「ぼくは娘の保護者になれない」というエッセイを日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」誌第243号(2021年1月1日号)に寄稿しました。「これでいいのかニッポン!」というリレー連載のコーナーです。
夫婦同姓の強制によって、事実婚ではどのような不利がもたらされるのかということを書いています。
事実婚は共同親権にならないので、父親であるぼくには親権がありません。そのために学校教育法で定める「保護者」にはなれないのです。
さらに、「名前を変える」ということについて書いています。
「千と千尋の神隠し」や中野重治「ヒサとマツ」を思い出したので、そのことを書いてます。
湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて本当の名前はしっかり隠しておくんだよ
「ヒサとマツ」はごく短い短編小説だ。奉公に出される子どもが、奉公先のおかみさんと名前が同じになってしまうので、まず最初に名前を変えさせられる話である。
目たたきするほどのあいだヒサは迷った。承知しても、ほんとによかろうか。母親のつけてくれた名ということが頭にちらりとした。
「ヒサという名はおっかさんがつけたんじゃ。」それは何十ぺんも聞いて育ってきた。それは、ヒサという名に結びつくヒサ全部が母の手でつくられたということのようだった。母親の愛情と権威、それが「ヒサ」だった。それが今消える、手軽に……
「わかったの……」といったおかみさんの言葉が耳でひびいている。ヒサは、悪事をはたらくようにおどおどしてうなずいた。声は出なかった。(中野重治『五勺の酒・萩のもんかきや』所収)
名前を変えても平気な人ももちろんいます。
しかしアイデンティティが奪われるように感じる人もいるのです。