小説のようだった。
というのは、第一に、文章が面白かったからである。「文の芸」だ。次々にページを繰ってしまった。
第二に、エッセイとルポの中間という意味で。「中間だから小説」ってどうなの、と言われると困るけど、エッセイほど主観に任せていない、しかしルポほど突き放した客観視をしていない。そういういい意味での中途半端さが、ジャンルとして「小説」と区分させたくなった。
本書の内容はサブタイトル「うつ病、生活保護。死ねなかった私が『再生』するまで。」ということに要約されている。
エロマンガの小出版社というブラック職場で心身を病み、自殺(未遂)に追い込まれ、精神障害の認定を受けて再出発したデイケアでまたもや破綻し、自殺(未遂)へと再度追い込まれる。生活保護を受けながら、NPOで「給与生活者」として「自立」をするまでが記されている。
最後に、自作のマンガがつけられており、エロマンガを編集する職場で自分がどう働き、心と体を壊したのかが描かれている。
全体に強烈な「社会とつながりたい」という欲求を感じた。
当事者研究を行ったことでわかったことは、私が自殺未遂を繰り返すのは人とのつながりを猛烈に欲しているからだということだった。(本書p.51)
座間の事件ではないが、自殺さえも人とつながりたいという表現なのかと驚いた。
小林は、生活保護は権利だと知りつつも、何もせずにお金をもらう自分のありように強い違和感を抱き、一刻も早くここから脱したいという強い願望を膨らませ続けた。
そして、デイケアを運営する法人がやっている「障害者就労」の欺瞞、薬の利権の実験台にされて全国を講演して回る虚偽に、そこでの「社会とのつながり」の質の悪さが相当にこたえたのであろう、自殺未遂という形で破綻してしまう。
新しく得たNPOの職場で、うつの状態で子育てをした人のマンガを編集する作業にたずさわり、やがて職員として雇われ給料を得て「泣きそうに」なり、その後「生活保護廃止決定」通知を受け取った時、ひとり狂喜乱舞するのである。
「生活保護廃止決定」
たしかにそう書いてある。私は震えた。大声で自慢してやりたかった。通知書を書類ケースに入れておいたが、何度もひっぱり出してしまう。こんなに嬉しい通知をもらったのは短大の合格発表以来の気がする。(本書p.149)
小林にとって「社会とつながる」というのは、例えば、ただボランティアで社会に参加するとかいう形ではなく、労働が社会の不可欠の部分を構成しているという前提のもとで、その労働を行なって対価としての給料をもらうことなのである。
小林は前述のように薬の効き目について講演をして回る役回りを与えられたり、障害者の菓子販売などに従事したりするが、そこにある「欺瞞性」に馴染めず、死を選ぶ決意までしてしまうように、なんでもいいから社会とつながる、どんな労働でも報酬を得られればいいというわけではない。
よく読めば、小林にとっての労働は、最初のエロマンガ編集もそうだったし、NPOでのマンガ編集の仕事もそうであるが、小林なりの才能が労働に生かされ、それで社会とつながることを強く欲しているのだ。
小林の「宮崎駿に人生を壊された女」も読んだが、マンガやアニメといった文化に関わり続けようとしてきたことがこの人の核にある。「人生を壊された」ほどなのだから。
http://toko.takekuma.jp/viewer.php?mangaid=355
そのことに実は強くこだわっているように思える。
小林のこうした意識のありようは、左翼のぼくからすれば、生活保護をそんなに早く抜け出したがるのはマイナスに捉えすぎているのではないか、とか、生活保護で何の労働もせずにお金をもらうのは申し訳なく働いて給料を得てようやく社会とつながれるのだというようなワークフェア的な考えはおかしいんじゃないか、とか、自分の能力の発揮で社会とつながるというのは「働きがい・生きがいがなければ労働じゃない」的な考えに毒されているのではないか、とか、そういうことが一瞬頭をよぎる。
しかし、小林の考え方は、どこにでもある考え方のひとつである。
小林が章タイトルにしているように「普通に働き、普通に生きる」ことの、まぎれもなく一つなのだ。
自分の能力を活かして仕事をして、それで社会に貢献したい――その「普通」の生き方が職場の選択一つであっさり踏みにじられる。
そして、いったん壊されると、そこからまたその「普通」を取り戻そうとすることが困難に満ちているのである。
小林は、「まじめ」のように思われる。
しかも、それほど度外れているとは思えない、普通の「まじめ」だ。
ブラックの職場で生き抜く耐性は、「まじめ」でない、息の抜き方を知っている、という小さなライフハックの集積によって実は形成されている。そんなことが生死を分けてしまう。
アウシュビッツの囚人だったプリーモ・レーヴィは、収容所で死んでいく「まじめ」な囚人、囚人番号「018(ヌル・アハツェーン)」について書いている。
彼は、命令されたら、すべてを実行する。……完全に消耗する前に働くのをやめるという、荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさを持ちあわせていない。彼は力の許す限り運び、押し、引く。そして何も言わずに、その濁った悲しげな目を地面から上げもせずに、不意に崩れ落ちる。(プリーモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』朝日新聞社p.45)
打ち負かされるのは一番簡単なことだ。与えられる命令をすべて実行し、配給だけ食べ、収容所の規則、労働規律を守るだけでいい。経験の示すところでは、こうすると、良い場合でも三カ月以上はもたない。(同p.106-107)
文明諸国になればなるほど、困窮者があまりにも貧しくなり、権力者が過大な力を握ることを防止する、賢明な法律が働くようになる、と考えられている。/だがラーゲルでは違うことが起きる。ここでは生存競争に猶予がない。なぜならみなが恐ろしいほど絶望的に孤立しているからだ。ヌル・アハツェーンのような男がつまづいたとしても、手を差しのべるものはいない。(同p.105)
『この地獄を生きるのだ』では、小林の几帳面さが随所に描写されている。きっと「ヌル・アハツェーン」のようだったのだろう。職場の選択を一つ間違えただけで人生が台無しになるそのありようは、生き延びることと死ぬことが紙一重の、むき出しの生存競争になっているラーゲルと似ている。そして、「文明諸国」の「賢明な法律」はなかなかうまく働いてくれない。
後半についているブラック職場での小林の労働には、支援される影がない。孤独である。「彼氏」となった職場の先輩は、ヤリたいだけのドライな存在のように見える。
本書で展開される「文明諸国」の「賢明な法律」は、ぎこちなくしか作動しないようだ。最初の医療法人では「食い物」にされているように見えるし、「生活保護」は小林を焦らせているだけのように見える。ここでも伴走者のような支援のつながりが見えてこない。
本書の表紙は何となく不気味である。
本人と思しき人物は、自転車に乗って笑っているが、まわりに人はいない。本書の冒頭に出てくる光景のように見えるが、支援者がいない孤独さを強調しているように感じた。
しかし、結局小林は、生活保護を活かしながら、その苦境を脱出する。「文明諸国」の「賢明な法律」は何とか作動したのである。
小林は、生活保護でお金をもらうことに違和感を覚えつつも、生活保護という制度の重要性を力説するのである。
生活保護を受けたことで、私は絶望の淵に追い込まれた。しかしあのとき、生活保護を受けなければ私はどうなっていただろう。生活保護は世間で言われるほど悪いものなのだろうか。少なくとも私は生活保護によって助けられたのである。……(ブラック企業で心身を壊した)あの頃の私に「生活保護を受けてほしい」と伝えたい。(本書p.126-127)
小林は上記の箇所で生活保護法第1条「目的」の条文精神の立派さを褒め称えているのだが、生活保護を受ける自分を嫌悪した小林のその賞賛には、アンビバレントな真実性があり、説得力がある。
ぼくは左翼であり、社会の変革を望み実践している者だが、自分が生きている生活の実感としてこの世を「地獄」と思ったことはない。
だが、普通に働き、普通に生きたいと思う人が「地獄」を感じることもあるというその皮膚感覚を本書は書いている。ブラックな職場で働き、うつ病となり、生活保護を受け、死のうとまで思うそういう人がどんなふうに「地獄」を感じるのかを知ることができる――まさに本書はそれ以外の何者でもないわけだが――そういう役割として本書がある。