「ユリイカ 詩と批評」の「特集・こうの史代」に書きました

ユリイカ 2016年11月号 特集=こうの史代 ―『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』『ぼおるぺん古事記』から『日の鳥』へ 「ユリイカ 詩と批評」(2016年11月号)の「特集・こうの史代」に「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」という一文を書きました。今日、出版社から届いていました(ありがとうございます)。


 ぼくにとってスリリングな1冊です。
 なぜスリリングかというと、まさに「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」という問題意識に重なる文章がいくつか掲載されていて、ある部分はぼくの提起と共鳴しあっており、ある部分はぼくに対する批判になっているからです。もちろん、お互いに意図して「共鳴」したり「批判」しているわけでなく、このテーマを意識することによって、当然生まれる問題なのですが。



 特に意識されたのは、中田健太郎「世界が混線する語り」、村上陽子「原爆文学の系譜における『夕凪の街 桜の国』」でした。
 中田では、例えば「『声高ではない』戦争批判であるからこそ素晴らしく」という評価の仕方への引っ掛かりや、「直接経験していないことは表現できない」という解釈についての引っ掛かり、被害者・加害者構図や敵・味方構図の超克のことなどがそれです。
 村上も冒頭から「声高な反戦反核と淡々とした日常性」というタイトルでこうした対比がすでに原爆文学で古くからなされてきたこと、「夕凪の街」の中での示された、従来の原爆文献を踏まえた表現だという作者自身の言葉の紹介などがそれにあたります。


 ぼくが知らないこともたくさんあり、そういう意味でも勉強になったのですが、ぼくがした立論自体は自信がありますので、比較してぜひみなさん自身でどっちが納得できるか、あるいは面白いか、考えてみてください。


 個人的に可笑しかったのは、ぼくが石子順『漫画は戦争を忘れない』(新日本出版社)を戦争マンガの概要的な年代紹介に使ったのと似た手法で、村上も参考文献としてあげていたことでした。石子順のあの本、どんだけ参照されてんだ(笑)。
 また、呉市立美術館で講演したとき、戦争を楽しむマンガと戦争を批判するマンガの違いみたいなことを導入で話したんですが、その時参加者から紹介された吉村和真宮本大人トークイベント「僕たちの好きな戦争マンガ」が、中田の注記で挙がっていたのも興味深いことでした。


 こうの史代西島大介の対談の中で、片渕によるアニメを見たときに、日常を描くための「笑いのオチ」のあるエピソードがわりと残っていたことにこうのが驚くとともに、

むしろもっと重要そうな部分がバッサリなくなっていたのでびっくりしました(笑)。

と述べているのは印象に残りました。
 これはぼくがアニメを見た時の一種の「違和感」でもあったからです。もちろん、映画をみているうちに三度も涙が止まらない場面に遭遇したりして、それは原作を読んだ瞬間(後でじわじわきたものの)には起きなかった反応だなあと思ったりして、そう考えてみると、「アニメと原作は別の作品だからなあ」と思い直したものです。


 居場所の喪失という問題、記憶と想像力という問題は、アニメにも描かれているのですが、原作を落ち着いて読むことによってむしろそこは深まる気がします。
 他方で、日常を描くこと、より豊かに、立体的に立ち上がってくるという徹底性においてアニメが素晴らしい役割を発揮しており、片渕須直の執拗なまでの考証ぶりや「のん」という配役の大成功はまさにこの部分に関わっていることだろうと思いました。