坂爪真吾・藤見里沙『誰も教えてくれない大人の性の作法』


誰も教えてくれない 大人の性の作法(メソッド) (光文社新書) 大人になってから性教育が必要だ、という話は、はるか昔、学生時代に山本直英や村瀬幸浩の本を読んだり、講演会を企画したりして、よく聞いたものである。
 本書『誰も教えてくれない大人の性の作法』(坂爪真吾・藤見里沙)を手にとってまずそのような印象を受けた。
 と思いきや、坂爪の本書「あとがき」を読むと、こうあるではないか!

 今回、私が性教育者の藤見さんにお声掛けして「大人のための性教育書を作る」という企画を立案した背景には、一つの裏目的がありました。
 その裏目的とは、性教育の「失われた20年」を取り戻すことです。
 今から20年前、1990年代半ばに女子高生の援助交際が社会問題〔原文ママ――引用者注〕した際には、山本直英氏や村瀬幸浩氏といった性教育界のレジェンドたちが、性教育の理念に基づいて活発にメディアでの発言や出版を行い、青少年の性を帰省することの是非、性的自己決定権の在り方等について、鋭い問題提起を投げかけていました。(本書p.219、強調は引用者)

 しかし、現代は大人のための性教育が皆無の事態になっている、と坂爪は警告するのである。
 さらに、藤見もやはり「あとがき」で、自分が一橋大学の講座を受講し、そこで村瀬幸浩の薫陶を受けたことを書いている。


 ははあ、それでこの問題意識(特に坂爪の)に既視感があったのか、と思った。すなわち、大人こそ、性教育を学び直さねばならない、という問題意識である。
 ぼくが10代から20代の頃に、村瀬や山本の性教育の本を読んだ時は、むしろ初めて性教育そのものに触れて、しかもそれが従来学校で教えられてきたような単なる性器学ではなく*1、性=生だというテーゼを知り、深く感銘を受けた。
 しかし、40代の今、ぼくやぼくの周辺で切実化するのは、セックスレスとか、セックスのタイミングが合わないとか、不倫とか、そういう問題である。そのことをどう考えたらいいのか、という問題なのだ。


 不倫については、坂爪がすでに『はじめての不倫学』(光文社新書)という本を出していて、ぼくもそれを読んで感想を書いている。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150902/1441193508


 今回の本で印象深かったのは、むしろ藤見が書いている部分で、セックスレスやタイミングのズレのようなことにどう向き合うか、という話のところだった。

セックスレスは、お互いの合意の上でなら問題ではありませんが、どちらかがものすごく我慢をしているとすれば、問題です。(p.133)

 藤見は、ここで、どちらかが我慢していることは問題だと明快に規定する。それは性の問題に限らず、夫婦間でマイホームだの子育てだのでどちらかが「我慢」するという状況が起きているとすれば、それはコミュニケーション不全が起きていると考えるわけである。

私たちは性欲に関しては、どうにもならないものだからと思い込んで、互いに意に沿わない形なのに、コミュニケーションを取らずにやりすごすことが多すぎると思います。我慢させているとしたら、「今はこういう状況で、そんな気持ちになれなくて、ごめんね」と一言言うだけでも違うでしょう。(同前)

 あまり目新しくもないこと、常識的なことが書いてあるように思えるが、ぼくはセックスや性においては、このことを再確認することは本当に大事だと思う。もう少し先を読もう。
 藤見は自分の体験を話し、ある時期どうしてもしたくない・できない時期があったけども夫婦間でそういう話をすることに「抵抗があった」(p.134)という。夫も茶化したり、ごまかしたりしたそうである。そこを乗り越えて、藤見はきちんと話した。

すると「今なぜ応えられないか」だけでなく「どのような状態だったら応えられるか」という話もできるようになっていったのです。(同前)

お互いの希望が通らないとしても、それぞれの状況を確認しあって、「今は無理だけど、いつなら……」とか、「今、この程度なら大丈夫」といった妥協案を出していくことで、十分に、その都度の希望を叶えることは可能です。(p.135)

 これこれ。これですよ。
 妥協案を出し合ったり、いつならいいか、ということを確認したりする。つまり交渉するのである。
 交渉するというのは、性のこと、性欲やセックスのことを言い出せないといけないのだ。セックスしたいということを切実に語れなければならない。気恥ずかしさもあるし、断られた場合のプライドもある。本書にも出てくるが、理由も言われずに断られると、思い切って言っただけに人格を全否定されたようなショックを受ける場合がある。そのようなことが起きないためにも、理由を言うし、妥協案を示すし、そもそもオープンに語れないとまずいのである。


 そして「セルフプレジャー」、すなわち自慰の活用。
 藤見はご丁寧に心身のリフレッシュとか、その効能まで書いている。
 交渉・妥協・自慰を組み合わせることで、なんとかしのげるのではないか、というのが本書の提案である。
 このほかにも、夫婦が二人きりになる条件の確保や自慰の場所など、実践的で示唆に富むものが多かった。
 それでもモヤモヤは残るだろう。
 例えば、本書3章はよくある質問に坂爪と藤見が対談しながら答えていくのであるが、自分がしたくない時にパートナーから求められたらどうするのか、という問いに藤見はマスターベーションすればいいのでは、と言うのだが、坂爪は単に性欲を解消したいんじゃなくて性交欲を満たしたい時もあるんだよと反論したりする。
 決してスカッとする結論が出るわけではない。
 しかし、モヤモヤを残しながら、コミュニケーションの中で交渉をしていくしかない、というのが本書の核心であろう。


 「たかがセックスではないか」と思うかもしれないが、その「たかがセックス」をこじらせて、家庭のバランスが壊れそうになってしまう話が渡辺ペコ『1122』であった。そういえば本書には随所にマンガを中心とした虚構作品が例示として取り上げられるのも面白い。マンガが現実以上にリアルな、共通の教養として流通しているのである。


 坂爪の、非正規同士の結婚をモデル家族にしてみる、という提起も、重要だと思う*2。モデル家族を設定して、それに合わせて政治の制度設計を行う提案はすでに学者から出ているが、例えば「シングルマザーと二人の子育て」などが一番しんどい家族形態であり、このような家族が「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるよう、政治をそこから全て組み立て直してみるといい。


 左翼運動の中でも、もっとこういう話ができればなあ……と思う。

*1:と偉そうに書くけど、実は性器のことを全然知らないんだけどね。

*2:直接は宇野常寛の言葉として坂爪は紹介している。