かたおかみさお『ヒビコレ 公民館のジョーさん』

よのなかの人の「公民館」のイメージは弱い

 ぼくの「公民館」の長い間のイメージは「町内会の寄り合い場」だった。
 ぼくの生まれた集落に「公民館」と称する建物があり、30畳ほどの平屋だった。ここは、町内会の寄り合い、子ども会のイベント、村祭りの準備などをしていた。
 しかし、公民館とは社会教育機関である、ということを30代も半ばになってからぼんやりと知った。
 さらにその後、公民館の扱いをめぐり「オトナの教育・勉強の場」という流れと、「地域の集まりの場」という流れのせめぎ合いとして、激しいバトルがあったことを知った。
 そして、さらにその後、地域によって「公民館」と呼ばれるもののあり方が実に多様であることを知ったのである。その中で、自分が生まれた田舎の「公民館」がどういうものだったかのかも、知ることができた。なぜそれが、今ぼくが暮らしている九州の「公民館」とはかけ離れているのか、ということも。


 要するに、公民館とは何なんだ?


 本来の姿からいえば、地域のオトナがみんなで学んで地域の課題をかしこく解決する場、であった。
 だけど、「学んで」だけの部分がどんどん一人歩きしてカルチャースクールみたいになってしまうケースや、「地域のオトナが集まる場」の部分が肥大化して「町内会や地域団体のたまり場」みたいになってしまうところが生まれている……という感じだろうか。
 ぼくなりに何冊か本を読んで考えた結果は、以下のエントリーに書いてあるので、興味のあるヒマ人は読んでみてほしい。

片野親義『公民館職員の仕事』 - 紙屋研究所 片野親義『公民館職員の仕事』 - 紙屋研究所


 だけど、まあ、分かりにくいんだよな
 公民館ってこういう場所だ、というあらかじめのイメージが


ヒビコレ 公民館のジョーさん(1) (ジュールコミックス) それなのに、マンガ『Good Job〜グッジョブ』で有名なかたおかみさおは、無謀にも公民館マンガを描こうとした。それが『ヒビコレ 公民館のジョーさん』(双葉社)である。
 今「無謀」と書いたのは、公民館についてのイメージがみんなの中にさしてはっきりしていないから、そのイメージを覆す対立を作り出すようなマンガ・ドラマは難しかろう、という意味である。しかし、かたおかはこの無謀に、別の形で挑んでみせる。

「公正」vs「親身」

 『ヒビコレ』は、公民館(区民館)職員のマンガだ。主人公の大野城灯(おおのじょう・あかり)は「ジョー」とも「あかり」とも呼ばれる。登場人物の苗字がなぜか福岡県の都市名ばかりなのであるが。公民館で起きる出来事を描いているが、次第に主人公の家庭事情が重なっていく。重なりかけたところで、連載が終わってしまった。

どうすれば人物たちが動き、プロットが転がっていくかというと、どのドラマでもそうですが、まず「対立」を作ることです。対立のないところにドラマは生まれません。(山本おさむ『マンガの創り方』p.84)

というセオリーに従えば、本体公民館をめぐる矛盾と対立は、「地域のオトナが集まる場」vs「町内会や地域団体のたまり場」のはずであるが、もちろん、そんな社会科学的構図をここにナマで持ち込んでも面白くもなんともない


 かたおかがこのドラマのドライブにしようとした対立は、「公民館職員=公務員としてかっちりしたルール」vs「住民同士のフレンドリーな、なあなあの付き合い」である。
 一見すると、これは対立構図にはなりにくい。
 なぜなら、後者の方に分があるように思えるからである。
 前者は四角四面・杓子定規・機械的・官僚的ということにしかならないように見える。


 じゃあ、言い方をかえよう。
 「公正」vs「親身」。別の言い方をすれば「杓子定規」vs「不公正」である。


 例えば、本作には、火事が起きて被災した住民のもとに、みんなの自発的な寄付でさまざまな物品が集まったエピソードが出てくる。
 初めはジャーをくれたこと。それはありがたかったのだが、次第に「不要品」のようなものしか来なくなり、カビだらけのワンドア冷蔵庫を取りに来させたり、タバコも吸わないのにバカ重い灰皿を押し付けられ、被災したお母さんは「こんなモノいらない! モノなんかよりお金くれればいいのに」とついつぶやいてしまったのである。
 これが噂話となって「金の亡者」のような扱いをされたこの被災一家は、引っ越し……。
 ここには、「住民同士のフレンドリーな、なあなあの付き合い」が次第に増長して、「不公正」へと変容していく様が描かれている。


 そこに公正のメスを入れようと思えば、「不要品」を送らないようにさせることは一つの選択肢である(さばくことやストックをする資源がない前提)。作中で出てくる「客用小鉢のセット」などは、まず「送るな」という方が賢明だろう。また、「お客様用小鉢セット」をストックさせる余裕など普通の自治体にはないはずだ。
 しかし、本当のところは、その被災者に聞かねばわからない。
 ジョーはここで「公正」と「親身」の統一を図る。
 アウフヘーベンさせるのである。
 すなわち、仲介者となって「要るか要らないかを聞く」ということである。

 右図のセリフに作者が傍点を打っているのは、この対立と統一を意識しているからである。*1


 公務員が「仲介者」となることは、普通は難しかろう。
 そこをやってしまうのが、「公正」と「親身」の揚棄、主人公・ジョーの本領なのである。


 この対立の弁証法的統一がテーマであることは、ジョーの次の一言が、大きめの、注目させたげなカット(下図)で示されていることからもわかる。*2



 この対立構図は、町内会のようなコミュニティにとって必要な「近所づきあい」という親密さと、行政が関わることによって引き起こされる「公正」という対立の問題そのものである。拙著『“町内会”は義務ですか?』や『どこまでやるか、町内会』などでも書いたのだが、町内会のような組織は、住民の任意団体であり、本来顔が見える範囲での組織なのだから、もし町内会長や会計係を「顔」で信頼できれば、面倒な総会だの会計報告だのは必要ないとさえぼくは思う。「飲み食い」に会費を使うのも、それが親睦であり、おおっぴらに、しかも誰でも参加OKのようなオープンな形でやれば別に問題ないように思う。
 無政府主義者伊藤野枝は、福岡の自分の郷里にあった「組合」(今でいう町内会)のことを思い出し「無政府の事実」という一文を書いた。必要な時に住民は集まり、納得するまでみんなで知恵を出して解決に当たる。規約だの会計報告だのは一切ない。必要な時に金を出し合い、飲んで食って、あまりはメンバーの一人に預けてしまう……という事実が書かれている。
 コミュニティが持っているなあなあさ、親密さとは、そのような柔軟性に通じている。融通無碍に課題へ対応できるだの。
 しかし、所帯が大き過ぎるうえに、事実上の強制加入で会費を払わされ、さらにそこに行政の補助金のようなものが入り込んでくれば、そういうことでは済まなくなる。行政的な「公正」が持ち込まれざるを得ない。
 近代社会ではどうしても「公正」と「親身・親密」は対立していく。
 この構図を扱うことは、コミュニティを描く際に、実に琴線に触れるものだ。

『Good Job』の深み

Good Job グッジョブ 全7巻 完結セット (講談社コミックスキス) しかし、この作品は、結論から言えば失敗作、いや挫折作である。
 面白くないから失敗、というものではなく、実は非常に野心的な展開を考えていたが、連載が終わってしまったために、それが果たせなかった、というのが真相ではなかろうか。だから「挫折」。

 どういうことか。


 ぼくがずいぶん前に書いた記事にもあるように、

かたおかみさお『Good Job〜グッジョブ』 かたおかみさお『Good Job〜グッジョブ』

職場のトラブル解決を軸にした『Good Job〜グッジョブ』で見せた、かたおかのすごさは、ありきたりな「1話解決モノ」にしないことであった。
 というのは、『Good Job』のような職場のトラブルを物語のモチーフにすれば、1話ごとに人間関係をめぐる行き違いや紛争のエピソードをちょっと出して、主人公などが気の利いたことを言う・やる、などして終わり……といった、現代の寓話、「イソップ物語」のような形式を採用してしまいがちである。
 「女性事務職員版水戸黄門」。
 ところが、『Good Job』は途中からそういう枠組みを崩し、一人ひとりが抱える事情をもっとクローズアップしようとした。

 ところが3巻以降、様子がかわる。上原*3はもちろんいつでも物語のカナメにはいるのだが、やや後景にしりぞき、それぞれの登場人物がかかえている「事情」というものがクローズアップされてくる。
 ぼくとしては、物語のトーンが急に深みを増してくる印象をうけた。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/goodjob.html

 5巻の美人女子社員・小久保の一連のエピソードは圧巻である。
 美人ゆえに受付や人事などの華やかな場所にいたが、「自分も営業に落とされるトシになった」とグチをいうのである。ここだけ聞くと、いかにも小久保の改心話がこのあと続くのであろう、という予想ができる。さにあらず。
 物語は小久保という人間のよさをどう受け入れるかという見事な人間解釈を展開し、そのあざやかな反転も小気味よかったのだが、さらに、美人で割り切った性格ゆえの小久保のコミュニケーション不全についてストーリーは深められていくのである。
 小久保がいまのような人格を形成するまでの原体験、といってもそれほど大げさなものではなく、中学生だったときに体験した、いわば「心にささった小骨」のような体験が十分なページをとって描写される。
 そのあとで、入社以来一番心を許していた同僚の真意をふとしたことで知ってしまうのだが、そこからすぐに感情描写にうつらずに、十分なタメをとったのちに、人知れず涙を流す小久保を描く。

 もうこのシーンを読んで、ぼくは不覚にも泣いてしまった。

 そしてこのディスコミは解決されないままの現実として読者に投げ出されることになり、ぼくは、ここでとてもリアルなものを感じたのである。
 「ああ、ほんとうにこういうコミュニケーション不全で傷つけられるってことが、いまの職場には膨大な数の伏兵みたいにあるよねえ」としみじみ納得してしまった。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/goodjob.html

家族という個人の問題と地域を重ねよう・つなげようとする

 『ヒビコレ』も、ありきたりな形式をとろうとすれば、地域が抱えている課題を1話ごとに紹介し、辣腕の主人公があざやかな解決法を示して、教訓めいた一言を残して終わる、……というように、「お手軽に」描けるはずである。


 かたおかは『Good Job』で最初そうしたように、『ヒビコレ』でも読者がなじみやすくするため、1話完結形式のエピソードを採用している。例えばママ友間のトラブル、町内会未加入、新興住民と古参住民の衝突……などといったテーマである。そして、『Good Job』の主人公(上原)のごとく『ヒビコレ』の主人公(大野城)に「問題解決スーパーウーマン」的性格をもたせている。


 しかし、やはり『Good Job』でそうだったように、浅い話に終わらせないために例えばジョーの家族背景を描き出す。引きこもりの異母弟(鷹)を登場させるのである。


ヒビコレ 公民館のジョーさん(2) (ジュールコミックス) ジョーの家族の問題は、一見、まったく地域の問題、公民館の問題とは関係のないトーンとして描かれる。
 「個人的事情」のように見えるのだ。
 一つには、複雑な家庭事情。ジョーと鷹の親は同居しておらず、祖父母が育ててきた。
 そして、もう一つは、鷹の引きこもり。すでに成年に達しているのに、就学も就業もしていない。満足に人付き合いもできない。そして、その引きこもりは、ジョーが「鷹を捨てて」実の母親のもとに行ってしまったから引き越されたのでは…といった憶測が続く。
 しかし。
 パッと見、地域=社会の問題とは関係なさそうな、この「家族の事情」は、本当に関係がないのだろうか。
 本当は、かたおかは、この「家庭の事情」がやがて地域の問題につながっていく・重なっていくことを、描きたかったのではないだろうか
 引きこもっていること。親に捨てられたこと。そういう誰かにとって切実な「個人的事情」が、地域の問題につながっていき、解決されたり、受け止められたりしていく。そこまで描ききる前に、連載が終わってしまったのではないのか。
 町内会やママ友の話もいいんだけど、地域の話題を表面的になでて終わるのではなく、自分にとって深いところと地域社会が重なっていることを示すのが、この設定であったのだろう。
 あまり根拠がないけども、かたおかが一見公民館の話とはややトーンが異なる大野城家の事情を「無理に」盛り込んだことや、『Good Job』での深まりを見てきた者としては、そんなことを感じずにはいられなかった。
 もしそれが実現していれば、なかなかの野心作になったのではないか。
 しかし、それは達成されなかったのである。
 もともとかたおかはここで終わるつもりだったのか、連載が切られてしまったのか、それはよくわからないが。


 そういう意味で大変残念な終わり方の作品であった。


ヒビコレ 公民館のジョーさん(3) (ジュールコミックス) かつて文芸評論家の中村光夫が『風俗小説論』の中で、日本の自然主義文学は、田山花袋の『蒲団』の系統ばかり残り、島崎藤村の『破戒』の系統が根絶やしにされてしまった、と嘆いたことがある。このことは言い換えれば、私小説が「私」の中に閉じてしまい、社会への広がりやつながりと切れてしまった現状を言い当てている。
 もしかたおかが、ジョーの「プライベート」な家庭の事情が、今後地域社会の課題に重なっていく展開を描こうとしていたのであれば、この日本の自然主義の宿痾に対する強烈な一つのカウンター足り得たのであろうが。

 機会があれば、この作品の続きを描いてほしい。

余談

 公民館は無料であるべきだ、ということと、営利関連だから公民館でできない、ということは、ジョーの間違いである。そのことは別の記事で書いた。
 もちろん、そのような「間違い」がこの作品に傷をつけるものではない。

 もう一つ。冒頭でぼくがあげた、ぼくの田舎の「公民館」は、おそらくぼくの田舎が今の市に合併される前の「村」の時代の公民館の一つであろう。戦後すぐに住民が各地で作っていった。
http://www.sagamihara-kng.ed.jp/kouminkan/34tebiki/doc/unei/04.pdf

 益川浩一『戦後初期公民館の実像 愛知・岐阜の初期公民館』(大学教育出版)には、愛知県の西三河地方で戦後盛んに公民館が作られていった様子が描かれている。
 現状では社会教育法42条には「公民館類似施設」という規定があるのだが、強引に位置付ければこれになるが、実態としては、もはやただの集会所に過ぎない。

*1:かたおかみさお『ヒビコレ 公民館のジョーさん』双葉社、1巻、p.129

*2:かたおか前掲書、p.115

*3:「上原」は『Good Job』の主人公。