「週刊プレイボーイ」のマンガ評「この漫画がパネェ!!!」で竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』(講談社)について書いた。本書のオビでも(小さく、だけど)紹介されている。*1
記録マンガとしてすぐれている
ぼくは、『いちえふ』について、基本的には記録マンガとしての素晴らしさを評価した。これはすでに多くの人が指摘している通りである。
映像=絵としての記録、というシンプルな意味である。
文字で読んだ原発のルポでは、空間的な認識をどうしても起こしにくい。30年以上前のルポである堀江邦夫『原発ジプシー』(現代書館)は後述するが大変すぐれた潜入ルポである。しかし、文字によって得られる空間イメージはやはりかなり制限される。ところどころ、作業の写真が載っているのだが、昔の写真であるためか、全体的に黒っぽくてわかりにくい。増補版p.164の写真など何がなんだかわからない。
竜田『いちえふ』では、作業をすべてマンガ化することで、どのような空間イメージで作業しているのかは、クリアになった。白っぽい画面! 本作を審査した東村アキコがするすると読まされてしまったという趣旨のことを言っているが、少なくとも作業のイメージ化における客観主義は、本作の最大の魅力であり、功績である。
さらに、描いている作業の着眼点についても評価できる。
英雄的とみなされる高線量下での作業だけでなく(こうした作品は、高い放射線量のもとでの恐怖、心理とか、そこでの危険な作業、ということにどうしても目がいきがちだ)、その周辺部分の作業である、作業員の休憩所の業務などが丹念に描かれているのに好感が持てた。
汗の量とかウンコとか鼻のかゆさ。
ウンコについては1巻で2回(2シークエンス)登場する。
ウンコというものへの着眼は、「一番目立つ作業が、オモテには見えない、何によって支えられているか」という視点を持っている姿勢の表れだとぼくは感じた。
文字情報だけでは伝えきれない貴重なイメージの記録として大きな意義がある。これが本書に対する評価の基本スタンスだ。
ただ、文字のルポには別の強みがある。
これは、映像・イメージの強みを裏返したものであるが、文字のルポは、余計な情報を削除して、本質的なものをずばり伝えられるということだ。
たとえば、『原発ジプシー』では、敦賀原発で働いたさいに、放射線の管理区域ではない「二次系」とよばれる作業を鋭く描く。高圧給水器という「なにをする」のかよくわからない狭苦しい機器内の中で、微細な穴(ピン・ホール)が開いてないかどうかを確認する作業をする描写がある。
穴のチェックが三、四回終わったころには、狭い内部の空気がかなり澱んできた。なんとなく息苦しい。天井のボルトに掛けた裸電球のまわりには、キラキラ光る金属破片が浮遊している。マスク代わりに口に当てている薄いウエス〔拭き取り布・雑巾――引用者注〕を通してこれらを吸い込んでいるのかと思うと、さすがにたまりかね、西野さんに、「これじゃ、死んじゃうぜ」とどなってしまった。〔…中略…〕私のすぐあとから西野さんが出てきた。彼の顔を覆っていた手ぬぐいはもちろん、鼻の両端、頬、目のまわりなどが、墨でも塗ったように、まっ黒になっている。たぶん私の顔も彼と同じようにひどく汚れているはずだ。のどがヒリヒリする。鼻をかむと、黒光りした金属の細かい破片が出てきた。(堀江p.34)
もちろん、マンガでもある程度は可能である。『いちえふ』では、高線量下で作業を終えた労働者が、全面マスクの作業着を脱ぐ際に流れ出る汗を描写していて、熱中症との戦いをしながら作業をしていることを端的に伝える。
ただ、上記の『原発ジプシー』ほどの情報は、文字の方が強みがあり、イメージ化することはなかなか難しいのではないか。あるいは逆に多くのコマやページを割くことになるだろう。
構造的な問題が描けるのか
もう一つ。果たして、竜田『いちえふ』は、構造的な問題を描けるのか、あるいは描こうとするつもりがあるのか、という点が気になる。
原発作業員の労働は、下請が多重構造になっていき、多重化された下の方は、違法な労働がまかりとおり、ピンハネが横行し、安全問題が軽視されている、という問題がしばしば指摘される。
2012年9月に発行された布施祐仁『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)は、「東電は公式には原則三次下請けまでしか認めていない」(布施p.127)としつつ、現実には多重下請化し、本来発注側が指揮命令をしてはいけないのにしてしまう偽装請負が横行していることを告発する。
布施が取材した東電登録の経営者は次のように述べる。
下にいけばいくほど、自らの利益をどこで出すかといったら、人件費を安く抑えるしかない。材料費は誰がやっても一緒だから、削れるのは人件費。
いまの法律では、(原発の)すべての工事は請負でやらないといけない。建築土木業は派遣が禁止されているから、名目上は請負だけど、実際は派遣。だから、給料は一日いくらで払うと駄目。一人親方という形にする。〔…中略…〕本当は違法なんだけど、税務署はそれで通る。(布施p.132)
そして、これが労災隠しをしがちな体質に結びつく、とこの経営者は述べる。
でもそこで怪我とかしちゃうと駄目。労基署が入ってくると、それでは通らないから。だから、怪我だけはしのいでくれ、と言う。怪我しても、いかに電力にバレないようにするかをまず考える。電力にバレたら、結局次から仕事をもらえなくなってしまう。すぐに隠そうとするのは、悪くいえば、電力がそういう雰囲気をつくってる。何かあると発注停止とか見せしめのようなことをするから、下請けもそうなる(布施同前)
別の会社の社長は次のように証言する。
「建屋内でグラインダー作業をしていて、砕け飛んだ砥石が目に刺さり、ほとんど失明状態になった人がいました。でも、元請けは、労災を使わないでくれと言ってきた。労災を使わない代わりに、毎月の給料を保証しますよ、と。結局、いつまでも給料を払うわけにはいかないから、二年くらい経ってから数百万払って終わり(示談)にしました。隠しきれないものは労災使わせますけど、何とかなるものはみんな隠してますよ」(布施p.132-133)
布施は、「このように、電力会社や元請け会社などが労災を隠そうとしていることに加え、違法な偽装請負の恒常化が、労基署の介入を避けるための労災隠しにつながっている」(布施p.133)と結論づける。
この問題は、30年以上まえの原発労働の事情として書かれた『原発ジプシー』にもくり返し登場する。原発作業員として働く著者の堀江はマンホールに落ちて骨折する大けがを負うのだが、労災を使わせない。使わせないどころか、大けがをして苦痛にうめいている堀江にたいし、今そこに東電の社員が来ているから立ち上がって仕事しているフリをしろと作業指揮者が強要するのである。労災扱いにさせた人も、敷地外でけがをしたことにしてようやく認めさせたという。
労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故のあったことがバレてしまうんですよ。……ちょっとマズいんだよ。(堀江p.203)
2013年5月15日の時点であるが、国会の厚労相答弁によれば、「作業指示している会社と給与支払いの会社が同じか」という問いに作業員の47.9%、実に半数が「違う」と回答している。
福島第1原発 国は違法労働一掃を/参院予算委 田村議員求める
「フクシマの真実」ではなく「福島の現実」を描くという本作がこの指摘を否定するのか、修正するのか、それともふれないのか、ということだ。
『いちえふ』1巻p.33には、「週刊誌のインチキ」として、作業中に心筋梗塞をおこし死亡したケースについて、蘇生したと報じた週刊誌があったが、それはでたらめだと述べている。そのうえで
まぁこの件は東電の発表でもいわきの病院に搬送してから死亡確認ということになっているから東電としても1F(いちえふ)内で死んだことにはしたくなかったのかも知れない(竜田p.33)
とだけ書いている。そして、心筋梗塞だから「勿論被曝との関連はない」(同前)ということを強調している。
そこが強調されるべきところだろうか、と首をかしげたくなる。
布施『ルポ イチエフ』では、2011年に心筋梗塞で亡くなったケースで、やはり労災扱いにしようとしない業者(社長)の態度について書いている(このケースでは遺族の奮闘で労災扱いが実現した)。
『いちえふ』のあやうさ
ぼくが竜田『いちえふ』について危惧するのは、この点である。「プレイボーイ」では、本作品が記録としてすぐれていることを高く評価したうえで、「危うさ」についても書いた。
脱原発運動への敵愾心が先に立ち、客観的な記録を逸脱したり、ふみこむべき問題にふみこんでいないのではないか、という恐れである。
竜田『いちえふ』の1巻の終わりには、まわりの労働者が「明るい」ということが描かれる。まわりの労働者はバカ話をしながら、ギャンブルや下ネタを連発しているのだ。作者竜田はどんな悲惨な現場だろうかと覚悟してきたが、わわれれの日常と変わらぬ「普通」さがそこにあるということを描こうとしている。
しかし、ギャンブルと下ネタが連発するのは、30年前に書かれた『原発ジプシー』を見てもまったく同じだ。なのに、『原発ジプシー』を読むと、それは刹那的な生き方として見えてくる。要は同じ事実をどう受け止めるのかの違いだろう。
1巻では、「ブラック企業」まがいだと主人公が言う「黒森建設」社長が登場する。かなりいい加減な労務管理、ろくに払われない手当などの問題が登場するものの、それ以上にふみこむのかどうかは、1巻だけではわからない。2巻の予告をみると黒森建設から脱出を図るとあるし、「多重下請構造」についても書かれていて、今後の展開を予想させるものはある。
なので、今後こうした問題にも触れられていくことを期待する。もし触れないのであれば、竜田は余計な構造問題には口出しせずに、淡々と客観描写に徹することを期待したい。
ぼくが「プレイボーイ」で危惧を表明したのは、経験・調査の範囲を逸脱して、その外の問題にうかつにふれてしまおうとする、竜田の態度だったのだ。
再稼働を主張する竜田
しかし、2014年4月29日付の「朝日」を読んだとき、その危惧についてさらに深めざるを得なかった。
同日付に竜田一人は登場し、「再稼働し『職人』絶やすな」と題する主張を展開していた。
いま日本の原発は全部止まっていますが、私は原発作業の技術と人員を確保するために、当面、安全な原発の再稼働は必要だと感じています。稼働する原発があれば、1Fで線量がいっぱいに近づいた技術者や作業員は線量が少ない他の原発で働いて食いつなげるし、若手を連れていって修業もさせられます。(前掲「朝日」、強調は引用者)
廃炉要員の技術継承と員数確保のためだけに再稼働しろと読める、この議論にはかなり無理がある。
第一に、技術継承と員数確保のためだけなら、再稼働ではなく、老朽化原発の廃炉を進ませてその作業をさせてもいいではないか。たとえば5月1日付の「朝日」には「『廃炉検討』言及相次ぐ 老朽化原発、負担見極め 電力4社」という記事があった。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11113020.html
記事にあがっている30〜40年近い老朽炉は、18もある。なぜわざわざ再稼働なのか。
第二に、仮に第一のような措置をとらなくても、停止中の点検という方式もある。プラント停止中でも、ポンプ・熱交換器・空調などの点検や取り替えは行われている。
第三に、仮に実際に原発で作業しなくても、国や東電の責任で報酬を支払う訓練方式での教育もあるではないか。報酬を支払って訓練させておくなら、被曝もせず、人員を確保し、技術を継承することもできる。
この問題に関連していっておけば、作業員の確保がなされていないのは、端的に報酬の低さだろう。
布施『ルポ イチエフ』では、事故後の福島第一原発の作業で絆を実感した作業員と、実感できない作業員について取材している。その差について、絆を実感できないという作業員はこう答えている。
「ないっすね。多分、もらえるものをもらっている人は、テンション高いんじゃないですか。もらえるものをもらっていれば、割り切れると思う。(理由は)それだけじゃないかもしれないけど、それが関係ないかって言ったら、やっぱり関係あると思う」(布施p.113)
布施は「この答えは、胸にすっと落ちた」(布施同前)と言う。
標準の報酬に加えて危険手当2万円が福島の高線量作業では出ることになっているが、それが行き渡っていない問題は、公契約法・条例*2のようなものをつくるか、もしくは国や東電の直接雇用にしてしまうかするのがいい。そうすれば確保できるのではないか。
2万円では集まらない、ヤバい業者が絡んでいる*3からこそその価格で人が集められるというのであれば、さらに手当を上げることで集めるしかないだろう。
第四に、これがもっとも本質的な問題なのだが、そもそも竜田のこの主張には、再稼働することのリスクが何も織り込まれていないということだ。よく言われるように過酷事故が再発する確率は「低い」のかもしれない。しかし、いったん起こってしまえば、時間的・空間的・社会的に取り返しのつかない問題をひきおこすという、「異質の危険(異常な危険)」をはらんでいる。
竜田は「安全な原発」とナイーブな前提をおいている。「国境なき医師団の継承者がいなくなると困るので、安全な国境紛争や飢餓はたやすべきではない」という主張に似た不自然さをおぼえる。
再稼働とリンクさせることが難しい問題を、かなりアクロバティックな主張で結びつけている印象が強い。そこに竜田の政治性、もしくは激しい市民運動への敵愾心を見るのである。
運動への冷ややかな「現場」の視線は竜田の専売特許ではない
布施の『ルポ イチエフ』には、その終わりの章に、原発作業員が、脱原発運動をどう見ているかというインタビューが載っている。
総じて手厳しい。
たとえばこうだ。
「原発が爆発した点だけを見て、そこで飯を食っているうちらのような人間もいることとか他の面を見ていないような気がします。もちろん東電や政府の肩を持つつもりは、まったくありません。事故が起こったのは事実だし、彼らの責任も大きい。その責任をしっかりとらせて、安全対策もきちんとやった上で、再稼働すべきだと思います」(布施p.183)
竜田ほど入り組んではいないが、驚くほど似ていることがわかる。
他の人たちも、脱原発運動の「地に足のついてなさ」というか、現実と格闘している自分たちとのギャップを感じている様子が伝わってくる。
ただ、布施のインタビューでは、にもかかわらず、そこで“仲たがい”している場合じゃない、として、デモへの理解をしなければならないと自分に言い聞かせる作業員も登場する。おそらく布施自身はそこに一つの希望を見いだしたのだろう。
いずれにせよ、竜田の感情は決して「東電に洗脳された政治主義」というわけではなく、ごく自然な感情の一つだということができる。運動への冷ややかな「現場」の視線は竜田の専売特許ではないのだ。
そして、くり返しになるが、ぼく自身は、このマンガを、客観的なイメージの記録として高く評価するものである。