『もし部下が発達障害だったら』『綿谷さんの友だち』

 佐藤恵美『もし部下が発達障害だったら』(ディスカヴァー携書)の冒頭に、いかにも上司がいいそうなセリフが掲げてある。

「おまえ、なぜ何度言っても同じミスを繰り返してばかりなんだ? 発達障害なんじゃないか? 病院に行って調べてもらってこい」(佐藤p.3)

もし部下が発達障害だったら (ディスカヴァー携書)
 

 ある人を「発達障害」とカテゴライズすることで、確かに本人もホッとしたり「納得」したりすることがある。職場もそういう特性の人なんだと認識することで配慮をしやすくすることもある。

 しかし、佐藤はあえてそこについてもう少し考えるべきことがあるんじゃないかと問題提起している。

特に問題だと思うのは、業務におけるパフォーマンスの問題と発達障害を安直に結び付けてしまうことです。〔…〕あまりにも拙速かつ無責任に障害を持ち出すことで、働く人それぞれの個性を見極め、能力を活かし、育てるといった社員育成の視点が軽視されてしまうのではないかと危惧されるのです。(佐藤p.4-5、強調は引用者。以下同じ)

  佐藤のこの本は、そういいながら、発達障害とはどういうものかという基本点から、個別に起こりうる問題への対処までを具体的に書いていて、ぼくは職場でこの問題に向き合っていく上で非常に参考になった。それはタイトル通りなのである。

 しかし、上記の引用のような視点が本書の冒頭に記されているように、「発達障害」というカテゴライズに安易に頼ることへの警告もしている。簡単に言えば、職場のすべての人にとって共通する、職場の構造的な問題や社員育成の欠陥、すなわち職場の普遍的な問題が見過ごされてしまっているのではないかということなのだ。

 特にグレーゾーンだと思われるような人たちに対して職場として必要なことは、発達障害という診断が医療機関において明確にされるかどうかではなく、どうすれば仕事がうまくいくかという観点で本人と職場がいかに有益な話し合いができるかどうかなのです。

 したがって、「発達障害」という言葉を使わずに、たとえば「口頭だけの指示だと難しいみたいなので、今後は口頭指示の後に簡単なメモを渡しますから、それを必ず確認してください」とか、「進捗の確認をこまめにする必要があると思うので、毎週木曜日の13時から20分間ブリーフィングを行いましょう」などと提案することもできます。(佐藤p.190)

 発達障害の特徴を持つ人「だけ」に有益なマネジメントをしなければならないとしたら、それは「特別」なことであり、上司や職場にとっては「余計な手間」と感じられてしまうかもしれません。〔…〕

 大切なことは「配慮」をできるだけ「特別なことにしない」ことです。

 「特別なことをしない」とはどういうことでしょうか。ひとつは「配慮することによって、本人の生産性が上がる」というアウトプットを意識することです。上司は部下にアウトプットさせることが業務ですから「その部下に必要な方法でアウトプットさせることである」と捉えれば、配慮もマネジメントのうちであると腑に落ちることができると思います。

 また、もうひとつは配慮の恩恵が本人だけでなく、できるだけ全体にとっての利益につながるような方法をとることです。「余計な手間」が「みんなにもいいこと」になるという工夫です。(佐藤p.193-194)

 このように述べて、佐藤は、もともと発達障害の社員のために行った作業の工夫が全体に恩恵をもたらす事例をいくつも上げていく。

 佐藤はそこまで言わないかもしれないのだが、ぼくは発達障害への対処を真ん中に置くことで、職場の作業上の問題点や社員育成のシステムの欠陥が浮かび上がってくるという、いわば批評的な役割を果たすことになる、というものとして読んだ。

 

 大島千春『綿谷さんの友だち』は、高校生になった「綿谷さん(綿谷硝子、わたや・しょうこ)」が「主人公」である。綿谷さんは、皮肉が通じない。言葉通りに受け取る。真面目すぎるほど真面目である。 融通がきかないほどに。それゆえ隣の席になった山岸知恵は調子を狂わされてしまう。

 

綿谷さんの友だち 1 (ゼノンコミックス)

綿谷さんの友だち 1 (ゼノンコミックス)

  • 作者:大島千春
  • 発売日: 2019/10/19
  • メディア: コミック
 

  こう書けば、「ああ、綿谷さんは発達障害なんだな」と思う人がいるだろう。

 しかし大島の本作では、そうした言葉や綿谷さんについて規定は(少なくとも1巻では)一切行われない。綿谷さんを「発達障害」とか「自閉症スペクトラム障害」とか、そういうふうにカテゴライズしないという作者の強い意志を感じる。

 綿谷さんはむしろこの高校社会の批評者である。

 「健常」とされてきた他の人たちが抱えている「病理」がむしろ綿谷さんの批評にさらされ、抉り出される。

 山岸知恵は、相手とうまくやることを第一にして空気を読んできた。そこに綿谷さんは

――…自分の

気持ちや考えを

伝えるために言葉があるのに――…

言葉通りの何が悪いの?(大島p.22)

 とツッコミを入れる。

 あるいは、周りから浮かないように我慢をして言葉を飲み込んできた吉村葵は、綿谷さんが日直日誌を実に丁寧に記載していることに驚く。「テキトーにやればいい」「真面目に書くなんて恥ずかしい」という思い込みを批評されているかのようだからである。

 このようにして、綿谷さんのクラスメイト一人ひとりが、綿谷さんの立場の世界から問われ、逆転させられ、批評される。

 この物語は、クラスメイトの名前が1エピソードごとのタイトルになっている。

 そう、まさに、この作品の真の主人公は「綿谷さん」ではなく、「綿谷さんの友だち」なのである。綿谷さんは、その「友だち」に何かのきっかけを与えるいわば狂言回しのような役回りなのである。

  「障害がある」とされた人が実は世界の正しさを体現しており、「健常な世界」こそ病んでいるかもしれない、という問題設定はかつての「反精神医学」運動を想起させる。

 このテーマは単に過去の問題、つまり、「空気を読まないとサバイバルできない学校社会」の問題ではなく、今のぼくらの職場の問題であり、ひいては日本社会全体の問題である。

 「発達障害」とされた視点から世界をひっくり返して見てみて、それによって世界を変革するということもできる。