「コナン」と70年代的な教育・文化運動の子ども観

 「未来少年コナン」の第3回目を見る。

 

未来少年コナン Blu-rayボックス

未来少年コナン Blu-rayボックス

  • 発売日: 2013/07/26
  • メディア: Blu-ray
 

 

 コナンがジムシーと出会う回で、「はじめての仲間」というタイトルが付いている。

  • 自然の中にいる子ども。自然と触れ合う子ども。
  • 見知らぬ相手と遭遇して喧嘩や競争を経て得られる相手への敬意。
  • 逸脱を通じて仲間になる儀式。

 観ながらずっと感じていることだけど、ここで展開されている子ども観は、1970年代の教育・文化運動にある子ども観で(1970年代のアニメだから当たり前だが)、そのころを一つの隆盛期として記憶に持っている教育・文化運動の中で、今日でも依然として引き継がれているものでもある。

 娘が小学校の6年間を通じてかかわっていた少年団的な団体(今年卒業し退団した)で親のぼくが「学習」をしたり、「講座」のようなものを受けたり、議論したりする際に、そうした子ども観の称揚をよく感じた。

 例えば以下はその少年団の学習会で使ったテキスト(増山均『大人と子どもの向き合い方 子どもの権利条約の視点から』2018年)の一部である。

(4)自然とのかかわりをたくさん持ちましょう

 子どものからだそのものが、自然の一部です。夜になると眠る。朝になると起きてからだを動かす。大地を踏みしめ、風に吹かれ、太陽の下で遊ぶことが、からだとこころの成長にとって、不可欠の栄養素です。自然の姿が見えにくくなり、季節感を感じることができにくくなった都会でも、窓辺の植木鉢や、道端の小さな植物に自然の営みを見つけることができます。移ろい行く雲・光・夕焼け、虫や鳥たちの姿にも目を向けてみましょう。そして、時には、近くの広場や郊外の公園に出かけてみましょう。田舎に暮らしている祖父母や親類があれば、親子で出かけてみたいですね。自然と人間のかかわりの苦労や知恵を学び、自然に働きかけて作物を生産する努力も伝えたいですね。(前掲p.29)

 

(3)子ども同士でもっと遊ばせてください

 子どもの世界は遠慮のないきびしい世界です。やられたらやり返されるし、いじめあいだってあります。そこから子どもを引き離すのではなく、その中でその子らしくたくましく生活できるように、少し親は距離を置いて見守ってほしいですね。小さいうちは子どもの間にトラブルが起こっても、彼らは仲直りできます。許し、許されるという経験を積み重ねることで、人は他者への信頼感と思いやりを身につけることができますが、そういう体験を子どもは仲間との遊びの中でくり返します。(同前p.28)

 

桃太郎は、なぜ家を出たか

 親離れ、子離れの苦労は、きっと昔からあったんじゃないかといます*1。 その代表があの「桃太郎」の昔話ですよ。…大切に育ててきた子どもを、危険な世界に親は簡単に送り出したくはないと思います。…とても納得できるものではないけれども、おじいさんは自分の思春期を思い出し、桃太郎の気持ちもわからなくはない。一人前にするには、一度家から出さねばならない。…(同前p.44-45)

 

13歳になるまでに親ができること

…このエネルギーが弱い子どもは、大人っぽく見せるためにタバコをすったり、服装を派手にしたり、「目立つ」ことをしてみたりします。後ろ向きだけれど、そこには「自立したい」という願いが込められていると思うのです。(同前p.45-46)

 

 前の記事の注でぼくは

義母は左派系の教員「活動家」であった。当時新日本婦人の会などの女性団体が「低俗」なアニメや番組を批判する運動を展開していて「健全」で大人も子どもも共有できるようなアニメの制作を提案していた。その成果としてNHKのアニメの枠があり、「コナン」がある…と1990年代後半に、ある新日本婦人の会の大物幹部を取材した時に聞き、資料を見せてもらったことがある。

 と書いたのだが、あるブログでこれを裏付ける記事を書いてくれていた。

 1998年5月23日・24日付「しんぶん赤旗」に掲載された「子どもとテレビ」という座談会で、新日本婦人の会の井上美代とアニメーション映画監督の有原誠治が対談して次のように述べていた。

井上 コマーシャリズムに走らない、よいアニメを放送してほしいとNHKに要望して、78年にNHKで初めてのアニメ「未来少年コナン」が誕生しました。

有原 こちらの「コナン」は、未来の地球を舞台に主人公のコナンが仲間と出会い、さまざまな冒険をしていきます。宮崎駿さんらが演出しました。

  (「こちらの『コナン』」とは『名探偵コナン』との比較を指している。)まあ、これは運動側からの証言なので、さらなる裏付けは別に必要なのだろうが、ともかくこのような時代背景があることを踏まえて「コナン」を見ると、そこに1970年代の教育・文化運動、それも左派的なそれの影響を見ないわけにはいかない。

 「コナン」はこれから「都市と農村の対立」(『共産党宣言』)、そこにおける民衆の蜂起という問題を扱うことになる。

 

 ぼくはこれらの教育・文化運動に半身を突っ込ませる反面で、それをなんだか白けてみている自分もいることに気づく(だから前掲の増山の本には、ぼくの疑問的注釈がいっぱいメモにして書き込まれている)。

 拙著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)の「あとがき」でぼくは次のように述べました。

 ぼくは、子ども劇場のような、折り目正しい文化運動の主張も理解できます(だからこそ、子どもを預けているわけですが)。

 他方で、殺し屋とヤクザの女子高生が首都圏を舞台に壮絶な殺戮ゲームを繰り広げる、高橋慶太郎のマンガ『デストロ246』(小学館)をぼくと娘で楽しんでいるという風景もまたリアルな現実なのです。(前掲p.198-199)

 

 

デストロ246(1) (サンデーGXコミックス)
 

 

 

 だから、「コナン」をみていると、オタクとしての蠱惑的な欲望と、コミュニストとしての正論と、その分裂を味わうような気持ちになるのである。

 

マンガの「超」リアリズム

マンガの「超」リアリズム

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2018/04/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

*1:原文ママ。「思います」のミスであろう。