児童マンガとしての『よつばと!』


 うちの娘は5歳になる。この年齢は、なんと、あずまきよひこよつばと!』の主人公・小岩井よつばと同じだ。よつばは、ひらがなとカタカナが読めるようであるが、うちの娘もどうにか仮名は読めるようになった。だから、ふりがながふってある『よつばと!』は読めてしまうのである。


 そして、ハマった。
 いや、こんなにハマるものかというくらいハマっている。


 マンガの早期英才教育……などというわけではないが、ためしに与えてみたら、面白いくらいに夢中になっている。娘がいれこんでいるのは『ドラえもん』『モジャ公』(以上、藤子・F・不二雄)、そしてこの『よつばと!』である。保育園から帰ってくるなり、リュックサックを投げ捨てて、この3冊のどれかを熱心に読んでいる。『じょしらく』とか『演劇部5分前』みたいなマンガもぼくがポイと床においてあってしばらくは熱心に読む(眺める)わけだが、やがてまたこの3冊へ戻ってきてしまうのである。*1




 ちなみに、『よつばと!』を知らない人のためにいっておくと、5歳の女の子、小岩井よつばとその父親が引っ越しをしてきて、隣家の3姉妹やその周辺の人たちとの日常の出来事を「1日1話」に近いペースで描いた漫画である。

まず美少女マンガ、オタクのユートピアとしての消費

 『よつばと!』が始まった時、ぼくはすでに結婚はしていたが、遠距離生活であったので、東京に独居していて、事実上独身のようなものだった。読み初めのころは、よつばが過ごしている夏休みの永遠性――まるで無限に続くかのような楽しい毎日というユートピアがぼくの意識の中に迫ってきた。くわえて、恵那・風香・あさぎという美人3姉妹へむける視線は、むろん美少女たちを性的に消費しようとするものであった。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yotubato.html


 精神科医斎藤環はこうしたユートピア把握をさらに徹底した。


この作品は一種の『死後の世界』のユートピアを描いている。いや、こう言うだけでは正確ではない。物語世界の閉じ方が『死後の世界』的な形式でなされている、と言うべきだろう。(「ユリイカ 詩と批評」2003.11号)

子育てマンガとしての発見

 だが、ぼくに子どもが生まれた途端、「あ、これは子育てマンガなんだ」というアホみたいな事実に気づく。

 子育て世代のなかで、というかぼくの保育園の父母の間では、この漫画はまったく知られていません(まあ、漫画自体読まない父母が多いのですが)。「子育て層が読む漫画」としてもっとそこに浸透してもいいと思うのになあと改めて思った今日この頃です。


 こうした「読み」自体はそれほど珍しいものではないかもしれません。アマゾンのカスタマーズレビューを拝見すると、この漫画を「子育て漫画」だというふうに受け取っている層は、一定数たしかに存在します。しかし、ぼくはつい最近までその視点でこの漫画を読めなかったのです。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yotsubato9.html


 だが、正直に言えば、「子育てマンガ」すなわち「子育て層が読むマンガ」としては、実は少しパンチが足りないな、と思っていた時期があった。わかりやすくいうと『ママはテンパリスト』や『赤ちゃんのドレイ』のようなデフォルメが弱い、と受け取ったのである。子どもの面白さを強調するなら、そういう誇張が徹底していた方が楽しいじゃん、というわけだ。別の言い方をすると、単なる「ほのぼのマンガ」のように見えた時期があったのである。



 ところがである。
 娘が5歳になって、よつばと同じ年になり、ぼくの書棚から勝手に引っ張り出して読んでいたのを、いっしょに横から読み出したところ、5歳児の行動としてのよつばの描写があまりに精密なリアルさに満ちていることに改めて気づかされたのである。
 いま手元に9巻がある。

  • 父親の背中をのぼるときに無遠慮に顔をつかんで登っていく。
  • デタラメな散文系の歌をつくって、親にむかって歌う。
  • なぜかそれをカラーボックスのような危険な舞台の上で披露し、飛び降りる。
  • どんぐりの片づけをしている最中に、個々のどんぐりをキャラクター化してしまい、お話づくり、ごっこ遊びに次第にハマっていってしまう。
  • コーヒーミルの説明をものすごくわかりやすくやってやるのに「ぜんぜんわからんなー」などとサンドウィッチマン・富沢のようなことを言いだす。
  • 「ティディベア」を「ベリーゲラ」と空耳する。
  • ぬいぐるみに質問させて大人に回答させた答について「そうですか いいとおもいます」というコメントをする。
  • 脈絡なく頭をたたく。
  • 読めるようになったメニューのひらがなを読み出し、漢字はとばして読み上げる。
  • 得意になって自分の家の中を3姉妹に案内し、得意になったついでに生卵を割るという「最近できるようになったこと」を披露しつつ、生卵で汚れた手を服で無造作に拭く。


 もう自分の娘としか言いようがない。よつばはうちの娘だ。
 それだけではなく、「とーちゃん」である父親の言動のすべてが子育ての堅牢な日常そのものなのだ。「この子の食事は誰がいつどうやって支度しているの?」「この子は親がいないときだれがどうやって面倒をみているの?」――子どもが出てくるマンガには、ぼくらのような子育て層が読者の場合、そんな野暮な問いがどうしても虚構の中に侵入してくる。フィクションの中に空いた無数の間隙を、日常の疑問がじわじわと染み込んでいってしまう。ところが『よつばと!』にはそのスキがない。


 パンツ姿でチャーハンをつくっているとーちゃんの姿、よつばが膝にのってきてピザをネットで注文し、よつばといっしょになってピザが届くとハイテンションになるとーちゃんの姿、スーパーでサイフを忘れてウンコしたみたいな格好をしつつよつばといっしょにハンバーグの材料をそろえるとーちゃんの姿……これこそ、父親であるぼく自身の姿である。


 ぼくは、このとーちゃんの子育てを一種の理想とも見ているし、自分がそれに近い子育てをできていることに満足を覚えている。それくらいとーちゃんの生活と子育ての肌感覚はぼくに近い。

 
 「子育ての日常そっくりだったから、どうだというのか?」とヒネくれたお前は尋ねるだろう。まったくお前は。まったくものだ。せっかくひとがいいきになっているのに。


 ぼくも上手くは言えないけども、絵本作家の長谷川摂子が、林明子の後期の作品を指して「背景が克明に描き込まれているわりには冷たく、子どもの生命感との違和を感じて、わたしは妙にうつろな寂しさを感じることがある」という批評と対比して、林の初期の作品について次のように述べているのだが、その批評の言葉が、この場合のぼくの実感に近いかもしれない。


ふしぎなことに、初期の〔林の――引用者注〕傑作『はじめてのおつかい』(筒井頼子作/林明子絵/福音館)にはそういう不安がない。わたしはこの作品が文句なしに好きだ。赤ん坊が泣きわめき、鍋ややかんがプップと湯気を出し、ママの押しているワゴンの上で牛乳がちゃぷちゃぷ踊っている最初の場面。みいちゃんの後ろ姿は『おでかけのまえに』(筒井頼子作/林明子絵/福音館)のあやこなどに比べるとずっと平板で、漫画風のデフォルメがされているけれど、子どもがはじめてのおつかいに出る必然性が画面全体で豊かに語られている。それに、おっぱいの大きい赤いほおをしたママの生き生きしていること。このお母さんほどの生活感は後の作品の母親像には見られない。要するに、この作品にはいろいろな遊びを含めて全体に、作者の人間好きの思想がみなぎっているのである。(長谷川『子どもたちと絵本』p.123〜124、強調は引用者)


 同じ本の別の箇所で、やはり『はじめてのおつかい』について、長谷川は次のような言い方もしている。

台所ではお鍋が煮えたぎり、ベッドでは赤ん坊が泣きわめく。そんな中で忙しく働きまわるお母さんが、「みいちゃん、ひとりで おつかい できるかしら」と声をかけ、物語が始まる。暮らしの必然性に迫られて母親が子どもの成長を後押しするのだ。(同p.52、強調は引用者)


 ぼくなどは、『はじめてのおつかい』で描写されている台所風景などよりも、パンツ一丁でよつばの食事をつくったり、無遠慮に親の顔を手がかりにして背中をよじのぼられる描写の方に、はるかに強い、ぼくと地続きの生活の臭いを感じる。
 その濃密な生活の描写に支えられる時、よつばのしでかす行動の一つひとつは、決して読者を笑わすために作者が操ったストーリーや仕込みの傀儡などではなく、まさに生活の中から必然によって立ち上がってくる5歳児のリアルな言動そのものなのである。よつばが生きて動いていることを疑う5歳児の親はいまい!


子どもが楽しむマンガ=児童マンガとしての『よつばと!

 そして、何よりもぼくがびっくりしたことは、娘がよつばを楽しんでいる、という事実であった。「子育て層向けマンガ」として機能することまでは予想できたものの、まさか「児童マンガ」としてこれほどまでに機能するとはまったく予想できなかった。
 実はそのあたりのことを民主教育研究所の季刊誌『人間と教育』75号、「大人と幼児が同時に楽しめるマンガはあるか?」に書かせてもらったことなのだ。
http://min-ken.org/archives/1243



 佐々木宏子・宇都宮絵本図書館編著『幼児の心理発達と絵本』(れいめい書房)には、11冊の指定絵本を使って14組の親子の絵本とのつきあいをケースワークした研究が載せられている。その中で、『おやすみなさいフランシス』などのシリーズに母親がハマり、その影響で娘とも絵本と物語を強く共有するケースが紹介されている。



ひとり遊びをしている陽子ちゃんが、思わず、フランシスの歌っていた「ポトリン ポトリン ポトリンコン」をつぶやくと、それを聞きつけたお母さんは、「流しの下には布巾があるよ」と続けます。すると陽子ちゃんも「バケツモタワシモ、私モイルヨ」と返します。(同書p.94)

お母さんは、これらの本を隅から隅まで頭の中に入れてしまい、陽子ちゃんのちょっとした「フランシス的言動」にもすぐさま対応し、日常生活に想像の場を創りあげ、ドラマに仕立ててしまいます。(同p.93)

 何のことはない、オタクの共同体の中でよくやるセリフの繋げ合いによる小芝居なのだが、ぼくと娘も、よつばのセリフの一部を、まるで早押しクイズのように当てて、そこからずるずると芋づる式にそのシークエンスのセリフをお互いに言い合いっこしていくのである。

ぼく「栗拾いに行くのに大切なものはなんだ?」
娘「愛」
仮面ライダーの変身のような動作をして)
ぼく「はあっ!!」
娘「いてっ」

などと。*2
 娘とオタク的な共有ができる世界。こんなに嬉しい世界がもうやってきたのかと思うと楽しくて仕方がないではないか。
 最初に娘は一人で読む、と書いたけども、よく「おとーさん、これよんで」と言って持ってくる。1話を絵本のようにして声を出して読んでほしいというわけである。だから、我が家では寝る前に、絵本のかわりにこうした『よつばと!』や『ドラえもん』を読み上げるときもしばしばある。そして、ぼくはそれを読むのが心底楽しい。子どもに無理にあわせて、あるいは子どもにつきあって子どもむけの本を読むのではなく、大人が読んで本当に楽しいマンガを読んでいる、という意味において。事実、ぼくは、最近職場に行くときも『よつばと!』を何冊も入れて出勤し、電車の中でじっくり読んでいるときがある。つれあいも『よつばと!』は今回初めて読んだようだったが「これ、クセになるな」「不必要なくらいに5歳児がリアルだな」「もしこれであずまきよひこに5歳児がいなかったら衝撃だわー」などと言いつつ、読みふけっていた。

なぜ子どもにとって魅力的なのか

 肝心なことは、娘にとって、『よつばと!』はなぜ魅力的なのか、ということである。すなわちどうして児童マンガとして機能するのか、ということだ。
 娘が『よつばと!』に惹かれる最大の理由は、やはりそこに描かれている「5歳児イベント」の魅力であろう
 それは気球のフェスティバルに行ったり、牧場に行ったりするような、まさに「イベント」然としたものだけではない(むろんそれらに惹かれる娘は「ききゅうにのりたい!」などと言ったりするのだが)。


 たとえば、とーちゃんが付箋紙を使っているのを見たよつばは、家中のものに「付箋」をしていく。うちの娘にはこのアイデアがいたく気に入ったようで、まったく同じように家中の部屋、スイッチ、家具などに「けす」「おとうさんのへや」「ねるへや」「しめる」などと、よつばよろしくヘタクソな字で書いた紙を、セロテープで貼りまくっていった。
 チラシのピザの写真を切り抜いて帳面にカタログのように貼る、というのも楽しそうにやっていた。
 水鉄砲で復讐系アクション映画のマネをするというのもやはりお気に入りである。「わかった……しんでもいきてかえる」「いいわけはじごくできく」「うごくな! ノンストップ!!」など珍妙な言い回しで敵を撃ち殺していく様や、最後にあさぎに銃をはたきおとされて「バイバイ小さな殺し屋さん」と言って撃たれるのもお気に入りである。




子どもたちと絵本 (福音館の単行本) 正直に言って、『はじめてのおつかい』よりもはるかに強烈な生活臭のリアルをもち、そしてどんな絵本のストーリーでの出来事よりも楽しそうに、大人たちと日常の中で遊んでいるのが『よつばと!』である。



 日常の中にこれほどの非日常が凝縮されていることを、大人は滅多に伝えられない。当たり前だ。大人にとっては、日常はまさに日常でしかなく、そこはマンネリズムとルーティーンが跋扈する停滞の世界だからである。そうした日常観をもった大人が、日常の中の非日常を新鮮な視点で提供することなど至難である。「ほら、あの葉っぱの緑をみてごらん」などと子どもに「ありふれているはずのまわりの自然の思いもかけぬ美しさ」に心をときめかすなどということが心底できる大人であればいざしらず、ぼくのようなダメ大人にはまったくできない。自分ではさほどに感じてもいないくせに、いやむしろうんざりしながらそんなセリフを言わねばならないなんて。言ってないけど。


 「大事件! 大事件!」と子どもはよく目の色を変えて母親や保母のもとにかけつける。でもそれは、洗濯物のシーツが風でとばされたとか、ボールが屋根にあがったとか、そんな程度の事件がほとんどで、たいていの大人は悠揚せまらず受け流してしまう。


……日常生活の些細な場面で、そんな子どもたちの興奮ぶりを目にすると、大人であるわたしは子どもとの距離を否定できない一方で、彼らの何かを突き破っていくようなストレートな感情の高揚にねたましさを感じることさえある。子どもたちは、いつでも、どんなことにでも驚きと変化を期待している。逆に彼らは、あたりまえのこと、よく知っていること、普通のことをひとかたならず軽蔑している。「そんなこと、とっくに知っているよ」という子どもの世界のおきまりのセリフがそれである。が、その誇らしさ、既得の物への軽蔑の裏には、未知の物や、日常生活のありきたりのレールを超えた事柄への賛嘆の念がいっぱいに詰まっている。


 知ってしまったこと、あたりまえのことを超えようとする執念は子どもの遊びのすみずみにしみ込んでいる。ごっこ遊び、探検遊びはもちろんのこと、ときには言葉遊びにも。たとえば、子どもたちにかかると「でたでた月が、まあるいまあるい、まんまるい」という歌は、「タデ、タデ、ガキツ、イルアマ、イルアマ、イルマンマ」などと奇妙な逆よみの歌に変身したりする。子どもほどにマンネリズムをきらった大人がいるだろうか。もてるものを超えようとすることは、彼らの根源的なエネルギーであり、生命力の発露のようなものだ。(長谷川前掲書p.158〜159、強調は引用者)

 
 ほんとうは、子育てをしている親たちには、子どもという存在を媒介にして、日常の中にある非日常に気づかされるチャンスが無数にある。しかし凡人であるぼくらは、それに気づいていながら、気づいていないのである。
 ラジオ体操をして、隣家に朝食をおよばれする、ただそれだけの日常の中に、手にハンコを押してもらうときめき、「よつばしんぶん」をつくって引き起こされる大騒動、絵の具で牛乳もどきをつくって父親に飲ませてしまう事件が詰まっているのである。大人の目線からは「大事件」になりきらかなかった日常は、よつば=あずまきよひこの手によって、驚くべき非日常に変換される。それが強烈などほのリアルな生活臭の中から必然的に立ち上がってくるのがまさに「子育てマンガ」「児童マンガ」としての『よつばと!』の凄さなのである。



 なあんつって、風香が電機量販店に出かけた時に、ダイエット用の乗馬マシンに乗るシーンが大ゴマで出てきたならば、「あー…巨乳の女子高生が制服で騎乗位になってっぽいのを暗示したいわけだよな。でなきゃ、いちいち乗馬マシンなんか無数にある電気製品の中で描写しないだろ!?」といちいちエロ脳変換しているのは、ぼくです。

*1:ちなみに、『モジャ公』は全集版。『ドラえもん』はてんとう虫コミックス版で、朝刊を持ってくる労働をして1日1円、30円分を貯めると何でも好きな本が1冊買えることになっている。

*2:念のため書いておくと、『よつばと!』11巻、73話における風香とその友人「しまうー」との会話。栗拾いにいくのに、場違いな街行きの格好をしてきた風香に、「しまうー」が問いただすシーン。ぼくのセリフが「しまうー」で娘のセリフが風香。