高嶋あがさ『母は汚屋敷住人』

 知り合いからいわゆる「ゴミ屋敷」の相談を受けたのだが、自分でもあまり有効な手立てがアドバイスできず、市議会議員に聞いてもあまりうまく処理できないケースだったので、けっきょくほとんどまともにかかわることができなかった。
 こういうのを「支援困難ケース」とかいうそうなのだが、そういう人こそ困ってるんじゃないのか、と思い、関連する本をいくつか読んだ。もちろん専門家じゃねーから、それを読んでどうってわけじゃないけど、どこにつないだらいいのか、とか、どういう解決方法があるのかとかの道筋を知っておきたいのだ。


母は汚屋敷住人 そのなかで見つけたのが本書『母は汚屋敷住人』〈実業之日本社)。
 マンガ家をやっている著者が「樹木希林そっくり」の実母のみが暮らす実家の「ゴミ屋敷」化と苦闘する実録エッセイである。


 汚れっぷりや苦闘ぶりは、まさ読んでもらうのに限るのだが、「ゴミ屋敷」で最大の困難はゴミがあること自体ではなく、そこの住民がそのゴミを「捨てることを許さない」というケースであろう。
 「ゴミ屋敷? たいへんだろうけど、どんどんすてればいいじゃん」と思うかもしれないのだが、かんたんには捨てさせてくれないのだ。
 この母親がまさにそうである。
 まだ使うと言い張る。絶対に使わないのだが。
 著者・高嶋は気づかれないように捨てたり、けんかして捨てたりしている。


 ゴミ屋敷はセルフ・ネグレクトの結果として出現するが、本当に体力がなくなっていく場合や、気力が失われていく場合や、認知症だったりする場合や、さまざまな原因で引き起こされる。
 しかし、自分の意思と言葉ではっきりと「捨てるな」と表明する人は実にやっかいで、学説上も、これをセルフ・ネグレクトとはみなさず、「愚行権」(体に悪いと知りながらタバコを吸うなど)として自己決定の一形態と考える説もある。(参考:岸恵美子『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々 孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』、岸『セルフ・ネグレクトの人への支援』)


 本書を「ゴミ屋敷もの」と考えれば、そのうちで最もやっかいな相手である、「使うから捨てるな」的人物(本書にも出てくるがこういうゴミを抱え込んで放さない人を「ホーダー」という)との激闘をつづったものだといえる。
 たとえば、シュレッダーのゴミにくるんで、中身がわからないようなゴミ袋にして捨てたり(高嶋いわく「イースターエッグ法」)、捨てたのに捨ててないような容量に見せかけたり…。
 ただ、これは実の親子だからできる格闘ともいえ、もしこれが第三者であればなかなかこれほどの闘いは日常的にできず、こっちが根をあげてしまうなと思わざるを得ない。


 高嶋には悪いけど、本書をそれほど深刻な気持ちで読まなくてすむのは、今現在、高嶋・弟・父がこの母のもとを脱し、共同の清潔な価値観で結ばれ、母親に対抗するトライアングルを形成しているからである。
 幼少期のエピソードは、まさにネグレクトであり、高嶋姉弟はそこからかろうじてサバイバルしてきたをことを示しており、それこそ笑い事ではない。
 だが、いまや二人は社会人となって自立し、父親とも組んで母親の「ゴミ屋敷」化とたたかっている(もしくは逃れている)のだ。
 前回の記事で紹介した小林エリコのような孤独さがまるでない。この3人(とくにきょうだい2人)は「戦友」なのである。本書の根底にある安心感ともいえる。
 このように本書は「ゴミ屋敷」の話だけでなく、「毒親」(子どもを支配したり虐待したりしようとする親)との闘争史としても読める。


 本書を読んでいて、母親の持ち物であるゴミを、のこり3人が共同戦線を張ってワイルドに捨てるシーンは、母親にすれば気の毒であるが読者の爽快感を呼び起こさずにはおかない。捨てた家具が燃える姿はたしかにロックであり、笑いさえこみあげてくるようなカタルシスがある。