とか、螺旋どころか無秩序きわまるような動きをしつつもその混沌のなかに知らずに貫かれている傾向線として進歩はあるんだよ、とか、まあそういう留保は一応お約束として書いておこう。


経済はどのような方向に世界はむかっているのか

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書) たとえばだね、経済というものだって、マルクスの時代には資本という自己増殖する価値の運動体が自由気ままに活動し、社会全体は利潤追求の原理に覆われまくっていたわけだが、21世紀の今、それを規制し、誘導し、計画する無数の公的な関与がいたるところにはりめぐらされ、自由つまり野放しにすることがもたらす活力も生かしながら、全体としては社会的理性が経済に対して発揮されていくプロセスが強まっている。

政府の経済活動の領域の広がりは著しい。…戦後の世界経済の趨勢であることは明らかだ。…OECD…の統計を見ると、今や先進国のGDPの三割から六割が何らかの方法で公共部門を通して支出されている。ちなみに日本は…OECD諸国中最も低いグループに属する。(猪木武徳『戦後世界経済史』)

 ソ連型の一元的計画経済はいたるところで崩壊・衰退し、かわって市場を通じた自由な経済が広がっている。しかし、そうした国々で自由な市場経済活動一色かといえば、そうした個々の経済主体に対するマクロ・コントロールをどうするか、ということは問われ続けている。

 つまり資本主義国であれ、「社会主義」国であれ、市場経済にもとづく自由な経済活動と、公的なセクターによる規制・管理・誘導がミックスされ、全体として社会的理性をどうやったら発揮できるかという模索が世界的な規模でおこなわれているといってよい。いわば経済という猛獣を飼いならして人間に奉仕させるには、あまり檻には閉じこめずに、鎖や餌付けをどれくらいしたらいいのか、どんな形にしたらいいのか、ということをめぐる模索であって、檻に閉じ込めれば言うことを聞く、という人がもはやいないように、野放しにしておけば万事OKという人も今では少数である。

 自然の猛威にわけもわからず支配されていた時代から、自然の中にある法則を科学によって知り、それを技術によって人間に奉仕するものに作り替えてきたように、経済にふりまわされていた時代から、それを人間に役立つように理性的に管理するという形で人間は自由を拡大し、進歩しつつある。

 かつて自然のことをちょっとわかったといって自然から苛烈な搾取をした人間は強烈な敗北を味わされた。それはちょうど経済を万事管理し設計できると思い込んだソ連型経済の敗北と似ている。
 自然に強烈なしっぺ返しを受けたからといって、「だからもう自然を利用しそこから富を取り出すことは一切ダメ」という態度を人間はとっていない。自然の法則をなおもよく知ることで、自然とできるかぎり共存し、そこから持続可能な経済的富の抽出を行おうとしているはずである。いわば「より賢明な自然支配(利用)」へと態度を発展させたのである。
 ソ連型経済が破綻したからといって、そこから計画や規制を一切放棄する態度は明らかに間違いだし、現実の経済の歴史とも違う。

 だから、世界はいま「市場経済にもとづく自由な経済活動と、公的なセクターによる規制・管理・誘導がミックスされ、全体として社会的理性をどうやったら発揮できるかという模索が世界的な規模でおこなわれている」ということ、すなわち社会主義の方向へと一歩一歩進んでいる、というのがぼくの歴史観である。


ヘーゲル的な自由の拡大する世界

 こうした「経済にたいする社会の自己決定」だけでなく、他にも、たとえば植民地支配から「民族の自決」という方向とか、民主主義政体の広がり、といったようなものは、大局的にみて世界史を貫いている方向である。
 そこにぼくはヘーゲル的な自由の拡大、進歩の流れというものをみるのである。へへへ、なんか昔のフランシス・フクヤマみたいなこと言ってますね。


反動と進歩は単線・直線的なものではない

 反動と進歩は単線・直線的なものではない。あるいは絶対的な固定・対立にあるものでもない。

 たとえば古い共同体や家族の価値を称揚することは「反動的」とみなされることがある。
 こうしたものと対立するものとして近代個人をとらえ、「古いイエ」「古い共同体」の解体、そこからの脱却を民主主義の担い手たる近代個人の成熟と位置づけるような動きも戦後あった。
 しかし、こうした方向が一面化し硬直化してくると、共同体的なものはすべて否定され、強い個人と自己責任の過度な強調がやってくる。
 そうしたなかで、古い共同体やイエのよさというものも見直されざるをえない。そのなかにあった共同体の積極的な要素を止揚するという態度が必要になる。保育園のつながりとかNPOのような新しい共同体もそうだし、古い村落の共同体を再び活性化させるなどの手だてである。

 そこでは「保守的」「反動的」だと思われているもののなかに、むしろ進歩的な萌芽が存在するのであって、これこそまさに進歩が単線・直線的なものではなく、矛盾に満ちた、弁証法的なプロセスであることを物語っている。こうした苦闘は、明らかに社会のなかにある複雑な法則を知り、それをよりよい人間の生活に役立てていこうとする態度であって、まさにヘーゲル的な自由を拡大する態度であり、進歩を求める態度である。
 「自分は進歩史観ではない」などという人がいても多くの人は実践生活のなかでこのような態度をとっているはずである。


くり返すけどあくまで左翼内での基準だよね

 しかしこう書いてきたとしても、同意できないという人は少なくないだろう。
 だからこそ、ぼくは「進歩(左)・反動(右)」という軸で世界を見ること、世界を進歩させるためにはどうしたらいいか、反動とはどうたたかうかを日夜考えることは、万人のモノサシではなくて、左翼が自己検証のためにもっておくべき基準にすぎない、と思うのだ。
 逆にいえばこの基準で外に飛び出して「あいつは右翼だ」とかいうのはいかにも傲慢な規定ということになるし、たいていは間違っている。
 「業界用語」だといったのはそういう意味である。もっとも、左翼の中でさえ、「進歩(左)・反動(右)」という定義づけに同意できない人は少なくないだろう。じじつ、ぼくは、自分の属している組織の外の、自らを「左翼」と認じる友人にこの定義を話したところ、「自分は社会発展の法則や進歩という観念は信じない」と言われた。

 ゆえに、これに同意できる人は多数とは限らないことも認める。ただ、語源的歴史からみて、ぼくのような定義づけこそ無理がないものだとぼく自身は考えているし、あくまで自分のなかでのモノサシということにしておきたい。


けどお前はなぜ外に向かって自分を「左翼」だと言ってるの?

 だが、お前は自分を「左翼」だと外に向かって言っているではないか、というツッコミもあろう。
 上記にのべたように、左翼でもない人々がネット上などで「売国サヨク」「ブサヨ」という言葉を使っていたことがぼくには気になっていた。左翼でもない人々が「左翼」概念を使うことの奇妙さは、上記の理由からみてもわかるとおり、嫌悪している人間を「進歩派は」「革新派は」と呼ぶ奇妙さと同じである。
 まあネット上で「サヨク」を侮蔑的に使っている人は「サヨクと自称しているやつら」程度のニュアンスで使っているんだろうけど。

 たしかに、「左翼=進歩派」という定義をぼく自身がもっているなら、ぼくが自分を「左翼」だというのも確かに傲慢だといえなくもないのだが、世の中では「サヨク」が悪い固定したイメージで語られているので、一つの実例を見てもらうことで「あれ、こういうのも左翼っていうんだ」と思ってもらえる効果をねらってのことなのだ。進歩・反動というモノサシを他人に押しつけるためではない。

 ただ、今後もぼくは自分を左翼だといい続けるし、その根拠についても積極的に展開していくだろう。

 

関係ないけど

 ところで元記事とは直接関係ないけど、元記事を書いた人は以前、派遣労働の規制について、こういう記事を書いていた。

規制の話が浮上しはじめた頃に、非正規雇用がみるみるうちに「消滅」する……いま非正規雇用の社員(契約社員・派遣・アルバイト・パート)は、すごい勢いで解雇されていく。そして、中小企業がバタバタ倒産するから、その正社員も放り出されていく。大企業が拠点を海外に移していけば、国内の雇用は減るばかりで、まったく増えない。


そして非正規雇用の規制が浮上した時点で、日本にいる外資企業はぞくぞくと撤退しはじめ、「外国人投資家」も一瞬で資金を引き上げ、株は暴落していく。


この悪夢のシナリオ、破滅への道が、いまや現実性を帯びてきた気がする。

http://mojix.org/2008/06/13/no_more_regulation

 これにたいして、ぼくはこんな短い記事を書いていた。

日本が終わるそうです - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0807.html#owata

 もう派遣の規制の話が流れて2年以上になる。国会に法案まで上程されている。なるほど、この記事を書いた直後にリーマンショックがおき、株価はもどらないままである。失業率も2008年よりは高止まりしている。円高が加速し生産拠点の海外移転を考える企業が増えている。

 しかし、それはこの人が言ったような事態なのだろうか?

 「わかりやすく」物事を説明することは本質をとらえることはあるけども、得てして表面をつなげただけの説明に堕するものである。

*1:あるいは「大乗仏教」側が自らを「大乗(大きな乗り物)」として、対立側を「小乗(小さな乗り物)」と罵倒したように。

*2:仮にこう述べておくが、後で述べるとおり、「直線」的なものではない。

*3:もちろん、自称左翼の人で、これとは違った意味で左翼を定義づけている人はいるけども、フランス革命の語源的起源にもとづいて考えれば、大局ぼくの述べたような意味になるはずであり、それ以外はそこから派生したニュアンスの一つにすぎない。本文でも後でこのことについては述べる。