魚戸おさむ(大津秀一監修)『はっぴーえんど』1巻


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 この記事で、

多くの方は映画やドラマなどで、ラストシーンがかなり悲惨なものだと思っているかもしれない。例えば抗がん剤の副作用でゲーゲー吐き、何も食べられず、痛みと苦しみでのたうちまわる――。
しかしそれは昔の話で、今はそんなことはほとんどない。
なぜなら、そういったラストシーンでの苦しみを取り除く治療がかなり発達し普及したからだ。この治療のことを、痛みや苦しみをやわらげるという意味で「緩和ケア」という。

https://news.yahoo.co.jp/byline/nakayamayujiro/20170623-00072448/

という部分に注目した。
 数年前にぼくの親しい人が、若いうちにがんで亡くなっていたからである。
 その人の毎日の病状を見ていたわけではないけども、亡くなる直前の病床を見舞った時に相当に苦しそうだったので印象に残っていた。


 ゆえに、がんの「ラストシーン」は、少なくとも若いうちのそれは相当に苦しいものではないか、という刷り込みがぼくにはある。


 フツー『ガンカンジャ』(KADOKAWAアスキー・メディアワークス)1巻を読んだ時も、がんの苦しみや孤独が強く心に残ってしまい、それと戦うことへの不安が募った。
*1

*2

 図1(前掲書p.118)のような苦痛の描写は淡々としたタッチであるがゆえに苦痛が強く伝わってくるし、合間にさしはさまれる図2(同前p.161)のようなタッチは、メルヘンのようなのどかさではなく、むしろうなされてみる夢のようでもあり、闘病中に考える死後の世界のようでもあり、気持ちが暗くなった。(だからマンガとして悪い作品なのではなく、気持ちを揺りうごかすという点では、優れた表現だと感じた。)



はっぴーえんど 1 (ビッグコミックス) そういう「がんの『ラストシーン』」観を持ったぼくが読んで、爽やかな衝撃を受けたのは、魚戸おさむ(大津秀一監修)『はっぴーえんど』(小学館)だった。


 一言で言えば、こういう穏やかな終わりを迎えたい、というこの作品が狙うところに100%的中した読後感を得た。


 才能もあり将来も嘱望されていた大学病院の外科医が、パートナーをがんで失い、そのことを後悔して医者としての生き方を見つめ直し、町で往診を行う在宅診療所の医師として、また「みんな穏やかな気持ちで亡くなっていけるといいなあ」をテーマにする「緩和治療」を行う医師として活動する。

患者さんの痛みを取り、
穏やかに過ごせるように支えてあげる、
高い技術を持っています。
kindle版71/217)

 正直、こう書くだけでいかにもハートフルな、「感動秘話」のようなものが待っているのではないか、と思うかもしれない。
 いや、実際、その通りであった。
 たとえば第1話・第2話で取り上げられるのは、息子夫婦が洋食屋を継ぐべく函館の実家に帰ってきたとたん、がんの「ステージ4」となる話で、意固地で絶望していた息子が「死」や「残された時間」に向き合うまでの変化を追っている。
 しかし、少なくとも本書を買う際にも、読み始めてからも、そして読み終えてからも、そうした「感動のための造作」といったわざとらしさをぼくは1グラムも感じることはなかった。書評を書こうとあらすじをまとめているうちに、その自分の書いた筋だけを見ていたら、なんだか「得体の知れないもの」のように思えてきてしまったのである。作品を読めばそんなことはないのがわかる。


 いや……つうか、図3を見てほしいのだが、これが本作の主人公・天道陽(てんどう・あさひ)のグラフィックだ。相当にまっすぐな、相当に正しそうな、相当に暑苦しそうなキャラクターのように見える。
*3


 ところが、1巻を読み終えるまで、そうした「正しさ」「まっすぐさ」が与える押し付けがましさを、ぼくは一度も感じなかったのである。魚戸もそこは気になったのか、天道に「抜け」を作ろうとしている。例えばこのコマは「熱く」何かを語っていそうに思えるシーンであるが、実はアイドルオタクである天道がそのことを隠して患者家族と話しているシーンである。
 むしろ、このグラフィックは狙ってこうしているのかもしれない。後述するように「正論」によって後悔を刻んでしまった、屈折を描きたいのだから。


 「爽やかな衝撃」と本作に触れた部分の冒頭に書いたのは、緩和医療というものについて、「がん患者は選択によっては、こんなに穏やかに死を迎えることができるんだ」という驚きがあったからである。
 それはこの作品についてもさることながら、緩和医療というものが、科学技術として具体的に患者に何を与えられるのかということをぼくが初めて知ったことによる。


 1巻後半部分は、主人公のパートナーであった理絵が、妊娠が判明した矢先に全身転移のがんであることがわかり、産むことを断念して治療に専念するという話である。
 治療に専念して生存すれば再び生むチャンスはある、という判断。
 これは全く正しいように思える。
 しかし、本当は「産みたかった」というのが理絵の隠された、真の希望だったし、死の直前が苦痛や失望に満ちていた時間だったことを考えると、天道の選択は間違っていたようにも思えてしまう。


 どちらが正しかったのか、読んでいても迷う。
 現実にこの選択を迫られたら、相当に迷うだろう。


 ただ、がんと闘うにせよ、そうしないにせよ、科学的に合理的な結論を下す前の段階で「本人がどのように人生の選択をしたかったのか」ということが尊重されなくてはならない、というメッセージが本作から強く伝わってくる。(他方で、そうは言っても、抗がん剤を用いてがんと闘おうという人や家族が読んだときに、これをどう思うのかは、気になるところではある。)


 「死」とどう向き合うか、それによってどういう「生」を選択するか、というテーマは、本来仏教のような宗教が扱うテーマであった。
 ちょっとした病気があっという間に死につながった近代以前の社会では、このテーマについて科学技術を用いずに考えることはまさに宗教以外に出番はなかったであろう。
 しかし、医療技術が飛躍的に進歩した現代では、多くの人は「死」を具体的に意識せず、したがって区切られた死までの期間をどう生きるかを切実に考えることは日常的には、ない。
 余命を宣告されて初めてそのことを具体的に考えるようになるが、宗教というツールを失った人たちはそこで何を骨組みにして考えていい分からなくなってしまう。
 それを、痛みを和らげる技術とセットにして自分で考える土壌を作ろうというのが、こうした緩和医療であり「緩和ケア」なのかもしれない。*4本作を読んで、そういうことも感じた。


 いずれにせよ、緩和治療とはどういうものか知らない人や、がんがかなり進行した段階では辛く苦しいという選択肢ししかないと思う向きには、読んでみると、「爽やかな衝撃」が訪れるのではなかろうか。

*1:フツー『ガンカンジャ』(KADOKAWAアスキー・メディアワークス)1、p.118。

*2:フツー『ガンカンジャ』(KADOKAWAアスキー・メディアワークス)1、p.161。

*3:魚戸おさむ(大津秀一監修)『はっぴーえんど』1、小学館、11/217kindle版。

*4:ちなみに「緩和治療」と「緩和ケア」が同じなのか違うのか、これを書いた時点ではよく分からないまま書いている。「だいたい同じもの」というほどの認識。