麻生発言はナチ肯定なのか?

 また雑感。雑感ばっかりですいません。


 麻生太郎のいわゆる「ナチス」発言についての、見事な分析。

麻生太郎のナチス発言を国語の受験問題的に分析してみる: ナベテル業務日誌 麻生太郎のナチス発言を国語の受験問題的に分析してみる: ナベテル業務日誌

 リンクを読むのが面倒なお前らに簡単にまとめを書いといてやる。
 「冷静に、静かに論議する」流れと、「喧噪の中、わーわー言いながら騒ぐ」流れの二項対立が麻生の頭の中にあり、前者には自民党内での改憲案作成プロセスや騒がれる前の靖国参拝があげられ、後者には政治問題化した靖国参拝や現状の改憲論議があげられている。ナチのたとえは前者に分類されている、というのが渡辺の整理である。ゆえに、ナチの話は明らかに麻生にとって肯定的な文脈でとりげられているのだ、と。


 ぼくは麻生発言の全文を読んだ時、前半部分(渡辺輝人の分け方でいうと1・2)でナチ批判っぽいことを言っているように思えるが、後半(渡辺の分け方では11)明らかに「あの手口、学んだらどうか」とナチのやり方を奨励するかのように思えて、両者が分裂しているように感じられた。
 この前半部分があるために、「麻生の発言は『反面教師としてのナチ』なのだ」とか、「前半と後半が分裂している」「支離滅裂」という印象を与える。


 渡辺の整理は、この混乱をほどいてくれた。

麻生は「政治の中身としてのナチ」を悪だとは思っているんじゃないか

 前半の1・2では「善し悪しは別にして、すごい憲法内容の転換をやりとげちゃったナチの手口」の詳細な紹介として登場する。11ではその手口を学んだらどうか、と言っているのである。
 読む人を混乱させるのは、麻生はここでナチを一応「悪」のようなニュアンスで語っていることだ。「のちにホロコーストや弾圧、戦争による破局をもたらした悪い政権のナチ」という価値観を、麻生は持っていると感じられるのである。
 そういう悪い政権が、前の憲法にのっとって、選挙で・合法的・民主主主義的に登場してきた――ということなのだが、読んでいる人の教養がここで邪魔をする。「暴力と戦争のナチズムは選挙や民主主義の中から台頭してきた」という話は、民主主義のパラドクスを言い表す、よく知られたたとえである。ナチのような危険で悪いものが、民主主義の中から出てくるので気をつけなさいよ、ということのたとえとして。
 読む人は麻生の1・2を読んで即座にそれを思い出す。
 なので、ここで麻生は「ナチ=悪い政権」という認識を持っているのだな、という印象を受けるのである。そしてそれは印象だけではない。おそらく、麻生は本当にそう認識しているのだとぼくは思う。*1
 さらに、それを憲法改正論議とからめているので、「改憲論議を冷静に静かな環境で騒がずにやったらナチ的なものになっちゃうかもしれない」というふうにも聞こえ、反面教師的ニュアンスを受け取る。サヨクっぽい言い分でさえある(笑)。
 しかし、こういうふうにだけ解釈すると、そのあとの「冷静な議論と喧噪の中での議論」という二項対立の話が意味不明になってしまう。ぼくも意味不明だった。

「中身は悪いが、それと切り離した方法や手口は別」という考え

 麻生はおそらく「ナチはホロコーストなどの悪いことをした政権」だという認識はあるだろう。聞かれればそう言うに違いないし、その後の釈明会見ではそういう趣旨を答えている。「ホンネではそうは思っていない」というのは穿ちすぎだろ……という人が多いに違いない。麻生を「ナチス礼賛論者」だと単純に規定すると、違和感を覚える人が出てくるし、その違和感は当然だと思う。


 問題は、「ナチスは悪い中身の政治をしたけども、その方法論は見事だった。180度かわるような大転換をやってのけてしまったのだから」という認識を麻生が持っていることなのだ。中身はダメだが、それと切り離した純粋な手口や方法は学んでもよい、という認識が麻生にはある。


 ヒトラー好きの少年だった経歴をもつ紙屋某は、中学時代「ヒトラーユダヤ人虐殺は許せないが、それとは別にドイツ国民を煽動した彼の統率力は大したものだった」と言っていたことがある。黒歴史だけど。完全にアウトだけど。
 それと同程度の認識を麻生はしているのだ。


 「ナチズムの中身はダメだが、手口は学ぶところがある」と麻生が思っていると解釈すれば、1から12までの話が一貫性・整合性をもって浮かび上がる

中身と切り離した手口の礼賛はOKか

 さて、では政治の中身と切り離した方法や手口だけのナチズム称揚というのは現実の国際政治の価値観の中で免罪されうるか。


 答はもちろんノーである。


 第一に、多くの人が指摘しているように歴史的事実として間違っている。ヒトラーによるワイマール憲法の停止、全権委任法の成立は、国会放火事件にみられるようにまさに暴力と弾圧のなかで行なわれたものだからだ。静かな、民主主義の合法的プロセスだというのはナチズムの台頭(議席の伸長)には多少当てはめられることはあるかもしれないが*2、少なくとも憲法の転換をやってのけた部分については、まったく当てはまらない。


 第二に、たとえば統率力・指導力・煽動力のような部分であっても、それをナチズムの中身と切り離すことはできないということだ。「ナチズムの政治の中身とそれを推進した方法は一体のものだ」という歴史研究の問題もさることながら、それをおいといたとしても、「統率力・指導力・煽動力についてのプラスの価値を論じるにあたって、なぜわざわざナチやヒトラーの例をもち出すのか」という国際政治の批判には耐えられないだろう。


 第三に、その切り離しをしてもなお、手口の称揚だけであってもヤバいかもしれない、という認識が麻生の頭の隅にあったかもしれない。
 ひいき目でそう見てみる。橋下徹が麻生を擁護して「ジョークだ」といったのと同じ目線で。身内っぽい価値観の集まりで、気が緩んだのかもしれない。
 だけど、それはまさに気が緩んだということなのだ。そしてその気の緩みは後で取り消してもダメな性格の気の緩みなのである。なぜなら、麻生という政治家の本心が透けてしまったから。
 その本心とは何か。
 「ナチズムのすべてを礼賛している政治家」という麻生像にはリアルさがないけども、「ヒトラーが権力掌握した過程は、本心ではなかなか見事だったと思っている政治家」という麻生像はあまりにリアルで生々しい。「手口も含めてナチはダメだと思います」という釈明をしたとしても、それはタテマエをしゃべっている感じがする。要はそういう政治家としての本心を見透かされ、ノーと言われているのである。

*1:ただしこの部分は別途に検証が必要。ここでは仮に麻生が「ナチスの政治の中身=悪」という認識をもっていたとしても、という前提で話をしていくことにする。

*2:この過程さえも、多くの暴力や騒動に包まれていたわけだが。