速水螺旋人『大砲とスタンプ』

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫) 大西巨人神聖喜劇』を読んでいると、軍隊が法令でかんじがらめになっていることがよくわかる。
 『神聖喜劇』の主人公・東堂太郎は、軍隊で死ぬことを思い定めてきたはずだったのに、目の前にある不条理に次第に闘争心を起こしてしまう。その際の武器が軍隊内の規則と法令であった。


特種の法治主義的・制定法主義的領域と私が考える軍隊兵営で、軍人は、殊に営内居住の下士官は、おびただしい法令(規定)の支配下に生活している。彼らの日常的起居寝食は、『軍隊内務書』、『内務規定』、『陸軍礼式令』などによって代表的に制約せられる。(大西『神聖喜劇光文社文庫、第2巻、p.313)


 どれくらい軍隊は法令にしばられているか。
 たとえば、金玉は袴下(ズボン下)の左右どちらに収納するのか――このようなことまで決められている。日本軍の『被服手入保存法』には、

睾丸ハ左方ニ容ルルヲ可トス。

とあるのだ。
 法令や制度でがんじがらめになっているということは、その法令や制度に柔軟性があるか、もしくは現場での工夫がないかぎり、実態との乖離が生まれることになる。

員数主義

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫) たとえば、員数主義
 これは『神聖喜劇』でも冬襦袢が「なくなった」ことのつじつま合わせをする問答として紹介されているが、他にもたとえば山本七平がこの軍隊組織の悪習を「員数主義」と名付けている。

元来は員数とは、物品の数を意味するだけであて、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義なのである。(山本『一下級将校の見た帝国陸軍』、文春文庫版、p.135-136)


 数があわなければ、盗んででもそろえろというのである。


なぜこうなったのか。それは、自転する“組織”の上に乗った、「不可能命令とそれに対する員数報告」で構成される虚構の世界を「事実」としたからである。(山本前掲p.140)


 山本は、小松真一の『虜人日記』から次のような引用をしている。

形式化した軍隊では「実質よりも員数、員数さえあれば後はどうでも」という思想は上下を通じ徹底していた。員数で作った飛行場は、一雨降れば使用に耐えぬ物でも、参謀本部大本営)の図面には立派な飛行場として記入され、又比島方面で○○万兵力必要とあれば、内地で大召集をかけ、なるほど内地の港はそれだけ出しても途中で撃沈されてその何割しか目的地に着かず、しかも裸同様の兵隊なのだ。

 このような乖離は、官僚組織一般に生じるものだが、戦争中の軍隊のように、日々目まぐるしく、しかも激烈なリアリティでその乖離が確認されざるをえない場は他にないだろう。
 このようなタテマエと実態の乖離は、つきつめれば、そこにユーモアが生じる。戦争している当人たちには戦慄すべき現実ではあるが。


法令・制度と現実との乖離に生じるユーモア

大砲とスタンプ(1) (モーニングKC) こうした法令や制度と、現実との乖離、そこに生じるユーモアをついたものが、本作『大砲とスタンプ』だと言えはしまいか。


 このマンガはロシア軍をイメージの下敷きにしているようだ。主人公は前線で戦う部隊ではなく、後方支援、兵站の部隊にいる女性少尉(マヤコフスカヤ)である。「責任問題ですよ」が口癖で、融通がきかない。腐った肉の缶詰を送られた部隊に対して、謝るのではなく自分たちの責任でないことをきまじめに論じるのである。


 兵站の部隊は「紙の兵隊」などと呼ばれている。前線で戦わないということとともに、まさに書類の世界、つまり法令の世界であり、現実とは区別された一種の虚構であるという揶揄が込められている。


 先ほど述べた、腐った肉の缶詰を与えられた荒くれ海軍歩兵連隊は怒り狂って「反乱」を起こし、食糧基地を占拠してしまう。しかし、その解決はすっぱりとはいかない。
 補給できる食糧の絶対数は不足している。ゆえに、ワイロが横行している。ワイロが多いところには優先して送るしくみを海軍歩兵連隊が知ってしまい、そのワイロシステムをバラさないかわりに、自分たちに優先的に食糧を送れ、と要求するのである。
 ワイロシステムを改革するのではなく、そのシステムに乗っかってしまう。
 マヤコフスカヤは、なぜ改革しないのかと怒る。

このままほっとくんですか?
また誰かが腐った肉を押しつけられるだけですよ!

 大隊長はたしなめる。

俺たちは正義の味方じゃないんだ
仕組みがうまく回ればいいのさ
こいつらがクビになっても次の奴が同じことを始めるんだ
そんなでっかい仕組みを直すのはちょっと骨でね

 この話には、「反乱」をいったん「反乱」として認識してしまうと、「大ごと」になってしまうので関係者は公式に反乱扱いにしないよう腐心するエピソードが登場する。軍隊の警察である憲兵隊が会議に入ってきて「ハンラン」という言葉を聞きつけてしまったとき「ドニプロ河の氾濫について対策をですね」とごまかすのである。また、まったく会議が進まない様子を、ページをかえてほとんど同じような会議のコマを挿入することも意識的になされている。


 このようなタテマエと実態の乖離が、本作の随所に出てくる。それを官僚的腐敗として糾弾するのではなく、そこにある合理性を、ある種のおかしみをもって紹介するのである。

黒田硫黄を思い出す

大砲とスタンプ(2) (モーニングKC) 正邪をあっさり相対化し、正義ぶらない。深刻にならない。……この感じ、このタッチ、どこかで見たことがあるなと思っていたが、黒田硫黄ではないかと思い当たる。
 たとえば、人がいきなり死んだりする。あまりドラマチックでなく死ぬ。それがあまりに即物的で、いっそどきどきする。
 そして、単純にキャラクターが似ている。
 オノマトペの独特さも似ている。
 話の落とし方が似ている。
 軍隊を描いた黒田の『あたらしい朝』が不完全燃焼だっただけに、黒田的テイストで軍隊が描かれているようで楽しい。双方に失礼な言い方だが、ぼく的にはまさにそういう感覚で読んでいる。


 このマンガはある編集者に紹介されて読み始めたものだが、なかなかヒットだった。

もっとつっこんでくれ

 ただ、せっかくこのような員数主義的な「タテマエと実態の乖離」「そこに生じるユーモア」を描くのであれば、もっとつっこんでほしいな、という不満は多少残る。

自転する“組織”の上に乗った、「不可能命令とそれに対する員数報告」で構成される虚構の世界を「事実」

は、いくらでも面白くかけそうな気がしていて、ここに焦点をあてたというのは、まさに宝の山に入ったようなものだからである。それだけに、足りない点は惜しい、と感じるのだ。期待するがゆえの苦情と思ってほしい。
 たとえば第2・3話は、書類上にしか存在しない「九百番倉庫」をめぐるドタバタである。


大砲とスタンプ(3) (モーニングKC) 横流しの濡れ衣を着せられ銃殺刑に処せられそうになった、マヤコフスカヤの上司・キリシュキン大尉を救うために、マヤコフスカヤは電話内容をすべて記録させていることを「兵站軍公文書取扱規程」をもとに暴く。これによって、問題に実はかかわっていた少将自身が思わず口を割ってしまい、再調査の契機になっていくのである。
 が、この展開などはいかにも急すぎる。
 マヤコフスカヤが「規程」をもちだして論駁するのは、たった3コマしかない。


 『神聖喜劇』では、規則をタテにして、軍隊の不条理を暴いていくのだが、規則の用語を少々馬鹿馬鹿しいほどに立ち入って論じて、ついに上官を圧伏させてしまう。あるいは上官に逆にやりこめられてしまう。そのやりとりは、長々しすぎるほどなのだが、それがかえって絶妙のユーモアを生み出している。たとえばこうだ。


東堂 『被服手入保存法』などに、こうせよ、とか、そうするな、とか書かれていることも、一種の命令――広い意味での命令ではありましょうが、そういう規則類と『軍隊内務書』第二章の場合の「命令」とはおなじではない、後者は狭い意味での――本来の意味での命令である、と東堂は考えます。
大前田 お前がどう考えるかは、問題じゃないよ。命令に二つがある。「典範令」なり何なりの、どこにそげなことが書いてばしあるとか。
東堂 ……さぁ? そのことは――。
大前田 書いちゃあるめえ? うん? 兵隊は「知りません。」とは言うちゃならん、「忘れました。」と言わにゃいかん、ちゅうことは何に書いてあるか、そげな規定はどこにあるか、とお前はシツコユウ〔しつこく〕質問しつづけとるな。そのお前が、何のどこにも書いてないごたぁることを、よもや言い張りゃすめえ。――命令に、二つはないな。
東堂 はい、しかし……。(大西前掲書、p.323-324)


 法令や規則そのものに淫する、とはこのような書きぶりだ。兵站、紙の兵隊を描くのであれば、規則そのものにまみれてほしい。


 それから細かい話かつ余談であるが、先ほどの第2・3話で、キリシュキン大尉は軍法会議にかけられ銃殺刑の判決を下されている。にもかかわらず、営倉に入っている。
 軍刑法にかけられるような容疑者の場合は、営倉には入らないと思うのだが、どうであろうか…。