岡田一郎『革新自治体』

どこかで聞いたような…

 美濃部革新都政が誕生した選挙で、美濃部陣営に加わった中野好夫が当時の社会党に対して、それまでの都知事選挙社会党は田川・加藤・有田・阪本の4候補を歴代担いできた)の経過をふりかえって加えた批判は次のようなものだった(中野「革新都政を支えるものは何か」)。

田川、加藤の選挙には全く関係しなかったが、二度の有田選挙、そして前回の阪本*1 選挙には、いずれも多少ながらこれに関係させられた。さてその敗戦後におけるこれら候補者に対する〔社会――引用者注〕党の処遇は、明らかによくなかった。不信義とさえいえると思う。まるで担ぎ出しておいて、あとはポイといってよい形だった。(岡田『革新自治体』p.85に中野の引用)

 美濃部を候補者と選び出すまでに、革新陣営は二転三転している。
 まず、国民的人気があったとされる社会党江田三郎
 江田に都議会が少数与党であることなどを理由に断られ、総評議長の太田薫に話がいく。
 太田は、公明党を陣営に入れることを条件にするが、かなわず、これもポシャる。
 そして、労農派マルクス主義者である鹿児島大学教授の高橋正雄に声がかかるが、これも断られる。
 高橋は代わりに美濃部亮吉の名前を挙げたのである。

美濃部は天皇機関説で有名な憲法学者美濃部達吉の長男で、一九六〇年から六二年までNHK教育テレビで「やさしい経済教室」を担当したタレント学者でもあり、知名度は高かった。(p.80)

 革新陣営の美濃部内定を受け、自民党陣営は鈴木俊一(のち都知事)の内定について動揺する。その結果、民社党が自民・社会に共同推薦を呼びかけていた立教大総長の松下正寿を推すことになった。公明党は独自候補を擁立する。


 どこかで聞いたような話……と思う人もいるはず。
 ぼくは今都政をめぐって起きてることが単純に同じだとは思わない。ただ、かつてこんな騒動が起き、こんな声が上がっていたことを知ることは、左派陣営にとって、決してマイナスではない。そういう声や事態を乗り越えて一時代をつくりあげた美濃部都政ができたのだから。

まず左派が読んでみよう

革新自治体 - 熱狂と挫折に何を学ぶか (中公新書) 岡田一郎『革新自治体』は、まず左派にとって読まれるべき本である。
 戦後から革新自治体の勃興・隆盛・衰退までがわかる。
 特に、有名なエピソードや事実がコンパクトに入っていて、事件ごとのフレーバーが味わえるようになっている。すでに戦後期を通して生き抜いてきた左翼、それどころか革新自治体時代を知っている左翼はもうほとんどいない。そのことがどんな雰囲気や熱狂だったのかということを、コンパクトに本書で知ることができる。
 よくあるように「革新自治体は福祉のバラマキで財政難に陥った」式の分析一色で描き出すやり方とは、一線を画している。
 革新自治体時代の始まりの捉え方や、TOKYO作戦のような革新攻撃、社公合意への注目など、あえていわせてもらえば、左派のうち共産党などの革新自治体(歴史)観に外側はよく似ている。しかしそれにとどまらず、そこを貫く内的な必然性を明らかにしようとしている。つまり革新自治体を成立させ、それを衰退させたものは何かということである。

共産党や左派にとって憲法が「基軸」になった経緯

 この本が明らかにしようとしたその内的必然性にとってキーになっているのは、市民派学者の松下圭一の理想と挫折である。シビル・ミニマム(市民生活を営む上での最小限の保障・水準)を、憲法に基づく民主主義を軸に打ち立てようとし、当初社会党の改革に取り組むが、「ダメだこりゃ」と思って松下は党改革を離れ自治体改革にステージを移す。

革新政党は護憲をスローガンに掲げながら、内心では日本国憲法ブルジョワ憲法と侮蔑していると松下は見ていた。このような「オールド・レフト」から日本国憲法を前提とした社会主義路線、つまりは「ニュー・レフト」に革新陣営も転換すべきだと考えていた。彼がニュー・レフトの理論と期待したのが、江田三郎らが拠りどころとした構造改革論であった(構造改革派は「憲法の枠内での変革」「憲法完全実施」をスローガンにし、日本国憲法を侮蔑した従来の左翼路線とは一線を画した)。(p.44)

 「憲法を暮らしに活かす」的なスローガンは、左派全体、特に共産党系の人々にとってすっかり手放せない、今や基軸ともなった政策的核心であるが、戦後すぐにあった「改悪されるよりはマシ」的な憲法観を転換する上で、松下や構造改革派の問題提起の意味は大きい。
 松下による、「後進国・中進国型革命理論」の批判、現代日本に合った「ニュー・レフト」路線の提起は、他方で日本共産党の反論を生み出した。例えば上田耕一郎の『先進国革命の理論』は、松下との論争によって生み出されたものである。
 つまり松下の提起を受け、周辺の左翼は活気づき、論争が左翼の路線や政策を豊かにさせたということだ。
 こうした論争を経て、今では「憲法の枠内での変革」「憲法完全実施」というのは、今やすっかり日本共産党の革命路線の基本である。それが社会主義革命ではないというだけで、松下の理論を批判し、それを乗り越えようとすることで(論者によっては「共産党が松下と構造改革派の軍門に数十年経って下ったのだ」ということになるだろうが)日本国憲法を前提とした革命路線を生み出した。*2


 現憲法を前提にした改革と革命は、松下、それとの論争、そして革新自治体の経験を受けて、生み出されたものだということだ。
 左派は、この本を注意深く読むことで、そこにある内的な必然性に気づくはずであり、松下が提起し最終的には挫折した憲法完全実施と「シビル・ミニマム」論を、今日的にどう発展させるかをよくよく考えなければならない。
 現在左派系の学者の中で「ナショナル・ミニマムとローカル・オプティマムの組み合わせ」による新福祉国家を構想する意見があるが、それはこのような松下の意見を批判的に継承しようとする試みである。ま、ぼくのやっている町内会論というのも、究極的には、行政がどう「シビル・ミニマム」をつくるかを土台にして、その上に任意制=志願制の市民の文化を花開かせようということでもある。


 この本には共産党社会党の「悪口」もいっぱい書かれているが、そんなことはこの本の価値にとってどうでもいいことである。
 先ほど述べたように、まずはエピソードや書かれた歴史を読むことでコンパクトに時代の流れをつかみ、その時代の空気を味わうこと。そして、革新自治体を貫いた内的な必然性について思いをめぐらすことで、今日の「野党共闘」路線をどう改善し発展させたらよいか、考えるきっかけとすべきである。


個々のエピソードの味わい深さ

 本としての価値について、少し述べておく。


 なんといっても、個々のエピソードは味わい深い。

 しかし、この選挙もまた醜聞が絶えなかった。選挙ポスターに貼らなければならない選挙管理委員会発行の証紙を東陣営が大量に偽造し、ポスターの水増しを行い、自民党本部全国組織委員会の幹部や都教育庁の職員が逮捕されたり(ニセ証紙事件)、「橋本勝」という阪本とよく似た名前の人物が立候補し、後にその橋本勝はすでに亡くなっていたことが発覚したりした(有権者の混乱や判別が困難な票の按分を狙ったものだと噂された)。
 そして、さらなる不祥事が保守陣営で発覚する。当時、東京都議会議長の地位は一年ごとに自民党の有力議員の間でたらい回しにされていた。これは名誉職であるうえに、議長交際費として莫大な費用を自由に使用でき、就任祝賀会で祝儀も集められるため、議長を希望する議員が多かったからである。そして、議長選挙のたびに買収の噂が絶えなかった。(p.76-77)

 都政史に詳しい人には「常識」かもしれないが、今日の都知事選をめぐるスキャンダル報道合戦などが思い出される。

少数与党問題

 また、革新知事の代表格である京都府知事の蜷川虎三

保守系府議を引き抜いて知事与党の純正クラブをつくり、府議会の多数をおさえることに成功した。(p.25)

ということや、美濃部都政について

美濃部がもっとも苦手としたのは、都議会対策だった。一九六五年の都議会選挙で社会党が第一党になったといっても、社会党共産党では都議会の過半数に足りず、七三年に公明党が美濃部与党になるまで、都議会では野党が過半数を占めていたからである。(p.93)

とあるように、革新首長が誕生した場合、まずは少数与党の危険性があることを、くり返し痛感させられる。少数与党だった美濃部がどんな方法でこの困難を打開していたのかは、本書を読んで知るといいだろう。

青少年健全育成条例と革新自治

 蜷川が青少年健全育成条例の制定に最後まで反対した知事だという紹介のくだりも面白い。「仮に学校で生徒同士がキッスしたっていいじゃないか、それだけ成熟してんだから」という蜷川の著作からの紹介が、蜷川の思想を端的に示す。
 また、東京では自民党都政(東知事)の時代に青少年健全育成条例が採択され、「不健全図書」の指定制度が導入された。

しかし、一九七二年の美濃部都知事の誕生で都の姿勢は一転、謙抑的となったという(長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか』)。(本書における長岡の引用は本書p.89)

 本書の著者である岡田がこの問題をわざわざ紹介しているのは、もともと岡田が自治体問題に関心を持つきっかけが、先の青少年健全育成条例の改定で運動に加わったからであろう。今回の都知事選で、マンガ規制に歯止めをかけるかのような期待で自民党の小池などを支持している一部のオタクがいるのは、笑うべき迷妄というほかない。


革新自治体時代はいつから始まったのか

 多くの人にとって関心のない問題かもしれないが、「革新自治体の時代がいつから始まったのか」は個人的に興味のあることだった。
 というのも、1950年代に社会党や社共の枠組みで首長が誕生しており、あれらをどう扱うのかということ、特に古くから誕生していた蜷川府政を「革新自治体」の流れから見るとどう考えたらよいか、はっきりしなかったからである。
 これについて、本書では、1950年代の社会党・社共系首長の誕生についてこう書いている。

医師会や農協といった団体が、国政与党を支持するという構図が、当時〔1950年代――引用者注〕は確立されておらず、地元の諸団体を味方につけられる候補を擁立すれば、社会党も知事選挙で勝利をおさめられたのである。(p.20-21)

一九五〇年代後半には農協、社会党労働組合が協力して保守系候補を破るという、いわゆる労農提携によって知事選挙に勝利するパターンが続出した。(p.21)


 そういうことだったのかと知った。*3
 また、美濃部都政を革新自治体の時代の始まりと見るのか、それ以前(1960年代前半)と見るのかという議論があり、著者の岡田は美濃部都政の誕生をその画期と見ている。これはぼくの実感とも一致する。


 このような「小ネタ」で刺激・触発されるものが本書には無数にあるのだが、いちいちそれを紹介することはできない。まずは本書を読んでみることをお勧めする。


自民党の絶対得票率が長期的に低落しているもとで

 最後に、政党の組み合わせからみた革新自治体論について触れておく。
 本書では、自民・社会という二つの政党の間隙を縫って、公明党共産党が大きくなっていった「多党化」について次のように触れている。

 このような多党化のあおりを受けたのは、自民党社会党であった。大都市型選挙区では一九六〇年代に自民党社会党の得票が急速に低下する。一方、非都市型選挙区では自民党の低下はゆるやかで、社会党の得票率はほとんど変わらなかった(石川真澄『戦後政治構造史』)。このような現象は、主に公明党共産党の支持基盤が都市部にあったからだと考えられる。
 この傾向は、もともと都市型政党であった社会党の衰退を招くこととなった。農村型政党であった自民党は非都市型選挙区で、ある程度の議席を確保できたため、六〇年代は党勢低下が目立たず、時にはライバルの社会党の衰退に助けられて国政選挙で議席を増やすこともあったが、絶対得票率は総選挙ごとに低下していった。(p.16-17)

都市部における自民党の衰退は激しく、自民党単独での勝利は困難になっていた。そのため、他の野党と協力するか、あるいは他の野党が自民党と協力するのを阻止すれば、社会党にも勝利の可能性があったのである。(p.16)

 長期的に自民党の絶対得票率の低下によって、単独過半数が困難になっているという事態は、今日でも基本的なベースの情勢である(現在一瞬回復しているが)。そのもとで、公明党自民党側につくことでこの困難が基本的に「解消」されているという事態ももう一つのベースとなっている事情である。


 民進党が健全保守政党となり、自民・公明連合を超えていく、という方向には現実性がいよいよ乏しい。オルタナティブとして野党連合が政権合意に進み、異なった政党の間での共通政策の創出という文化へと進まない限り、未来はない。
 前のエントリでも書いたように、そこに至るまで引き続き「雑音」は聞こえ続けるだろうが、一つひとつ乗り越えて、新しい政治文化をつくることに邁進すべきである。

*1:原文は「坂本」という誤記が「ママ」と仮名をふられて表記されている。

*2:なお、現憲法を侮蔑せず尊重する政策や政治態度はすでに革新自治体時代以来、共産党の体質になっていたが、共産党が綱領上この路線を完成させるのは実に2003年の綱領の抜本改定の段階である。

*3:念のため言っておけば1950年代の社会党系首長の誕生はこれで説明されるが、蜷川府政もそうだったというふうには書かれていない。