中野純子『Say,good-bye』


Say,good-bye (アクションコミックス) 45歳で急逝した中野純子の短編集である。

個人情報誌ってなに?

 冒頭の短編「アタシに愛を!」は、もはや男子高校生ですらなく、結婚しているサラリーマンが主人公である。
 個人情報誌に「アタシに精子を!」と題して「子供が欲しい。けど結婚したくない。こんな私に原始的な方法で精子を提供してくださる男性募集! 認知も養育費もいりません。ご自分の遺伝子に自信のある方 まずは手紙でアクセスを! 25歳 OL 山田愛子」という広告を出して、知らない男女が出会う話である。
 え? 「個人情報誌」って何かって? それはね。個人売買の情報誌、いち個人が商品でも出会いでも何でもいいので需要と供給の情報を出し合ってマッチングするという、今の子どもたちが知ったらのけぞるような雑誌なんだよ。「どうしてインターネットを使わないの!?」って、いちいちうるせえなあ。あのね。「インターネット」なんていう便利なものはなかったの。いや、あったけどそんなにまだ普及してなかったの。
 っていうわけで、この話は「個人情報誌」を「インターネット」に替えれば現代でも成立するんだけど、今のネットを使った出会いの簡便さ、ありふれた感とは比較にならないくらい、当時としては「ブッとんだ」設定なのである。

まずは都合よすぎる設定から

 男(田中一郎)は、手紙に、妻と自分は「ベストパートナー」であるが子どもをつくることはなさそうだ、でも自分の遺伝子を残しておきたいという欲望が自分の中にあることに気づいたので、あなたのプロジェクトに協力させてほしい、という冷静なタッチの手紙を送る。
 田中は、メガネ面の、おとなしそうな人である。手紙の中で「顔はイマイチ」と、最後に付け加える。出会った時に女性(山田)側が「謙虚な方ですね」と言う。
 まるで仕事のように始まり、仕事が終わったように山田は「お疲れ様でしたあ!」と飲み物を差し出す。しかし、セックスの最中に快楽にゆがむ山田の顔が一瞬描写される。

「…………意外でした」
「は?」
「あまり…好きじゃないから 結婚したくないんだと思ってたので」
「相手によっては好きですよ セックス!」
「…… 僕の他にも協力者はいるんですか?」
「いいえ 手紙はそりゃもーたくさん来ましたけど
 田中さん以外はみーんなただ ヤりたいだけってミエミエで」
「……僕にも少なからずありますよ 下心とか好奇心は
 妻以外の女性って知らなかったもんだから
 こんな大義名分でも無かったら一生そのままだったろうな」
「奥様ってすてきな方なんですね 田中さんすっごく上手なんだもん」
(強調は引用者)


 田中の内語が入る。

“君との方が素晴らしかった”
そのセリフはあえて呑み込むことにした
甘い言葉を交わす必要は無い
そういう関係なんだから

 冒頭のやりとりからこのピロウトークまでに、男性のファンタジーにとって大事なものがすべてつまっている。

  • 男性の側ががつがつしていない。誠実でオクテである。そして、そのことが女性から選ばれる理由となっている。
  • 男性(田中)がパートナーである女性(田中の妻)を傷つかせないようにしている。そして、セックスをする女性の側(山田)に田中の妻を嫉妬したり憎んだりする感情が無い。
  • 女性との関係が割りきった、後腐れのなさそうな、しかも快楽込みの「契約」だということになっている。
  • セックスがていねいで上手で快楽的である。


 こういうふうに設定を解釈すること自体におそらく本作を読んだ人からは異論がでるだろう。相当に男性にとって都合のいい世界なのだ。しかし、それを女性マンガ誌の世界でやっていることで、「これは女性もアリだと認める世界なんだなあ」と勘違いさせてしまう。

 しかし……。
 この短編は、「政治的正しさ」を考え始めると、実にいろんな要素がからまっている。
 そのことを考え出すと無邪気にはいられないはずなのだが。
(以下ネタバレあり)


結末と筋書きだけ書くと「ひでえ話」に

 結末として、田中は妻を捨てる。
 スジだけなぞれば、子どもをつくろうとしない妻を捨て、子づくりをしたいと願う新たな愛人のもとに田中は走ったことになる。はじめはドライな契約(単なる肉体関係のみ)だったのに、肌を重ねるうちに情を移していったと……。ひでえ話。


 だが、中野純子はこの「ひでえ話」をいかようにして「ひでえ話」に終わらせないのか。
 

 田中の内語で、

あの時から もう 恋に落ちてた

という箇所がある。妊娠するための精子だけを提供してくれればいい、という契約を確認したとき、山田は笑顔でこう述べた、その箇所である。

あ うちも母子家庭なんですけど
“結婚が嫌でも子供だけは産みなさい
生きる力になるから”
母にそう言われてものすごく嬉しかった
私はあまりいい娘じゃなかったはずなのに
それで決心したんです

 このセリフだけから「恋に落ちた」というのだ。
 それは一体どういうことか。
 山田は生きる力をつくるために、子どもを産もうとしていて、それを聞いた瞬間に恋に落ちるとすれば、カンタンにいえば「生きる支えに自分がなってあげたい」という意味にしかならないはずだ。


 「子どもが生きる力になる」ということは、自分(山田)は母親の生きる力だったはずである。ところが、山田の母親は自殺してしまう。自分が母の生きる力だという事実を支えに山田は子どもを産もうとしてきたが、その支えが失われ、山田はもう田中に連絡をとらなくなってしまう。だから、田中は山田のもとに駆けつけた。駆けつけることで、田中は山田の生きる力、生きる支えになることを告白したようなものだ。その瞬間から、(昔の娼婦の話のように)カラダだけだった関係は、唇を求めあう関係にかわる。


 熱にうなされた山田が、田中にたいして、産む苦しみも堕ろす苦しみも、傷を負うのは女でしかないと、男の立場を突き放すシーンがある。山田は「精子だけをもらう」というドライな関係を自分から求めてはいたが、そこには根源的に批判をもっていたことがわかる。


 田中は、山田のその苦しみの告白に共感し、ドライな肉体関係だけという立場を最終的には捨てる。
 すなわち田中は妻を捨てる。
 妻は、「新店舗のプロデュースを任されることになった」といって喜んでいる女性である。ということは、田中の支えがなくても生きていける女性であり、子どもを「今は」つくるつもりはないとしていた女性、つまり「生きる力」としての子どもを必要としない女性であった……ということになる。
 田中は、妻を捨てて、山田を選ぶ。
 結末に

ふたりは 生涯 子供に恵まれなかった。
それでも 最期まで 愛し合っていた。

とある。すでに子どもという媒介が消え、お互いが生きる支え、生きる力となっている、という結末である。


全体としてはファンタジーとして楽しめる

 男としては、最初はずいぶんと都合のいい地点から話を始められ、粗筋だけ追えば、なんとも男性に都合のいい結末になったような気がする。
 だけど、物語の中で、男性主人公の田中は、かなりの負荷のある決断をいくつも迫られている。結末としては男に都合がいいかもしれないが、それでも傷つけたくないはずの妻を捨てる決断と行動をするというのはかなりの主体的な行為である。


 だけど、中野の作品は、やっぱりこうした、「けっこうひどい結末」「かなり負担をかけられる主体的決断」のはずのものを、そうでないようにして提示している。
 ぼくは全体として、この「ワタシに愛を!」をファンタジーとして楽しんだ。男はそれなりに苦労もしたし、女はそれなりに説得的な理由もしめして、男を選び取ったことになる。選び取られた側の男に感情移入しているぼくとしては満足である。この結末でいいのかよ、と思うが、やはりいいのである。精巧に作られている。

どれも男が女から選ばれる話

 本書において描かれた短編は、どれも男が女から選ばれる話である。あるいは、選ばれなかったけど、ほとんど選ばれたようなもんだろ、的な話である。こういうと「え、そんなことないだろ」という反論があるのは承知だけど、ぼくにはそういうファンタジーとして機能した。


 たとえば本書で最多の分量を占めている「盛春(セイシュン)少年」は、男子高校生・裕太が主人公。幼い頃の連れ子同士だった女子高生・みのるとの物語。
 誰もがふりむくほどの美少女・みのるが裕太と再会するや、熱烈な恋人扱いすることは、ぼくにとってはうらやましくもなんともないが(いや、8割くらいはうれしい)、それ以上に、母親の飲み屋でバイトに入っている女子大生・理子と裕太が「セックスフレンド」になっていることのほうがキた。


 裕太は全然がつがつしていない。
 だれもが認める美少女に抱きつかれたり、バイトの綺麗なおねえさんとセックスで割りきった関係になっていることについて必死さがまるでないのに両方とも手に入れている。


 この短編集は、1つの作品(「10月のヒロイン」)をのぞいて、男が努力をしない。
 男性マンガの古典的なラブコメの構造に似ている。
 だけど、女性マンガの中でそれが描かれる、あるいは女性漫画家がそれを描くことで、そういう典型的な設定や空気が隠蔽されている。無いことになっている。女性の論理が充満しているかのような空気のなかで、男はするりと女に選択されているのである。

 男の読み物ではないか、という気がする。

 

心おきなくファンタジーとして読める「ぼくの高校生のころの空気感」

 掲載された5作のうち、8作*1は90〜91年に描かれたもので、ぼくが大学生のころに描かれたものだ。残りの2本についても、90年代のものである。
 中野純子について、以前ぼくは『ちさ×ポン』の感想を書いたときに、「青年誌に移る前の、女性誌連載時代の中野」について次のように述べたことがある。

 中野純子は、女性漫画誌「ヤングユー」で最初に短編を読んだとき、強く印象に残った作家の一人である。


 その短編の載った雑誌をずいぶん長いこと実家に持っていたのだが、なにかの拍子でなくしてしまい、今は確認するすべはない(ゆえに、以下、間違いがあれば指摘してほしい)。
 たしか中野の代表作、高校生なのに夫婦だという『IMOSEな関係』シリーズの前ふりにあたる短編で、高校生で夫婦になるというのに男はぶっきらぼうな顔をし、女はやたらに不安気な顔をしているという高校時代のクラス集合写真が出てくる。
 男と女がおたがいにセックスをして結婚生活をはじめるというのに、ひどく子どもっぽい距離をとりつづけるのだ。


 高校時代の恋愛というのは、一般にどこまでも「甘い」。夢のような空気をただよわせている。また、それは「思い出」になることによって、いっそうその幻想性や浮き世離れ感を際立たせるものである。
 しかし、それが結婚に直結してしまうことによって、夢が破られたように、突如「現実」がそのなかにたちあらわれるのだ。ふたりのよそよそしさも、妙に現実的な感触があった。
 だから、中野のその短編を読んだとき、感傷とか、甘い思い出ではなくて、高校生のリアルが蘇ってくるような気がしたのだと思う(あれほど現実ばなれした設定にもかかわらず)。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/chisa-pon.html


 上記の感想をすっかり忘れていたので、今回の短編集を読んだときに、やはり真っ先に自分の高校時代を思い出し、その後で上記の感想を開いて読み直して、びっくりしたのである。いや、他人の感想ではなく、自分の感想なのだからびっくりする必要はないはずなんだが、でもびっくりした。
 中野への評価が自分の中で確立していて、それが堅牢なものであることがわかった。どちらかといえばそれは嬉しい感情だった。*2


 バブル崩壊を一つの境目にすれば、それ以降の時代の見通しのなさや暗さは、2010年代の現代にいたるまでマンガにおける中高生活の描写にも影を落とした。スクールカーストのような人間関係の緊張は、程度の差こそあれ、少女マンガの中にあふれかえっている。
 ところが、中野がこうした作品を書いていた時代は、空気感そのものにこうした緊張が無い。今の子どもたちが読んだら、ひょっとしておとぎ話のように思ってしまうかもしれない。けれど、ぼくらのような世代の人間はむしろ安心して読める。ほっとするといってもいい。心おきなくファンタジーにのめりこめる、というものだ。


 もちろん、その時代に描かれたマンガは少なからずそういう空気の中で描かれているわけだが、中野の場合は、特別にその遮蔽が厚い。設定がとっぴもないことが、いっそう現実との隔絶を強めていて、それがファンタジーにのめり込ませるために、いい方向で作用しているのである。

*1:このうちの4本は同じタイトルの続編である。

*2:中野が青年誌に初登場したのは、本書に収録されている、1991年発表の「Say,good-bye」からだから、ここにあるのは「青年誌以前」という括りではない。