小説家である内海隆一郎の原作を谷口ジローがコミカライズしたもの。いや、発行はもう2010年のものだから何を今さらという感じだが、部屋を整理していて久々に読んで、泣いてしまったので書いておく。
家族をめぐる短編集である。
どれも文句なしによかったが、「白い木馬」について書く。
木下という老夫婦が、娘の子ども、すなわち孫をあずかり、遊園地につれていくシーンから始まる。孫は5歳の女の子である。
電車に乗るや否や、人の間をぬって席をとりに行った、そのさもしさを老夫婦にきつく叱られ、ふくれっつらのまま無言で車窓をながめている。
それきり孫娘のヒロミは機嫌が悪く、黙りこくったままなのである。
五歳の子を、そんな不行儀に育てた母親が情けなかった。
ふくれっつらは、ぼくの娘のように見える。
つい先ごろ、ぼくの母親がぼくの家にやってきて2週間近く家事・育児を手伝っていってくれた。そのこととの感謝とともに、世間話のように始終繰り出される、行儀についての小言と、安手の教育論の押しつけには辟易した。
あいさつができない。
たしかに、わが娘は、あいさつがあまりきちんとできない。朝起きて家族に「おはよう」とは言わない。こちらが声をかけても黙っている。道や園で人に会っても言わない。促してようやく小声で言う。ぼくの母にはそれが相当もどかしいらしく、実家の前の家の利発なコと比較して、いかにぼくの娘が人間としてダメかをぼくや娘に説教する。
くわえて、保育園でぼくの娘が「好きなことしかしていない」ことが少し問題視されていることも気にかかっていた。マンガを読むこと、絵を描くことには度外れた集中がある。ご飯だと言っても離れない。しかし、新しいこと、不馴れなことにはきわめて消極的で「見ている」、いなくなるということが多い。主体性や積極性が弱いのではないか、という評価が娘を見る時に頭をかすめてしまう。
「体裁としての礼儀」がなっていないとか、新しいことに消極的だとか、そういうことがヒロミを娘にダブらせる。
だけど、たぶんこれは考えすぎなんだろう。
5、6歳の子どもを多少ともリアルに描けば、要素の一つや二つ、似ていなくはない。「これはうちの娘のことをモデルにしたのではないか」「まるで娘の話だ」などというのは、図々しいにも程がある錯覚だといえる。
だけど、ヒロミは、娘に似ていた。そう思ってしまうのである。悪いかよ。
祖父母が提案する遊園地の乗り物に、どれ一つとして主体的に「乗りたい」とは言い出さない。黙ってどれも首をふるばかりだ。ヒロミには、およそ「子どもらしい」快活さや明朗さがない。
ただし、お金を与えると、「慣れた」調子で買いに行く。
それをみた祖父母は、
「なあに、見てみろ、慣れたもんじゃないか。
あの子は母親にお金を与えられて、
いつもああして買い食いをしてるんだろう。」
「困った母親ねえ、芳子も……」
「俺達が子供に厳しかったからな、
きっとその反動で甘やかしているんだろう。」
「…………
せめて、うちにいる間だけでも、
ちゃんとしつけてやらないといけないわね。」
ここには外側からかぶせた、ヒロミの評価が並んでいる。それが何だか、ぼくの母親的な目線でヒロミが評価されているように思えてしまう。
ヒロミは、少し離れた販売店で品物が出てくるのを待つ間、黙って、どことなく不安そうに、祖父母を見つめている。その頼りなさげな主体性のない様子が、また娘の評価とダブってしまう。
ところが、帰ろうとしたそのとき、ヒロミが祖母の手を振り切るようにして、駆けていった先がある。コイン式の電動木馬であった。
どんな乗り物にも近づかなかったヒロミが、
急に自分から駆け寄った。
そして、自力で木馬の背にまたがった。
こんな遊園地でなくても乗れそうなものがいいのかと、驚く祖父母をよそに、表情がどんどん明るくなっていく。「ねえ、もっと! もっと!」と「子供らしい声」を初めて上げる。
ヒロミの母・芳子は、離婚をして一人で子育てをしてきた。新しい年下の恋人ができて暮らし始めようとしたとき、芳子は「子供のいる事は話してあるんだけど、いきなり一緒に暮らすんじゃ悪いと思って……」一時期ヒロミを祖父母の家に預けていたのである。
身勝手さというよりも、新しい結婚を周到に進めたい、という戦略が芳子にはあるように描かれている。「子供を邪魔にするような母親が、どこにいる!?」と祖父である木下は芳子を叱るものの、芳子は目的を達成するために、毅然と、そして整然と祖父母への託児を願い出る。したたかなのだ。
遊園地から帰ってきて、久々の母子面会となる。そこには、新しい結婚相手も来ていて、芳子の申告通り実直そうな、「ちゃんとした人」であった。子どもとぜひいっしょに暮らしたいというのだ。
その席上、遊園地で乗り物に消極的だったエピソードを祖父母が話すと、少し笑いながら、その理由を芳子が話すのである。
ああ、なんだ、それならわけがあるのよ、お母さん。
この子、一度横浜の遊園地で怪我した事があるの。
この子が一人で模型電車に乗っている間、
あたしちょっとお手洗いに行ったのよ。
ところが帰ってみるとヒロミがいないのよ。
あわててあちこち捜しまわったの。
茶を飲む手を休めて、渋面でその話を聞く祖父。
そうしたら、迷子の救護所で膝小僧から血を流して大泣きに泣いてたの。
係の人に聞いたら、走っている電車から飛び降りたっていうんだもの、
びっくりしたわよ。
どうやらあたしの姿が見えなくなったのに気がついて、
大あわてで飛び降りたらしいのよ。
ね、ヒロミ。
突如、大声で怒り出す、祖父。
芳子! それはおまえが悪い!!
びっくりする芳子と男性。
そして、ヒロミ。
どうりでヒロミが乗り物をいやがったわけだ。
可哀相に……
祖父である木下は、すべて合点がいった。
ヒロミの行動に合理的な説明がつけられたのである。
……ヒロミは、また置き去りにされてしまうのを恐れたのだ。
自分が邪魔者にされているのを気づいていたのだ。
本当はいろいろな乗り物に乗りたかったに違いない。
売店でジュースを買いながらも
こちらをじっと見ていたヒロミの様子が目に浮かんだ。
木馬なら私達から目を離さずにいる事ができるし、
いざという時にはすぐに降りる事ができたからだ。
わがままや消極に映ったヒロミの行動がすべて裏返り、子どもなりの理由があって、その理不尽に堪えている気丈が、むしろ心に染み入ってくる。祖父・木下は、車窓をながめていたヒロミの膨れっ面を思い出していた。その「ふくれっつら」はもはや最初に見た「ぶしつけ」なそれではない。同じ「ふくれっつら」は180度姿を変えて彼の目に映じている。
木下さんはふくれっつらのヒロミが、
たまらなく愛おしくなった。
別れ際、ヒロミはまたしてもあいさつしない。礼儀というしつけがなっていないのである。にもかかわらず、そこにいるヒロミは、何も成長してはいないが、もう前のヒロミではない。
ふくれっつらをしたヒロミが黙って木下さんを見つめていた。
頬をふくらませたままだったが、目はなごんでいた。
これまで見せた事のなかった親しみがこめられていた。
それは、5歳児が、祖父・木下がなぜ怒鳴ったか、それはヒロミのために怒ってくれたのだということを理解してくれたからだと、木下は解釈した。だからこそ、ヒロミの顔は違ってみえたのである。
大人にとって、というか子を持つ親にとって、なんという欲望的な物語であろうか、と思う。
理解できない子どもの欠点、そしてなつこうとしない子どもが、合理的な説明によって、たちまちに反対物に転化する。子どもなりの理由で、その理不尽を生きているという健気さを、大人は理解してしまうのである。そして、その新しい理解によって、子どもは大人と心を通わせるのだ。
教育学とか保育、そんなたいそうなものでなくても、子どもの理不尽さ、矛盾を合理的に説明しようとする弁証法を、ぼくは餓えるように欲している。それはまさにこの物語のようにあざやかな反転をとげてみせたいからである。
それは見果てぬ夢だとわかっているけども、どうしてもこういう物語が欲しいと思ってしまう。そして、見事にやられてしまったのである。