※このエントリをきっかけにして、本を出しました。
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784098252077
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20140921/1411290361
ごみ収集のサービス(の一部)を受けるには、自治会に加入しないといけないというこの話。
元増田が引っ越した鹿児島のある自治体では、ごみをステーションに捨てようとしたら「お前は自治会に入ってないからこのステーションは使えない」と言われたというのだ。
元増田は、ごみ収集は自治体(市町村)の仕事なのだから、税金で支出されるべきで、自治会費負担をからませられてはかなわない、と主張する。これにたいして、はてブのコメントでは、
自治ってこういうことだろ、住んでる所によって行政サービスや経費が異なるのは当たり前じゃないのか?それが自治だろ。全国一律じゃないとオカシイみたいな考え方こそオカシイ。住みよい所にさっさと引っ越し
id:rider250
こういう、「俺の考える事は正しくそうしてもらうのが当然。俺には権利があり相手には義務がある。」って考えはどんどん生き辛い世の中作るよな。とりあえず行政がすべきと考えるなら増税には反対するなよ。
id:komachiyo
と厳しいコメントが目立つ。
必要最小限のサービスは公が税金で行なうべき
公がすべきサービスは税金で負担され、私的に必要なサービスは自分でするか自前でカネを払う、という概念上の区分がまずある。
たとえば掃除。日本中の土地は所有者があるのだから、その掃除はその所有者がおこなうというのが基本だろう。
でもなかなかそうはいかない。
たとえば道路、公園、河原。
所有者である行政側は一定の期間ごと、あるいは、問題が指摘されるたびに掃除をしたりするんだろうけど、それじゃあ間に合わない。そうなると、いつも汚れている。町が暗い雰囲気になってしまう。
そこで、行政の清掃を待たずに、「地域のみんなで」掃除するということになる。
その場合、税金でまかなわれるべき公の部分は、住民サービスとして必要最小限のものだ。だからこそ税金という全員が応能で負担すべき拠出でまかなわれる。この部分には、たとえば団地やマンションなどの共益費も入る。契約を通じて住民全員が拠出している。
強制的に拠出を義務づけられる部分であり、それはその地域全体の住民の、保障されるべき権利とセットになっている。
それにたいして、「地域のみんなで」という部分は、どういう性格をもつのか。
結論からいえば、この部分は、選択的なものだ。
そのサービスの効果を得たい人が自発的に集まってやることが基本である。さっきの例でいえば、ひんぱんに掃除をすることで「明るく住みやすい地域にしたい」という人が有志で集まって、掃除をすればいいのである。*1
自治会・町内会は強制加入団体ではない
なぜそうなるのか。
実は、ブコメ欄でもリンクで紹介されているが、
http://worldcafe-emanon.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html
2005年4月26日の、自治会費等請求事件に対する最高裁判所第三小法廷の判決では、町内会は「強制加入団体ではなく、加入・脱退は自由」だという判断をくだしたからである。ただし、この事件では共益費が自治会費に含まれていて、その部分は支払う義務があると判断した。
自治会加入と自治会費は任意。共益費は義務。
これが日本の司法が現在下している判断である。
この判断が描く自治会・町内会像は、自治会・町内会とは、サークルやNPOのような任意加入団体であり(一定の留保条件がつくが、それは後でのべる)、自治会・町内会の仕事は任意のもので、やりたい人がやっている、ということになる。
元増田の悩みは正当である
最初にあげた例では、行政がそのような任意団体に行政のサービスを委託しているということになる。これは行政がNPOに委託しているのと同じだ。
そのさいに、行政がNPOに、そのサービスの費用負担分の徴収を含めて委託することもあるだろう。しかし、その場合、費用負担の実費を補償することが原則になるはずで、自治会のような多岐にわたる活動の全体をカバーする費用負担を、「条件」にすることは許されない。
このケースをよくみると、「衛生自治会」に別に入れば、その分の費用だけでもいい地域もあるようだが、第一に衛生自治会がない地域もあるようだし、第二に衛生自治会の活動はおそらく、ごみ収集だけではないだろうということだ。他の事業の費用負担まで元増田は求められるいわれはない。だから衛生自治会にだけ入るのは、多少費用を安くするけども、問題を解決していない。
さらに、自治会に入らなくても自分でごみを捨てにいけるということになっている。よく調べないとわからないが、
・一般ゴミなどについては直接埋め立て地まで持って行ってもらう(ちなみにだが自分が住んでいるところから埋め立て地までは結構遠い)
とあるように、遠く離れている埋立地まで個人が週に何度も持っていくことは非常に困難だ。自治会費を払わねば、ごみ収集から事実上排除されているといっていいのではないか。
つまりだ。この元増田は、自治会への加入をしなければ行政サービスを事実上受けられない、あるいは非常に受けにくいようにされている。これは自治会は任意加入だという最高裁の判断に反する。
ゆえに、ぼくは、本来なら元増田の言うように、ごみ収集は自治体の責任であるから、自治体が責任をもって収集すべきである。ブコメにもあるとおり、廃棄物処理法で市町村の収集の責任が定められている。
廃棄物処理法 第六条の二 市町村は、一般廃棄物処理計画に従つて、その区域内における一般廃棄物を生活環境の保全上支障が生じないうちに収集し、これを運搬し、及び処分〔…中略…〕しなければならない。
ただし、そのさいに、民間にごみの収集を委託し、費用弁償や補助金を渡すことはありえなくはない。
ゆえに、市町村が町内会・自治会にステーション管理を委託し、そこに補助金を渡すのまではいいとしよう。でも受益者(ごみを出す人)から別途に料金を集める仕組みを導入し、さらに自治会加入までをからませるのは、幾重にも間違いを重ねることになる。自治会加入にかかわらず、だれでも利用できるようにすべきだ。元増田は、税金→補助金という形でこの事業のスキームに参加しているのである。
なお、「ごみ収集は市町村の仕事だから、税金の範囲でやるべきだ。別途に料金を集めるべきではない」という論点は、この記事の末尾に補論として付け加えたので、気になる人はそっちをみてほしい。
町内会・自治会の全員・強制のルーツはどこか
ぼくが考えたかったのは自治会・町内会とは何なのか、ということ。
元増田の記事は、書き方こそふてぶてしいが、自治会・町内会への強制加入の厳しい圧力、および行政まで一体となってそれをやろうとしている空気がよく伝わってきて、ぼくは同情したのである。
ぼくはいま住んでいるところで自治会長をやってきて、今も形を変えてやっているが、そこでの様々なイザコザを通してたどりついた結論は、自治会・町内会とは任意加入の組織であり、ボランティア(自発性)が基本であり、一切の義務や強制から解放されてなければならないということだ。だから、さっき紹介した最高裁判決と考えは同じである。
町内会・自治会が全員加入制を基本として、それを強制加入性とセットにしているのには、おそらく二つのルーツがある。
このような地縁による住民組織の誕生を歴史的にみると、中世の「惣村」にさかのぼるといわれています。惣村は、水利や自衛といった生活・生産の維持、再生産のための不可欠な仕事を共同して担う組織であり、その地域に住む住民で構成され、寄合での合議で運営されたものです。(中田・山崎・小木曽・小池田『町内会のすべてが解る! 「疑問」「難問」100問100答』じゃこめてい出版、p.14)
農業には共同性が不可欠であり、ぼくの実家では今でも地域の「川ざらい(川浚え)」を総出でやる。参加しないでは生活と生産が成り立たないのだ。
もう一つは、コレ。
太平洋戦争期に入ると、政府は全国民を戦争に協力させるための組織として、1940年に、内務省訓令によって町内会・部落会の全国的な整備を行いました。これによって、それまでまちまちだった住民組織が一つの制度のもとに整備され、全国共通に町内会という名前で呼ばれるようになりました。(同前p.15)
とりわけ第二次大戦期における全国民の「強制的画一化」(雨宮昭一『総力戦体制と地域自治』青木書店、一九九九年)の推進という歴史的経過をたどることで、現代の町内会の形ができてきたのである。(中田実『地域分権時代の町内会・自治会』自治体研究社、p.36)
前者は、農業が衰退し、人口の大半が直接農業にはかかわらなくなってその根拠が消滅する。
後者は、戦争の道具になった経過から戦後町内会がGHQに禁止され、占領終了後もいまだに町内会・自治会が国の法律上は一度も位置づけられていないことにみられるように*2、全員が加入すべき存在として扱うことに、国は慎重なのである。
自治会の連合会などの会合に出ていると、「自治会は本来行政の末端であるべきだ」と主張する、オールド保守のおじさんがいてびっくりする。それは行政の下僕になりたいというMな性癖の吐露ではなく、「自治会・町内会とは任意の団体ではなく、全員が参加する義務を有する公民的組織なのだ!」ということなのだろう。
加入を義務化すればラクではあるが……
たしかに、全国を見渡すと、自治体レベルでは条例などで加入を「義務」だとしているところもある。そういうふうにしてしまえば、楽だし、スッキリはする。
「戦争の動員の道具になった経過からすれば、それはダメだ」とぼくが言えば「まーたサヨクがなんか言ってるよ」と思うだろうから、そういうロジックでは言わないけども、町内会・自治会が行政の末端になれば、望みもしない行政の旗ふりを地域でお前ら自身が担うことになるわけだぞ。
たとえば、福岡市ではユニバーシアードという学生のスポーツ大会を開くことになって、そのチケットさばきを事実上町内会に押しつけられた。当時福岡市では、「町世話人」という名前の公務員が地域にいて、それはだいたいが町内会長が兼ねていた。公務員なので行政から手当がでる。だけど、年老いた町内会長がそんなものの普及・宣伝を一人でできるはずもなく、事実上はそれは町内会に押しつけられていくのである。
これがもっとスッキリする。悪い意味で。
町内会にストレートに行政のイヤな仕事が降りてくるのである。たとえば東京でオリンピックが開催されたら、そのチケットさばきを町内会がやるのだ。え? 喜んで我先にやるって? あそう。じゃあ、他の例でもいいけど、まあそういうことが住民に押しつけられるってことなんだよ。
ぼくの地域で始まった「役務強制ゼロ・自治会費ゼロ・寄附とボランティアのみの自治会」
ぼくは自治会長であるが、さまざまな行政の末端の仕事や、校区行事への強制参加を押しつけてくる校区を事実上抜けた。脱退が事実上不可能な規約になっているので、脱退ができない。ではどうしたか。ぼくが会長をやめて、後継が出ないことで自然に自治会を休止させたのである。休止した自治会に何が「要請」されようとも、がらんどうの廃墟に向かって届くだけなのだ。
うちの地域では休止した自治会にかわり、新しい自治会が立ち上がった。ぼくはそこの代表に選出された。
新しい自治会は、強制的に輪番で役を回すのを一切やめた。というか役っぽいものをやめた。出てきても出てこなくても自由の「世話人」というものを10人ほど手をあげてもらった。完全に自発的なものだ。
また、「住民が自治会への加入の意思を表明し、その加入者から自治会費を徴収する」というしくみも一切やめた。つまり自治会費はゼロ円となり、逆に「対象」は地域の住民すべてになった。だれでも参加できる権利を持ち(参加しない権利も持つ)、だれでも恩恵にあずかれる。「フリーライダー」は原理的に消滅する。
すべてボランティア。文字通り「自発的」なもの。合言葉は「『今回は参加できません』とハッキリ・気軽に断れる自治会」。
財源は寄附と事業収入のみとした。つまり夏祭りで少しもうけるとか、バザーでちょっともうけるとか。まあ、もともと自治会費ってカンパみたいなもんだろ。払わない人は払わないわけだし。
そして、やれること・やりたいことしかやらない。「もっとこうすべきだ」という意見があれば、その人が同志を募ってやる。義務は一切なし。会計や広報もできる範囲でいい。
みんなでやる、つまり共同の労働力支出として、いまやっていることは「夏祭り」と「もちつき」だけ。あとは、せいぜい「放置自転車の撤去」くらいだろうか。
それもやりたい人が準備し、やりたい人のみがスタッフになる。強制は一切ない。会費も頼りではないので、事業として少しは収入を出そうとみんなが気構える。ボランティアのスタッフの結束は前よりもはるかによくなった。
それ以外に、行政や団地の運営主体に対して、団地を代表してモノを言う。また、代表としての仕事をおこなう。いわば地域代表性の機能をもっている。実際にアンケートにもとづいて、これまでも行政などへ要請をおこなってきた。放置自転車の撤去だの防災倉庫や来客用駐車場の設置だの、である。それは代表であるぼくと、若干名くらいがやっている。
いずれにしても、それらは義務ではない。決定された事業計画にしばられたものでさえない。しいて言えば、代表であるぼくや他の世話人が「やりたいからやっている」というほどのいい加減な「事業計画」である。
ここでは民主性は次のように担保されている(または担保されていない)。
10人ほどの世話人が合議で自治会を運営する。
加わりたい人は手をあげれば基本的に誰でも世話人になれるし、世話人にならなくてもこの合議には誰でも参加できる。いちおう事前の議題と結果は貼り出している。貼り出すかどうかも義務ではないのだが。実際、来たり来なかったりするメンバーもいるし、毎回の会合で全然知らない人が1人か2人くらい来たりした。
もっとしっかりした自治会全体の総意を集めてモノゴトを決定したい場合は、その決定したい人が、コストを払う。つまり委任状を集めたり、総員に呼びかけたりする「民主主義のコスト」を、その人とその賛同者がおこなえばいいというわけである。
中田らが押し出す自治会像、そこにはらまれた矛盾
くり返し紹介してきた中田実・山崎丈夫・小木曽洋司といったこの分野の研究者は、むしろぼくが代表を務めている自治会のようなあり方に疑問を覚えるだろう。
一番の批判は、ぼくの自治会イメージが任意団体という強調が強すぎるという点だろう。
中田らは、同著において「町内会は加入・脱退自由の『任意団体』か」という問いをたて、先に紹介した最高裁判決をあげながらこう書いている。
その判決〔…中略…〕の意味するところは、町内会に加入することを義務付ける法令がないということであって、直ちに他の任意団体と同じものということではありません。〔…中略…〕M・クレンソンがいうように、地縁団体は「ミニ公共」的な性格のものであって、「私的団体」とは異なるものです。(同p.91)
そして、この「ミニ公共」性を、自治会・町内会の地域代表性から導こうとする。
地域がそこに居住するすべての住民にかかわる共同生活の場であることを認めるならば、地域自治による何らかの意思決定が不可欠であることも承認されなければなりません。したがって、地縁組織からの脱退・非加入は、こうした意思決定に参加する権利を放棄することを意味することに他ならないのです。(同p.93)
この考えは半分あたっているが、半分は外れている。
つまり、自治会・町内会が、その地域区画のなかで唯一の住民代表団体であることはそのとおりである。義務的でない身近な住民サービスを実行する部隊としての自治会・町内会は、それ以外に、地域の意思を代表する機能をもっている。たとえばその地域にごみの埋立場がやってくるとして、それが是か非かを住民の意思として表明する必要がある。あるいは、その地域の交差点に信号をつけてほしいということを、個々人の要望ではなく「地域の総意」として表明する必要がある。
そのさいに、当該地域の全住民を包括しておく団体でなければならない。
それこそが自治会・町内会である。
ところが、現在のように、会費納入とセットで自治会・町内会への加入・脱退を考えると、無理が生じる。全住民が包括される必要がありながら、全住民を強制的に包括するために会費を払わせ加入意思を確認させるとなると矛盾となってしまうからだ。そして、この「加入している・会費を納めている」「加入していない・会費を納めていない」問題は、つねに「加入している・会費を納めている」側による「フリーライダー」批判を引き起こさせる。会費を納めもせず役もしない人間がただ乗りしている、というわけである。
この問題を解決するには、
というふうにするしかない。
NPOと自治会を区別するのは、ただ一点。その地域の代表的性格を有する、というそれだけだろう。
ただ、ぼくの自治会がこうした思い切った措置ができたのは、加入率が低いからで、ある意味開き直ることができたのである。*3
逆に、ぼくが今会長をやっている認可保育園の保護者会は、100%の参加で運営しているが、これを「任意」だと強調すればガラガラと崩れることは間違いない。同じようにいま100%近い参加で成り立っている自治会・町内会では、とても「任意」だとは言い出せないだろう。
だから、その気持ちはすごくわかる。
しかし、原理的につきつめれば、やはり任意であるといわざるをえない。任意であるとともに、それはその地域の住民の代表者であるのだ。
補論――ごみ収集は税金でおこなうべきか、別料金でおこなうべきか
以下は、上記の本論とは関係のない話。「ごみ収集は税金でおこなうべきか、別料金でおこなうべきか」という論点だ。
読みたい人だけ読んで。
このケースの場合、自治会の強制加入問題を回避しようとして即効的な改善をほどこすなら、自治会の事業でもいいので、ごみ収集のためだけの費用会計を明示した別事業をつくり、そこへの拠出であることを明確にした料金入金のしくみをつくることだ。「まちのごみ収集事業/1家庭月100円の拠出でサービスが受けられます」――こういう看板を掲げることだ。
しかし、税金とは別に、ごみの収集にもう一度課金する方式については是非の論争がある。ごみ袋を有料化した自治体で論争になった。福岡市ではこんな感じ。*4
このやりとり、市側はかなり苦しい印象を受ける。
従量の料金体系を組み込むことで、ごみをより多くだす住民にペナルティ感を与えたいという意図が先にあって、法解釈は無理矢理だという気がする。