この記事を読んでいて、お小遣いのお駄賃制が出てきた。
強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話 / 寳槻 泰伸 | STORYS.JP
すがすがしいほどのお駄賃制である。
お駄賃制(報酬制)への批判は、「発言小町」などでは強い。
報酬制のお小遣い、欠点ってどんなこと? : 妊娠・出産・育児 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
このトピでは、勉強を報酬の対象にしていることへの批判が入っている。また、報酬制のイメージの違いもある。トピ主は、ある仕事のメニューをやりとげたらお駄賃を払うというふうにしているが、回答者の中には、「1仕事いくら」という歩合制をイメージしている人もいる。まあ、そういうイメージの違いには注意したい。
ただ、お駄賃制への批判の根本は「お金をもらわないとお手伝いをしなくなる」というものだろう。
お手伝いとは、自分のための労働ではなく、家事労働であり、もっといえば、家庭という共同体のための労働(公役)である。お手伝いに労賃を払うのは、公的な義務を果たす精神が忘れられ、私的な労働(報酬を得る労働)と混同されている、ということになる――こういう批判だ。
お駄賃制をとる側は、「労働には報酬という対価が与えられる」という教育を行うのだという反論がある。「定額制は『何にもしなくてもお金がふってわいてくる』みたいな感覚を育てるじゃねーか」という批判もある。
定額制か報酬制かは永遠の論争という感じがあって、つまりはどちらにも一長一短あるというのが実際のところだろう。
本書『一生役立つ「お金のしつけ」』は、エッセイコミック的な形式で、お小遣いを通じて「お金教育」をさせようとする。そして、
最初は「おだちん制」から始めるのがおすすめ(p.24)
と明快に言い切る。その理由は、
おだちん制は「お金は労働の対価としてもらえる」ということを教えることができるからです(同前)
というものだ。
おだちん制を始めたら、ぜひ約束してほしいことがあります。それは「仕事が中途半端ならおだちんはあげない」ということ。「仕事とはいい加減に終わらせてはいけない」ということを、おだちん制を通して学ばせてあげてほしいのです。(p.30)
「お金をもらわないと働かなくなる(お手伝いをしなくなる)」という不安への反論を行っている。
そのときは、家事は誰もがやるべき仕事で、おだちんはお金の意味を教えるためにしていることだと子どもに説明しましょう。そうすれば、お金をもらわないと働かないといった時期はそう長くは続きません。安心しておだちん制を続けて大丈夫です。(p.31)
マンガの部分では、この問題にもう少し別の角度から光をあてていて、人間の性格は大人になってもかわらないので、共同体や利他のために働くという感覚が軽んじられているような子どもには、早いうちからむしろ気づき、根気づよくそれと向き合える、という反論をしている。
ここでいう「おだちん制」は、さっき紹介した「発言小町」タイプのように「1日の課題をきちんとやったらもらう」というのではなく、労働のメニューにしたがって報酬が決まっている「歩合」に近いもので、冒頭に紹介した家庭に近い。
わが娘が小学生になって小遣いをやるようになったのだが、そのしくみは、先に紹介した「発言小町」のトピ主に近く、お駄賃制と定額制の組み合わせで、子どもにはお駄賃の側面を強調して伝えている。
つまり、自分のための労働(の一部)と家族のための労働(の一部)をきっかりこなせたら、1日定額のX円を渡すというしくみにしている。勉強は組み込んでいない。ぼく自身に強烈な違和感があって、勉強の動機は知的好奇心か、何かに憧れる(たとえば勉強ができてカッコいい自分とか)ことによってしか持続的には与えられないもので、金銭報酬をリンクさせるのは成功しないであろうという感覚が強いからだ。まあ人によるんだろうけどね。
『一生役立つ「お金のしつけ」』にもあるように、仕事がハンパだったり、何度促してもやろうとしなければ、与えないということも実際にやった。
他方で、『一生役立つ「お金のしつけ」』がすすめているような、完全歩合制に近い報酬制をとらなかったのはなぜか。
これは、確かに「お金は労働の対価としてもらえる」という意義が最も鮮明に子どもに伝わる。そして、最初はゲーム感覚で楽しめるし、自分で労働を見つけてくるということも起きるとは思う。
しかし、やがて面倒くさくなったり、家事労働をきちっと身につけてきたら意義が薄れると思ったからである。いや、実際、『一生役立つ「お金のしつけ」』も、「おだちん制」から「定額制」への移行をすすめていて、それは子どもが毎日の仕事を苦にせずにきちんとやれるようになったら、そのようにしてもよいと述べている。
ぼく自身は、小さい頃、定額制であった。
初めは日額払い(50円)でもらっていた。
しかし、昔の子どもたちは、親とは無関係に集まって遊び、近所の駄菓子屋で社交をしていたから、50円などあっと言う間になくなった。あのころ、ペプシばっかり飲んでいた。体の8割はペプシで出来ていたと思う。歯も磨かなかったから、虫歯も多かった。「宵越しの金はもたねえ」みたいな江戸っ子的生活であった。
それが月額払いになって、急にかわった。
まあ、駄菓子屋社交をする年でもなくなっていったし、「月初めに使ってしまって、あとは無一文ですごすのがこわい」という感覚があって、とたんに慎重になった。おかげで、まるまるたまるようになっていった。
お小遣い制度が自分に残したプラスの感覚はまさにこれで、「しわく使う」「たまるとうれしい」というもの。カネを計画的につかう・ふやすといったような感覚はないのだが、浪費をしない・節約するという感じでおカネをためることに大きく寄与した。
だから、定額制、とくに初めにドカンと渡すことは、計画性や節約感覚を育てるうえで何かプラスになるのではないかという自己体験はある。
しかし、それは金勘定ができるようになってからでいいだろうと考えて、スタートは自分の幼少期と同じ、日払い方式にした。
同時に、労働への対価や家事労働をシステムに組み込むようにしたかった。
実は、ぼく自身のお小遣いの歴史において、家事労働が報酬と結びついたことは一度もない。つうか、家事労働などほとんどしない子どもだったからである(家の農業の手伝いをすると報酬がもらえたが、それはほんとうに、ごくまれの機会だった。)家事労働は「母親と祖母=女がするもの」であるという価値観を受け付けられてきた。左翼にならなかったら、そこからは抜けられなかったかもね。
家事労働、つまり家庭における共同体のための公役労働が、私的な報酬と結びつくのはよくないのではないか、「家族みんなのためにやる」ということを教えるべきだという批判は、ある程度わかる。だから、歩合のように、報酬と労働が密接にリンクしすぎないようにした。そして、言葉によってそのことを強調するようにした。
ただ、そうすると、「働くとお金がもらえる」という関連は少々薄らいでしまうので、『一生役立つ「お金のしつけ」』がめざすような効果はその分小さくなるといううらみは確かにある。
本書『一生役立つ「お金のしつけ」』には、祖父母が高額のお小遣いを子どもに渡してしまう問題や、高額なものがほしいけど買えないという問題など、お小遣いをめぐる「かゆいところに手がとどく」問題がいくつも書かれている。「PTAで大人気のお金教育メソッド」という宣伝文句らしい、「かゆいところに手が届く」ぶりである。
それにしても、現金でのお小遣いにしたら、娘がこの本に出てくるごとく、毎日のように「1ま〜い、2ま〜い……」と番町皿屋敷っぽく数えるのはどうにかならんか。