宮崎駿監督「君たちはどう生きるか」の冒頭シーンについて、ほとんどの論評や感想はあれを空襲として捉えているのだが、一部に「空襲ではない」という意見がある。ぼくの感想に対してもそのようなコメントをしている人がいる。
ぼくは現時点で確言できるような証拠を持っていない。
すでに2度は見ていて、もう一度映画が見られればいろいろ確認できることもあるが、現状でもう一度見にいくつもりはないので、その範囲の「うろ覚え」で。
だから「結論は変わりうる」いう前提で、でも「やっぱり空襲じゃないだろうか?」と感じている「根拠」をメモしておきたい。*1
(1)筋の自然さ
冒頭の印象的なサイレンは「空襲」以外にあるだろうか?
実際に、戦時下の空襲警報とそっくりである。
また、単なる「火事」をこのようなサイレンで映画の冒頭に印象づけるものだろうか。戦時下であることは後で明瞭となるのに、あのような印象づけをするならば、視聴者にわざわざ誤認を誘っているようなものだ。
さらに、主人公・眞人が「火事」の現場に出かけていくけども、現場の住民の混乱ぶりが、あまりにも激しすぎる。一般的な火事なら野次馬がいてもいいような気がする。
また、当時空襲警報とは別に、火災のサイレンを地域全体に鳴り響かせるということが史実としてあったとは思えない。もちろん「東京の地域において火災のサイレンは戦時中も、空襲警報とは別に存在した」という歴史的事実があれば、ぜひ知りたいところである。
眞人が疎開する直前の戦車の行軍、田舎で出征軍人と出会うシーン、「奪い合い、殺し合う世界」というセリフなど、「戦争」の色合いをこれほど濃くしておいて、母親だけ空襲でもなんでもない「火事」で死ぬというのは、不自然ではなかろうか。
つまり「筋の自然さ」としてあれは空襲警報だろ? ということ。
まあ、これなどは「こんなの『根拠』じゃねえよ。単なるお前の『お気持ち』だろ」と言われても仕方がないかもしれないけどね。
(2)年代の問題
年代に関わるセリフやナレーションが映画には出てくる。もう一度観に行く機会があれば詳細に確認できるのだが、うろ覚えで。
下記のブログは映画公開前の記事だ。ここでは次のような記述がある
宮崎駿が宇都宮空襲の体験者であることから、映画『君たちはどう生きるか』冒頭「cut20」に描かれている「火事」は「空襲によるもの」と速断したくなるかもしれない。しかしここで立ち止まって考えてほしいのだが、宮崎駿も『雑想ノート』に描いているように太平洋戦争が始まるまでは日本本土に爆弾は落とされていない。映画が日中戦争初期から始まる前提で考えると、「火事」は「空襲によるものではない」と判断するのが穏当だと思う。(強調は引用者)
この記述は、映画を見ておらず、事前に入手できた資料などから推察している記述であることに注意する必要がある。このブロガー(紫の豚)は吉野源三郎『君たちはどう生きるか』との連続性を踏まえて
映画『君たちはどう生きるか』の時代設定は「昭和12年(1937年)」と考えられる。
としているからだ。当然、1937年前後の日本はまだ空襲を受けていない。
しかし、今回映画ではこの「昭和12年(1937年)」という設定を用いなかった。母親が亡くなったのは、「戦争が始まって3年目」とされていた気がする。
1941年12月8日にアジア・太平洋戦争が勃発するから、
1年目:1941年12月8日〜1942年12月7日
2年目:1942年12月8日〜1943年12月7日
3年目:1943年12月8日〜1944年12月7日
という計算になる。
つまり「3年目」は大半が1944年ということになる。
東京大空襲は1945年3月10日なので、ここには当てはまらない。そして、東京大空襲の描写としてはいささか「のんびり」しすぎている。もちろん、1942年に日本に接近した米空母から発艦した爆撃機が東京などを空襲したいわゆる「ドーリットル空襲」でもない(同空襲は昼間だし、「3年目」という計算と符合しない)。
米軍は1944年にサイパンを陥落させ、同年11月には空襲に成功している。
今ぼくの手元には、このときの空襲については(ウィキペディアくらいしか)資料がないが、清沢洌『暗黒日記』から東京における1944年11月29〜30日の空襲について記しておく(岩波文庫版、p.247、強調は引用者)。
十一月三十日(木)
午前一時頃、空襲警報で書庫に赴く。「京浜上空に敵機なし」というのでベッドにもぐり込む。続いて空襲警報があったので、そのまま寝込んでしまう。眼をあくと午前八時。
富士アイスの重役会に赴くと、今暁来の被害の多かったのに驚く。東洋経済の後方は火事で焼けた。日本橋の三越前方も然り。盲爆だ。
空襲警報があって被害はそれなりに大きかったが、少し地域を外れるとそのまま寝てしまうという程度の「臨場感」が分かるであろう。さらに空襲の火災を「火事」と表現していることも注目される。
なお、『暗黒日記』を読むとこの後、1944年12月は毎夜のように空襲が続くことがわかる。
主人公・眞人らの服装は夏のようにも見えるが、秋や冬のようにも見える。よくわからない。11月と決めて全く不自然ということはなかろう。
そこから田舎へ疎開する間を「1年」としていたような気がするが、はっきりと1年経ったら1945年11月となって戦争が終わってしまう。
また、これもうろ覚えなのだが、田舎に疎開した後で眞人の父親がサイパンの陥落について話すシーンがある。サイパンは実際に1944年7月には戦闘がほぼ終わっており、日本でも同時期に全滅が報じられている。
眞人の父親がこの時初めてサイパン陥落を知ったということであれば、この時が1944年7月ということとなるが、そうすると「戦争が始まって3年目」と「母親が死んでから1年」という計算が合わなくなってくる。*2
映画でもう一度父親のセリフを確認したいが、父親は映画で言及した時に初めてサイパン陥落を知ったのではなく、サイパンの陥落について単に振り返りをしているだけと受け取るほうが自然ではなかろうか。
そこで「1年」を「だいたい1年」「次の年」「実質数ヶ月」と解釈してみる。また、サイパン陥落は眞人が田舎に移ってから起きたのではなく、父親の一般的述懐だと捉えてみる。
そうするとぼくの考えでは、母親が死んだのが1944年11月、眞人の父親が母親の妹(ナツコ)を「後添え」と決めて性交渉をしたのが1944年12月ごろとして、ナツコのお腹が目立つようになったのを5ヶ月とすれば、眞人が田舎に行ったのは1945年の5〜7月ごろではなかろうか。
(3)鈴木敏夫の証言
この映画に関わって、ジブリのプロデューサー・鈴木敏夫が次のように「週刊文春」のインタビューに答えている(強調は引用者)。
夏目漱石、昭和初期の東京など、2人の話は尽きなかったが、中でも戦争体験は大きなテーマだった。半藤氏は1945年、14歳の時に東京大空襲を体験し、宮﨑氏も4歳の頃に別の空襲に遭っている。…
今回の作品では、空襲を想起させる場面があるなど、随所に半藤氏との対話で交わされた内容がちりばめられていた。果たして対話の影響があったのか、取材を申し込むと、鈴木敏夫プロデューサーが応じた。
――戦時下の空襲を想起させる場面があった。
「宮﨑駿の4歳の時の実体験が大きい。空襲の最中、家族と親戚のおじさんらと共に車で逃げまどった体験について、何度も語っている。半藤一利さんにも語っていたと思う」
鈴木は「あれは空襲ではありません」という類の否定をせず、むしろ空襲の体験が反映していることを積極的に認めている。
というわけで、ぼくは冒頭の母親の死は「空襲によるもの」と思っている。
ただ、「そうではない」という論証や証拠を提示してもらうのは歓迎したい。