夫に関心がなくなる
「中高年のセックスレス 『夫婦関係の希薄化』指摘」という読売新聞(2014年9月26日付、岩永直子記者)の記事が眼にとまり、貪るように読んだ。
なぜ貪るように読んだのか。
「お前自身のことだからだろ?wktk」と下世話なことを言いたい、中高年ならぬ中高生男子100%なお前らに、面倒だからまず我が家の実態について最初に語っておいてやるとするか。この馬鹿野郎。
我が家では、まず子どもが寝静まるのがだいたい午後9時半ごろである。ぼくは起きていることもあれば、そのまま寝かしつけて寝てしまうこともある。そんななかで驚くべきことは、(以下略)
さて、記事に戻ろう。
記事によれば、学者や医師のグループでつくる「セクシュアリティ研究会」というところが、40〜79歳までの既婚者863人に行った調査だ。記事では1999-2000年の調査(00年調査)と、今回2011-2012年の調査(今回調査)を比較している。
1年間全く性交渉がないのは、00年調査では2割台だったが今回調査では5割台に倍増している。スゲエ。
性欲減退が理由かといえば、記事は「主な原因ではない」という。これが記事タイトルの「夫婦関係の希薄化」なのだ。「夫婦関係の希薄化って、性欲減退のことじゃねーの?」と思うだろうが、夫の半分は「相手の関心の喪失」を、妻の4割は「自分の関心の喪失」をセックスレスの理由にしている。「配偶者に求めても満たされない人が特に夫側で増えた」としている。
これをつなげてみると、「夫が求めているけども、妻が関心を失ってセックスレスが増えている」というふうに読める。ちなみに、男女ともに自慰は倍増しているという。
研究代表者の荒木乳根子は、「夫婦関係の希薄化」とともに、「性規範の緩みが影響している」という。配偶者以外の異性と親密な付き合いがある人は3倍になっているからだ。婚外交渉も「家族に迷惑がかからないなら構わない」とする人が男女ともに倍増している。
この部分は、夫が先か妻が先かはわからないんだけども、相手への関心が薄くなったのなら、別に外の人とセックスしてもいいんじゃない? というような考えが多くなって、セックスレスや希薄化を放置・加速化させているということになる。「家庭外で性を満たす動きは加速している」(荒木)。
記事の最後は、介護の現場にからめた記述で、「体が弱るほど、死が迫るのを実感し、人肌のぬくもりに触れて安心する人は多い」という荒木の言葉が紹介されている。
渡辺ペコの短編「ひとはだ」
そんな折りに読んだのが、渡辺ペコの短編集『ペコセトラプラス』(幻冬舎)であった。
そのなかに「ひとはだ」という。6ページの短編がある。生まれてから介護を受けるまでの女の一生が描かれ、他人が自分の肌にどうふれようとしてきたか、を人生の6場面で描いている。
5ページ目には
子どもが小学校に上がった頃から
夫はわたしに触れなくなりました
月に2回ずつの
マッサージと
ダンスのレッスンを
わたしは
心待ちに
したものです
とあった。
パートナーが体・肌に触れないという問題と、他人の、そして公式には何ら性的でない「ダンス」と「マッサージ」を「心待ち」にするバランスの崩しようというか、保ちようを何とも奇妙なものだという思いで読んだ。
自分の一番深いところから出てくる欲求を抑圧して飼い殺そうという不健全さ。
前から時々書いているけど、やっぱり一夫一婦制っておかしくないだろうか。
避妊の技術がこれだけ発達した社会なのだから、生殖と快楽追求はもっと分離が進むべきだし、仮に妊娠したときの責任を負えるのであれば、夫婦間で契約や合意を結んで、家庭外で満たせるような規範意識の持ち方をもっと認めてもいいのではないか。
ちなみに、「ひとはだ」の最後は、介護である。おむつをした女性が清拭を施されている。
彼女たちの
手は
今までで
いちばん
やさしいように
思います
というセリフの「今まででいちばん」という意味は、その前の抑圧された場面があったからのようにも読めるけど、福祉を公然とした目的としたサービスであるからではないか。肌に触れてくる方に邪念がなく、肌にふれること自体を無心に追求できるということだ。だから、本当は「ひとはだ」の最初にある、同じようにおむつをした赤ん坊時代に病院でお世話をされることも「いちばんやさしい」はずなのである。憶えていないだけで。
「福祉介護におけるボディケア」と「風俗サービスによるデリバリーヘルス」をあえて挑発的に並べたNONのマンガ、『デリバリーシンデレラ』(集英社)は、理念として「公正な性的サービス」を示そうとした。しかし、現実にはそのようなものは、少なくとも今のところ存在しない。
だが、もし、「公正な性的サービス」というものが現実に構築できるなら、合意・契約のもとで一夫一婦制の倫理規制をゆるめ、「ひとはだ」を家庭外に求めることはできるし、合理的だとも言えるのではないか。
「ジャグリング」という短編
今の話題とうっすらと関連しつつ、別の話題だけど、『ペコセトラプラス』の冒頭には「ジャグリング」という短編がある。
編集者とおぼしき女性が、妻子もいる担当作家を、はじめは仕事への敬意から、そして次第に男性に対する好意へとふくらんでしまう気持ちを手なずけようとする話である。
「憧れ」だの「敬意」だの「好感」だの「興味」だの、そして「下心」だのといった感情が次々に生まれる。
しかし、生まれた感情を潰したり、捨てたりできない主人公は、これをジャグリングしはじめてしまう。つまり手元で転がして、あやういバランスのともで管理しようとするのである。
この比喩、すごくよくわかる。
というか、渡辺ペコ、お前は俺か、とさえ思った。
ぼくが現在のつれあいとつきあって結婚し、現在にいたるまで四半世紀を経過したのだが、その間に、知っている女性に対して好意のようなものを一瞬でも抱かなかったかといえばそんなことはない。
その好意をまったく切り捨てるのではなく、わざと楽しみながら、大きくならないように管理している、手なずける、ということをやってきた。
ぼくの場合、動物を檻の中で飼うというイメージだった。
暴れて自分自身がそれに食い殺されてしまわないように、手なずけるのである。どこかで死んでしまうまで飼う。「これ、どこまで大きくなるんだ」「全然死なないな」「檻が壊れるぞ」──そういう緊張感がなくはなかった。
渡辺はこの飼いならしをジャグリングに例えた。
でもどうしても
捨てることはできないし
あんまり
深刻になるのも
おかしいので
わたし思わず
回し始めちゃったんです
はなかなかいい。動物の比喩より、そのあやうさがよく表現されていると思う。
そして、渡辺の絵は、滑稽な感じと、ぼく好みに美しくてエロい感じが出せていて、読んでいて楽しいのである。
その時期が通り過ぎてしまえば、ぼくの比喩でいえば飼っていた動物が死んでしまえば、どうってことはなくなる。「なんであんなものを飼ってたんだろ」とさえ思う。檻に入れておいてよかった。