水島朝穂・大前治『検証 防空法 空襲下で禁じられた避難』


検証 防空法:空襲下で禁じられた避難 引き続き朝鮮半島が、軍事的な衝突の危機にある。
 北朝鮮の軍事挑発や核開発を止めさせる努力をつくすことは言うまでもないが、他方の当事者であるアメリカと軍事同盟を結んでいる日本は、国連憲章にそむくアメリカの軍事行動、端的にいえば先制攻撃を絶対に支持すべきではない。支持する表明はもちろん、それを軍事的にサポートすべきでもない。
 これにかかわって、自治体や民間も米軍を軍事的にサポートをしないようにすべきである(港湾・空港・公共施設の利用、運搬での動員など)。
 完全に「日本が米軍の戦争に巻き込まれる」パターンだ。


 以前に述べたことがあるが、重要影響事態法によって、自治体は先制攻撃戦争をサポートしてしまう危険がある。「違法な先制攻撃戦争のサポートは絶対にしない」と自治体は宣言すべきである。

自治体と戦争法案のかかわり - 紙屋研究所 自治体と戦争法案のかかわり - 紙屋研究所

 米軍の先制攻撃によって始まる場合はもちろん、現在の軍事緊張の中で北朝鮮側が「先に」ミサイルなどの攻撃を行い、それが日本にも来る可能性はある。
 すでにいくつかの自治体では、「国民保護計画」にもとづいて「準備」をしているようである。

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「騒ぎすぎ」なのか?

 こうした「訓練」に対して「騒ぎすぎだ」というタイプの批判をする人がいるが(ぼくと同じ左派陣営に少なくない)、そういう批判は戦争の危機を正面に見ていない。ミサイル避難などに自治体が取り組むこと自体を「騒ぎすぎ」だという角度から反対する人もいるが、ぼくはこの理屈立てはおかしいのではないかと思う。「大したことないんだから、何もしなくてよい」ということになるからだ。


 むしろ、「国民保護計画」や住民を動員する避難訓練が、リアルな想定を本当にしているのかどうかを自治体に問うべきではないか。

北朝鮮がミサイルを発射する可能性は、ゼロではない。住民の避難訓練に協力してほしい」
 今月24日、福岡県の危機管理担当者が吉富町役場に電話をかけた。
 県は5月28日、同町で自然災害を想定した1300人規模の防災訓練を実施する。住民の防災意識が高まった状態で、ミサイル想定の避難訓練を行えば、より効果的だと県は判断した。
 ミサイル発射を想定した訓練は、平日に実施する。

http://www.sankei.com/region/news/170426/rgn1704260010-n1.html

 自然災害と同じ地平でミサイル被害を考えようというのである(一応違う訓練にするようではあるが)。


 自然災害とは規模も態様も異なる武力攻撃を、同じ次元で考えることは、武力攻撃のリアルを忘れ、結果的に軽く扱うことにつながる


 例えば福岡市の「国民保護計画」では、核攻撃が想定されている。
 その場合、「近くの堅牢な建物・地下施設等」への避難が指示されている(下図は「福岡市国民保護計画」より抜粋)。


攻撃当初は爆心地周辺から直ちに離れ、近くのコンクリート建築物等の屋内へ避難

http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/1311/1/keikaku27.pdf

空襲の威力を軽々しく見る

 これを読んで、水島朝穂・大前治『検証 防空法』(法律文化社)を思い出した。防空法は1937年に成立し、空襲に備えてどのような防空体制をとるかを定めた法律である。『検証 防空法』は、防空法によって逆に国民が消火などの作業を義務づけられ、避難を禁じられることにより、被害を逆に拡大する作用を果たしたことを明らかにしている。


 「逃げずに火を消せ」という問題とは別に、防空法をもとにした政府の手引きや指示、役人のコメントには、空襲の威力をあまりリアルにとらえていないものがいくつも見られる
 例えば政府発行の公式冊子『時局防空必携』(1941年初版)には「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」「黄燐焼夷弾が飛び散って柱やフスマに附いたときは速やかに火叩き等で叩き落として消火する」「火災になったら 隣家が火焔をかぶっているときは、バケツ、水柄杓、水道ホース等でその場所に水をかける」などが指南されている。


 同冊子が改訂版では「さらに非科学的に」なったとして、『検証 防空法』では厳しい批判を加えている。

 これは、焼夷弾の威力を余りにも過小評価した記述である。焼夷弾が屋根に止まったら棒で突き落とすか、天井裏に落ちていないか注意するなどと指示されると、焼夷弾とはその程度のもの」、「落ちていても気付かない程度のもの」であるかのような誤解が生じる
 実際には、焼夷弾は、悠長に水をかければ消えるというものではない。焼夷弾が落下すれば周囲は直ちに火の海になり、こんな牧歌的な消火活動では太刀打ちできない。
 また、エレクトロン焼夷弾に水をかけるとマグネシウムと反応して燃焼が強まってしまう。したがって「筵類を水で濡らしてその上に水をかける」という対処法は、かえって危険を生じさせる。
 空襲の危険性を強調しすぎると市民が逃げ出してしまう。危険性を否定すると防空準備がおろそかになる。そのため、空襲の可能性があるが焼夷弾を消すことは容易であると思わせることによって、空襲から逃げ出さないように虚偽の情報を流布したのである。(水島・大前p.89、強調は引用者)

 さらに、内務省防空局編『防空待避所の作り方』(1942年)には、防空待避所を自宅や職場の地下に作るよう指示していた。そこには、

外にいるより家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考へます。

床上よりは位置の低い床下の方が安全です。

などの記述がある。『検証 防空法』はこれを批判して次のように言う。

床下に穴さえ掘れば周囲の土や床板に守られて安全というが、爆弾や焼夷弾の威力は、一枚の床板で遮ることはできない。〔この手引きの発行の――引用者注〕二年前の「指導要領」とは異なり通風換気も考慮されていないので、頭上の建物が延焼すると直ちに酸素不足になり窒息死してしまう。(同前p.142)

 驚くのは、内務省は、直前にあったスペイン内戦の教訓から、空爆によって地下室への避難者が多数埋没して犠牲となり、「当初の考え〔地下施設への避難――引用者注〕が如何に無根拠であったかが立証された」とまで記した報告書を出していたことである。(同前p.146)

“それしか方法がないじゃないか”への批判

 こんなんで、「防空」なんてできんの? という疑問は当時もあった。
 帝国議会で水野甚二郎という貴族院議員が、防空体制の否定ではなく、これマジで役に立つの? という立場から聞いている。

全焼ヲ待ツヨリ外ニ仕方ガナイノヂャナイカト思フノデアリマス。

 これに対して内務省防空局長が答弁しているのだが、水野が例示したバケツリレー訓練のような原始的方法などのことを指して

アレ以外ニ方法ガナイノデアリマス。

と答弁している(1941年11月17日貴族院特別委)。
 バケツって、これでマジで防空できるわけ? ただ燃えるのを見てるだけだろ、と聞かれ、いやそれ以外に他にねーじゃん、と開き直っているのである。
 「それしか方法がねえじゃん」「やらないよりマシ」という弁明は結局その前提(空襲になれば必ず甚大な被害が出る)を問わない思考に、人を導いてしまう。


 では役に立たない消火方法を命じることで、何が狙われたのか。
 『検証 防空法』では、3点をあげている。
 一つはムード作り。臨戦態勢意識を植え付けるためである。
 二つ目は、「空襲を受けるほどに日本軍は弱い」という反軍意識形成をさせないため。「どうやっても空襲はあるのだ」と早い時期から言っておくこと。
 三つ目は、隣組による相互監視の網をつくること。

「なんとかなるだろう」程度の認識で戦争被害に備えさせること

 ひるがえって、「福岡市国民保護計画」に立ち戻る。
 核弾頭が使用された時に、「近くの堅牢な建物・地下施設等」に避難することでリアルに見て被害は防げるのか。それとも「それしかねーんだから仕方ねーじゃん」と防空局長のようにいうのだろうか。
 広島・長崎で落とされた原爆のような状況を想定して、町内会や自主防災組織に対して、大量の負傷者が出た状況でしかも鉄道や輸送手段が破壊された場合、どのように負傷者を移動するか、歩いて数十キロ移動するのか、担い手が半分以上壊滅した状況でそれをどう対処するか、数千の負傷者を見捨てるか、トリアージするか、訓練するよう求める必要はないのか。
 他にも、例えば、よく言われるように原発が狙われる恐れがある。
 原発を停止して、核燃料を「わからない山中」「万が一攻撃されても被害が少ない地下施設」に隠しておく必要はないのだろうか。*1


 結局、こうしたリアルさを直視しない「国民保護」というのは、戦時中の防空法体制と同じで、北朝鮮の軍事的脅威とともに、アメリカがそれに軍事対処、とりわけ先制攻撃する恐ろしさに対して、結果的に「その程度のもの」という認識をどこかに植え付ける。「平和ボケ」させるのである。


 「なんとかなるだろう」程度の認識で戦争被害に備えさせることは、「いざとなればアメリカが武力でなんとかしてくれる」という前提をつくりだし、覚悟を問わないまま戦時体制に国民を組み込んでいく。それは戦時中に防空法体制が国民を臨戦態勢に組み込む役割を果たし、そもそも空襲をおこさない外交や選択肢はなかったのか、という前提を眠りこませたのと似ている。


この世界の片隅に 上 (アクションコミックス) 呉空襲を描いた『この世界の片隅に』で、空襲をした「敵機」は、日常に突然侵入してきた「天災」のように見える。実際にそのような意識がリアルだったのだろう。主人公・北條すずが、町内会の会合に出て焼夷弾の火の消し方を学ぶとき、あるいは空襲を見ていて死んでしまい町内会によって見せしめとして片付けられないままの死体のそばを通り過ぎるとき、あるいは実際に焼夷弾の火を消すとき、「前提」は問われない。もし当時の国民が中国侵略から手を引く政治を選択できていたら、あるいは明確に侵略を選択し、その結果の責任を引き受けていたのなら、また意識は違ったのかもしれない。
 余談になるが、町内会=「自主的に地域の問題を解決する組織」というものは、一歩間違えば前提を問わない思考方法を強要する「装置」になりかねない。社会保障の貧困ゆえに起きている問題を町内会が「肩代わり」してはならないし、またできもしないのに、その貧困の根源に迫らずに例えば「こども食堂」や「無料塾」で「満足」してしまうような発想を実にたやすく生み出す。 前提が問われないまま、「なんとかなるだろう」程度の認識で戦時体制を準備してしまうことは、外交解決を真剣に模索する国民世論形成を眠りこませる役割を果たすに違いない。同様に「騒ぎすぎ」だという批判をする向きも、やはり戦争の危険に正しく向き合っていない。
 学校や住民に対してミサイルを想定した訓練や備えをさせる通知を行政が出したりしているが、それに対する批判は、「騒ぎすぎだ。備えをさせるな」ではなく、「核攻撃を含めたミサイル戦になれば、甚大な被害になるから、何よりも米朝どちらの軍事攻撃も絶対支持をしない宣言を自治体として行え。そのために重要影響事態法に関する非協力をせよ」とまず指摘することだ。次いで「国民保護計画の攻撃の想定があまりにも軽すぎる。どれほど甚大な被害が出るかを誠実に公表し、そのための備えができるかどうか、住民に考えさせよ」というべきではなかろうか。


 これは原発の住民避難計画の想定と似た問題である。
 もともと3.11前の原発事故想定はあまりにも規模が小さすぎて(事故範囲は10kmを想定、訓練参加住民は3km圏内*2)、全く役に立たなかった。事故対応をするオフサイトセンターが福島原発に近すぎて機能停止になったことや、病人などの避難計画は考えられておらず多数の関連死を生み出したことを思い出せ。
 本来、原発の稼働には、250kmの被害を想定し、全ての住民の避難計画が作成されることが前提となるはずである。見直しがされた現在ですら30km圏にとどまり、その中でも要援護者などの避難計画はロクに立てられていないまま再稼働が行われているのだ。

菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』 - 紙屋研究所 菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』 - 紙屋研究所


 3.11前にも住民を巻き込んだ原発災害の避難訓練*3は行われていたが、「事故といってもその程度のもの」という認識を住民に植え付けたことを想起すべきだ。


 米朝が軍事攻撃をした場合、ミサイルや核が日本に打ち込まれたら住民は避難できるのか?
 できないなら、自治体は軍事攻撃に反対すべきだし、問題を軽く扱って被害を拡大してしまうような「国民保護計画」など発動すべきではあるまい。


 ぼくは、朝鮮半島危機について誰に理非があるかという問題をこえて(つまり「北朝鮮が悪いのだから武力で威嚇するのは当然だ」式の思考はとらない)、とにかくあそこで武力衝突が起きれば甚大な被害が出るのだから、悪いのが誰であっても、正義がどちらにあるにしても、緊張を高めて一触即発の事態を招くようなことはすべきではないと考える。*4

*1:念のためにいえば、理屈の帰結としてそうなるという話。ぼく自身は、そうすることがベストだと言っているのではない。

*2:「あれは訓練というより演劇のようなものでした」「訓練は、朝始まって、お昼ごろになると帰れたんです。炊き出しのおにぎりを配るころには終息宣言が出て、お疲れさまでした、となる。それくらい早く終わると思っていたから、三キロ圏内の住民には長期の脱出の用意がなかった」(烏賀陽弘道原発難民』PHP新書)。

*3:平成 20 年度原子力総合防災訓練 報告書http://www.meti.go.jp/committee/materials2/downloadfiles/g90427c11j.pdf

*4:微力ながら、先日内閣総理大臣宛に請願も行った。